終わりなき旅
増田朋美
終わりなき旅
終わりなき旅
朝から降り続いた雨は、午後には止んだ。まったく、今年は、雨の季節が長いということで、作物のなりが悪いとか、体調を崩したりとか、そういうひとが増えているようだ。
まあ、世の中は、発疹熱の影響で、恐慌と言えるほどの不況の真っ盛りであったが、マーシーこと高野正志がやっているピアノ教室は、まったくその影響を受けていなかった。いつも通り生徒さんはやってくるし、止めていく生徒は誰もいない。むしろ、このような世の中で、子供のころ習っていたピアノを再開したいという大人が殺到し、マーシーが主宰するサークルには、定員オーバーしてしまいそうなほど人が集まっていた。本当にこんなでいいのかなと思われるほど、マーシーのピアノ教室には、入門希望者がやってきたのである。
その中で、生徒の一人に、香西千秋という女性がいた。彼女は、マーシーのもとに通って、10年近くなる古株である。マーシーも、彼女のピアノのうまさにはある程度関心を持っていて、彼女を指導する際には、一寸力を入れないと、と思っていた。マーシーも、音楽学校を出ているわけではなかったから、さほど難しい楽曲は指導できなかったが、彼女はそれでも十分だといった。時々マーシーの主宰するサークルにもやってきて、ベートーベンのピアノソナタなどを披露していた。
その日、彼女はいつも通りレッスンにやってきた。いつも通り大好きなベートーベンのソナタを弾いて、マーシーは音楽的に難しいところをアドバイスする。
「あの、先生、来週のレッスンお休みもらっていいですか?」
ふいに彼女がそういうことを言った。
「お休み?」
マーシーがそういうと、
「ええ。一寸、旅行に行くことになったんです。其れも初めての海外旅行。うれしいです。」
と、彼女は楽しそうに言った。
「はあ、初めての海外旅行ですか。へえ、いいですね。どこに行くんですか。」
と、マーシーが聞くと、
「ええ、オランダのアムステルダムというところです。」
と、香西さんは答えた。
「ああ、オランダですか。じゃあ、風車でも眺めに行くんですね。牛がいて、動物がいて、風車があって。オランダはそういうのんびりした国家ですよね。」
と、マーシーが言うと、
「まあ、そうですね。でも、オランダのアムステルダムはかなり都市化されていて、風車は郊外に行かないとみられないみたいですよ。」
と、香西さんは、そういうのである。
「そうですか。だったら、違うものを見に行くのかな。オランダの、名物はほかに何があるのでしょう。それは、一人で行くんですか?」
「まさか。父と母と行くんです。母も初めての海外旅行ですごくワクワクすると言っています。」
確かにそうだろう。海外旅行に行くとなれば、誰でもワクワクするものである。それに、彼女は、自分の家族のことはよくマーシーに話をしてくれていたが、話を聞いていると、とても仲のいい家族で、特に問題はなさそうに見える。
「そうですか。それは良かったですね。じゃあ、来週のレッスンはお休みということですね。了解しました。」
マーシーは、手帳を開いて、香西千秋さん、来週お休みと書き込んだ。
「ありがとうございます、先生。それじゃあ、先生の分も、お土産買ってきますから、来週は一週間、お休みさせてください。」
と、香西さんは、にこやかな顔をして、マーシーに頭を下げた。マーシーはわかりましたと言って、
「お土産話を楽しみにしています。」
と、言った。ちょうどレッスンの終わりの時間がやってきたので、彼女は楽譜を鞄にしまって、にこやかに帰っていく。マーシーは、それを自分もうれしい気持ちになって見送った。彼女ほど、自虐的な生徒さんは、いなかったというのが正確なことかもしれなかった。マーシーは、彼女になるべくメッセージ性の強いソナタを伝授して、できる限り、生きていることが楽しいなと思ってもらえるように、工夫してきたつもりだった。家族中はよくても、大声を出して騒ぐような問題を起こしたわけではなくても、社会に居場所がなくて、家族に産んでくれてありがとうとは言えない人は、非常に多いのである。だから、そういうひとには、この音楽教室が、居場所だと思ってほしかった。そういう彼女が、家族と一緒に海外旅行に行くと言ってくれているのだから、まあ、家族仲は悪くはないのだろう。そういう家族であれば、彼女が抱えている問題も、家族はうまくサポートしてくれるような気がした。
そして、一週間がたち、彼女のレッスン時間がやってきた。香西さんは、その日レッスンには来なかった。マーシーは、お稽古場が開いている限りレッスンをしなければならないので、香西さんがなぜ、レッスンを休んだのか、とうに忘れてしまっていた。
それから、また一週間たった。彼女、つまり香西千秋さんは、また来るのだろうかと思った。その日は、レッスンを休むという連絡は来ていなかった。なので、香西さんは、また来るだろうとマーシーは考えていた。確かに、インターフォンはなった。いつもなら、どうぞという前に、こんにちはと言って入ってくるのが香西さんなのに、なぜか、ごめんくださいと言って、本人よりもキーの低い声が聞こえてくる。
「はい、どうぞ。お入りください。」
と、マーシーは言ったが、お邪魔しますと言ってやってきたのは、香西さん本人ではなかった。香西さんに顔つきは似ているのだが、年が全然違う、やや高齢の女性だった。
「あの、どちら様でしょうか。」
と、マーシーは言うのだが、
「香西千秋の母でございます。」
とその女性はそういって頭を下げる。
「は、はい。お母さまがどうなさったのでしょうか?」
と、マーシーが聞くと、
「ええ、千秋が、オランダのアムステルダムを旅行中に亡くなりました。今回は、その報告をしにまいりました。」
と、お母さんは答える。
「ど、どういうことですか、、、?」
と、マーシーが言うと、
「だからそうなったということです。オランダの交通事情は、日本と違いますから。千秋が道路に飛び出した直後に、車にはねられて亡くなったんです。」
と、お母さんは答える。
「そ、そうだったんですか、それはご愁傷様です。あの、お通夜とか葬儀とかの日程はどうなっていますでしょうか。僕も彼女と関わった人間として、彼女を送ってあげたいんです。」
マーシーが急いで聞くと、
「ええ、親戚づきあいを嫌っていた子ですし、このご時世でもありますから、葬儀は家族葬で送ることにしました。だからお香典なども必要ありません。あの子は、宗教が嫌いな子ですから、富士の自由霊園にお願いすることにしています。」
と、お母さんは答えるのだ。そういう淡々としているところがちょっと変ではないかとマーシーは思った。娘が、それに一人娘である彼女が、そうやって交通事故で亡くなったなら、もうちょっと悲しんだり取り乱したりしてもいいはずなのだ。それがどうして、こんな風に冷静に言えるのだろうか?
「そうですか、では、お香典はお出しすることはなくても、お線香だけでもあげさせてもらうわけにはいかないでしょうかね。僕はこれでも、10年近く、彼女にピアノの指導をしてきたわけですから。それは、いけないですか?」
と、マーシーはそう尋ねた。お母さんは、マーシーがあんまりいうのでちょっと困った顔をする。まさか、予想してなかったのだろうか。
「あの、本当に、10年近く僕が彼女と関わってきたの、ご存じないわけではないでしょう?その僕が、お線香を挙げさせてもらうということに、何か違和感でもあるんでしょうか?」
マーシーは思わずそういう事を言うと、
「ええ、そうですが、家族葬で送るということは、もう決めてあります。それに私たちもあまり娘のことについて説明するようなことはしたくありませんから。どうぞそっとしておいてください。」
と、お母さんはそういうことを言った。
「はあ、えーと、そうですか。」
とマーシーは返答に困ってそういうと、
「では、打ち合わせがありますので、これで帰らせていただきます。娘のことを、10年間みてくださってありがとうございました。」
お母さんはそういうことを言って、そそくさとレッスン室を出ていくのだった。その出て行き方もどうも変なのだ。どうしてそんな風に淡々としていられるのか。それともつらい時には淡々と生きろと誰かに言われてそれを遵守しているのか。いずれにしても娘である。他人ではない。だって自分の腹から生まれた娘である。其れなのに、なぜ?マーシーは、考え込んでしまった。
次のレッスン生がやってくるまで、しばらく時間があったから、マーシーは、彼女と今までどんなやり取りをしていたのか、思い出してみる。彼女は確か、四歳から高校生くらいまでピアノを習っていて、譜面を読むこともできた。それに音楽性も優れていて、表現力もあった。ただ、リストカットを繰り返し、腕に傷がついていて、それが日をたつごとに減るのではなく増えているのが、マーシーの気になるところではあった。彼女は、それでもここにきている間は、みじめな自分を忘れられて、ピアノを習っているという実感が持てるといった。だからマーシーもできるだけその気持ちを維持してもらえるように、教材も工夫しなければならなかった。普通の一般的に普及しているソナタばかりではなく、時にはマニアックと言われるソナタも、彼女は喜んで演奏していたことを記憶している。
そんな彼女がどうして、海外で事故に巻き込まれで死亡したというのだろう。まあ確かに、日本と交通ルールが違っている国家もある事にはあるだろうが、それを理解しないでうっかりと轢かれてしまったというほど、彼女は軽薄な女性ではない。むしろ、慎重すぎるというか、過敏な女性である。
うーん、どういうことなんだろう。と、マーシーは思った。
その日、マーシーは、そのあとにもレッスン生にピアノの指導をしたが、何か上の空で、ぼんやりとしてしまった。後になって、レッスン生には申し訳ないなと思った。
レッスンが全部終わって、マーシーはピアノの手入れをしていた。この教室にはピアノが一台しかない。だから、相棒として、うんと手入れをしなければだめだと思っている。そんなことをしていると、インターフォンがなった。
「はい、どちら様でしょうか。」
と、マーシーは、インターフォンを通して聞くと、
「僕だよ。」
と、ぼそっと声がした。ああ、蘭じゃないか。とすぐに分かった。
「どうしたの蘭。何かあったの?」
と、とりあえずそういってみると、蘭は、
「ああ一寸、お前に相談したいことが在ってきた。」
と、いった。マーシーは、いいよ、入れと言って蘭を部屋の中へ招き入れる。とりあえず、いつも来客を相手にしている、レッスン室へ蘭を通した。
「どうしたの?いきなりこっちへ訪ねてくるなんて珍しいな。」
なるべく明るい顔をして、マーシーはそういうことを言った。
「ああ、水穂の事なんだ。」
と、蘭は言った。
「水穂、ああ、右城君ね。右城君が一体どうしたの?」
と、マーシーは言うと、
「水穂のやつ、もしかしたら、逝ってしまうんじゃないかと思ってさ。こんな変なものが流行っていて気候もおかしくなっているご時世だもん。もうあいつはダメなんじゃないかって、そう思うんだ。」
と、蘭は自分の気持ちを語った。
「そうか。それほど悪いのか。右城君も。あれだけ優秀な人が、僕たちみたいなのを残して逝ってしまうのは悲しいことだよね。それで、お前はどうしたいんだよ。」
マーシーはそう聞くと、
「ああ、できるだけそうなることは先送りしてあげたいと思うんだ。だって、お前もわかると思うが、死んだほうが得をする人間なんてこの世の中にどこにもいないんだからな。」
と、蘭は言った。マーシーは、先ほどの、香西千秋さんのことを思い出す。彼女もそのように思われていたのだろうか。
「先送りね、お前がそうしたい気持ちはわかる。でも、尊厳死とかそういう言葉もあるんだよ。」
マーシーは、蘭にそういうことを言った。蘭が、そんなことを言うとは思わなかったという顔をして、自分のことを見ているのがわかる。でも、事実として伝えた方がいいとマーシーは思った。
「そうだけど、それは違法だろ。ヨーロッパと日本は違うよ。自殺ほう助が合法何て言うバカげた国家もあるけどさ。そんなことして、何がいいんだろうね。そんなことしたら、全部の国民が、命を落としてもいいということになるじゃないか。まあ、自由でいいなという人もいるが、僕は、安楽死とか、自殺の合法化は絶対に反対だ。人間は最期まで生き抜かなくちゃ。それをやめさせる権利は人間にはないぞ。」
と、蘭はマーシーに言った。
「まあ、そういうことが自由にやれる国家があるみたいだけどさ、其れって絶対おかしなことだぜ。だって、ヨーロッパではほとんどがキリスト教だろ。そこでは自殺はやってはいけないってしっかり書いてあるのにさ、それなのに自殺ほう助を合法化している。なんだか、矛盾してるよ。」
「なあ蘭。」
と、マーシーは蘭に聞いた。
「お前が欧州で生活していたことは、僕も知っているよ。確かお前、大学までドイツで暮らしていたんだよな。ドイツで、そういうことがあったのか?」
「いや、ドイツではそうはなっていない。問題はドイツの近くにあるオランダなんだよ。まったくばかばかしい制度を作ったもんだ。何に対しても寛容なんて言ってるけど、其れって逆を言えば、甘やかしているというか、おかしくさせているだけじゃないのかな。ほんと、ばかばかしいのもほどがある。
国家が、国民に生きろと示してやることだって、大切だと僕は思うよ。」
蘭の答えを聞いて、マーシーはなるほどと思った。つまり、香西千秋のお母さんのいうことは、半分真実で半分は妄想だ。千秋さんは、オランダに行ったということは間違いない。でもそれは、合法化された、自殺ほう助だったのだ。
「つまり、お前が言うことが本当だったら、あの香西千秋さんが、オランダに行ったのは、それが合法化されているということを知っていたということになるのかな。」
と、マーシーは思わずそういうことを言った。蘭が誰の事かと聞くと、マーシーは、蘭に香西千秋のことを話した。自分のピアノ教室にやってきている生徒の一人であること、精神疾患を長らく患い、リストカットなど問題を起こしてきたこと。何回か、精神科への入院歴などもある事、などを話し、最後に、
「多分きっと、そうだったんだと思う。日本では、こういうことは殺人に問われるが、そうじゃない国家もあるって、蘭から今聞いたから。」
と、結論を付けた。
「そうか、なるほどな。日本では、現在そういうことは合法化ではなく、殺人に問われるが、確かにオランダのようなところでは、そういう事もあり得る。」
蘭もそういうことを言った。
「すぐ、警察へ連絡した方がいいのではないか?犯行現場は海外であるとしても、一応、これは殺人で立件できるのではないかな。」
蘭は、そういうことを言った。
「日本では、彼女を殺害したということにあたる。それが、海外でわからないように行われても、だ。それはやっぱりいけないことだし、ちゃんと法律で罰してもらわなきゃ。」
「いや、どうかな。」
と、マーシーは言った。
「あの、家族だって、彼女をそうすることによって、やっと楽になれたのではないかと思う。まあ、そんなに貧しい家庭ではないから、海外旅行中に事故死と言ってるんだろうけど、実際は、そうじゃなかったんだ。彼女を、この世から消し去る行為をしたんだよ。」
「しかしだよ、お前だって、ピアノ教室やっているんだから、いろんな人見てきているじゃないかよ。そういう立場のくせに、楽になったなんていう表現を使っていいのかい?それは間違いじゃないの?」
蘭がそういうと、マーシーは静かに首を振った。
「いや、気持ちがわからないわけじゃない。被害者も加害者もどちらも悪いわけじゃないけど、どちらかがおかしくなってしまったら、どちらか片方が変わらなきゃいけない。はい、そうですかとすぐに言える人ばかりじゃないんだよ。それは、僕もそうだったから、気持ちがわからないわけでもないんだよ。」
「でもお前、楽になったなんて、そんなこと言ってはいけないのでは?だって、一応さ、障碍者と言われようがいまいが、生きていることは一緒だぞ?」
「そうかもしれないけどね、蘭が言っていることは、ただ机の上で、物事を考えている人だけの言葉だよ。誰だってな、子供が世間のレールから外れてしまうと、一度や二度は、子供に死んでくれと思うさ。実際にやるかやらないかの違いだけだ。僕だって、ピアノ教室やる前は、親にそういわれたんだから。」
「死んでくれ、と?」
蘭の問いかけに、マーシーはしっかり頷いた。
「ああ、言われたよ。母親からねえお願い死んで!とね。だから僕は、ピアノ教室をやることにしたんだから。」
「そうか、、、、。」
と蘭は、がっくりと肩を落とした。確かに、ヨーロッパでは、そういう事件が発生しても、必要最小限の罪で済んでしまう国家もあるし、非常に重大な罪になる国もある。それはたぶん、宗教の影響が非常に大きなものであるけれど、蘭自身は、そういう殺人を、やってはいけないと思っている。だから、例の障害者施設の殺人事件だって、犯人はちゃんと罰せられて当然だと思うのであるが、マーシーはそうは思わないのだろう。
「多分、楽になってから、気が付くと思うよ。今は楽になりたいという気持ち一点張りだったんじゃないかな。それをね、今はたっぷり味合わせてやりたいと思うんだよね。」
「お前なあ。お前だって、それでは、障碍者はいなくなってしまえと言っているようなもんだぞ。」
と、蘭は、マーシーに言った。
「そうかもしれないね。でも、健康な人に助けてもらわなければ、そういうひとたちは生きていかれないのもまた事実なんだよね。まずそこを何とかしてやらなくちゃ。蘭は、経済力もあるし、刺青師として、名前もはせている。だから、そういうことが言えるんだよ。そういうことなんだって。」
マーシーは、蘭に静かに語った。
「だから、今回の香西千秋さんのことは、そっとしておいてやることだと思う。そのうちに、自分がしたことを悔いてくれると思う。それを待つんだよ、僕たちは。そういうことじゃないかな。」
蘭は、まだ悔しそうな顔だちだったが、マーシーはもう結論付けている様子だった。それが一番なんだと、自分にも言い聞かせているように見える。
「きっとね、右城君のことだって、そうなると思うんだ。だから、今は仕方ないと思って、静かに生きようよ。」
そういうマーシーは、何処か悟りを開いたような、そういう感じで静かに言うのだった。そうか、と蘭は、静かにため息をついた。
終わりなき旅 増田朋美 @masubuchi4996
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