第2話酒場ルーモア
ラットは行きつけの酒場にスフィアを誘った。彼女の依頼はいくら悪徳と退廃に血塗れたエンドタウンとはいえ、往来や監視のある道で立ち話する内容ではなかった。加えて詳しい話を聞く前に酒で彼自身、落ち着く必要があった――何故なら提示された二人の名を、ラットは知っていたからだ。
スフィアは当初、ラットをさほど信用していなかったが、殺人の依頼の話を目立つ場所でするのは、彼女も本意ではなかった。酒場という場所は気に入らなかったが、ラットの家で二人きりで話すよりはマシと考え直した。また、ラット以外に頼れる者がエンドタウンにいないことも彼女を決断へと促した。
一応、街の目抜き通りとされる非合法の物が売られる市場――通称『病み市』を抜けて、裏通りを歩いたところにそれはあった。『酒場ルーモア』という酔っ払いたちが集う下品な酒場だ。外観は寂れていて、人の出入りがあるのか不明瞭な建物だ。しかし昼間だというのに出入り口の奥から下卑た笑い声と喧騒が聞こえるので、この街では比較的繁盛しているのだろう。
「ここだ。入るぞ」
「下劣な店……」
ラットに促されてスフィアは彼と一緒に中に入る。店内はむわっとするアルコールと煙草の臭いで充満していた。思わず顔をしかめるスフィア。
客が一斉にスフィアに注目するが、傍にいる男がラットだと分かると、すぐに視線を逸らす。変わりにひそひそ話が酒場のいたるところで起こった。それらを聞く気にもならないラットは真っ直ぐカウンターへと向かう。慌てて早足で後をついて行くスフィア。
「よう、ラット。女連れとは珍しいな」
カウンターの席に着くなり、親しげに声をかけてきたのはルーモアのマスター、ジークである。金髪で先ほどのオルガよりも背が高く、がっちりした体格をしている。場末の中年の格好をしているが、服の上からも分かるほど、はちきれた筋肉の持ち主だった。
「そうではない。依頼人だ」
「なんだ。お前には浮いた話が何もないな」
「浮き沈みの激しいこの街で期待するなよ」
軽口を叩きながらも、ラットはやや緊張の面持ちをしたスフィアと向かい合う。
「何か飲むか?」
「……酔わせて何をするつもり?」
「ガキに手を出すほど飢えても渇いてもいねえよ」
「代わりに枯れていると言えばいいのかしら?」
そのやりとりに噴き出すジーク。ラットは店主をぎろりと一瞥した後「酒以外の飲み物ぐらい、こんな店にもある」と言う。
「サービスで奢ってやる。さっさと頼め」
「それじゃ、オレンジジュース貰おうかしら」
「ジーク。俺はウイスキーを。ストレートで」
ジークは手早く二つのコップに頼まれたものを注ぐ。サービスでつまみのナッツを添えるのも忘れなかった。
カウンターの上に出された液体をラットは少し口に含む。スフィアは渇きを癒そうと半分ほど飲み干した。
「それで、依頼のことだが」
「ええ。ホーク・ハルバードとオウル・アクス。二人を殺してほしい」
その名を聞いて僅かに反応したジークだったが、スフィアはラットを見据えていて気づかなかった。
「そうか。どうして二人を殺したい?」
「理由が必要なの?」
「興味本位ってやつだ」
「依頼に不要なら話す義理はないわ」
そっけなく返すスフィアに「二人の顔や素性を知っているのか?」と話を先に進めるラット。言いたくなければ訊くのもまた無駄だと判断したのだろう。
「顔は知らないけど、素性は知っているわ。二人とも有名だもの」
「だろうな。セントラルの最果ての街でも有名――悪名が轟いている」
ラットは酒を飲みつつ、不愉快そうに言葉を続けた。
「五年前、世間を騒がせたサウスの大名殺しのホークに、その兄弟分で今や将軍の従属大名のオウル。恨みを買うのは当然の話だ」
「……それで、請けるの? 請けないの?」
「その前に、三つ訊かなければいけないことがある」
何を焦っているのか分からないが、依頼の受諾を催促するスフィアにコップをカウンターに置いたラットは言う。
「誰から聞いた? さっきの二人よりも有名とは思えない俺のことを」
「……セントラルの情報屋よ。金さえ出せば、誰でも殺してくれるって」
「それはおかしいな。サウスの二人を殺すのに、どうしてわざわざセントラルの情報屋を使う?」
スフィアは努めて冷静に「サウスは駄目よ」と答えた。
「オウルのアクス家が牛耳っているわ」
「……そこまでの力を持っているのか?」
「あら。エンドタウンにはその情報が入っていないの?」
「生憎、俺はこの街以外の情報には興味がないんだ」
ラットは「ならセントラルの人間を使うのは道理だな」と納得した。
それから二つ目の問いをスフィアに聞かせた。
「二つ目の問いだ。金はいくら持っている?」
「……五十ゴールド。それしか手元にないわ」
十ゴールドあれば一年間は働かずに済む。その五倍の大金だったが、ラットは首を横に振った。
「足りないな。まったくもって足らない」
「……なら、いくらあれば足りるの?」
「人一人殺すのに、金はいくらあっても足りない」
「そんな抽象的な話は聞きたくないわ」
憮然として立ち上がるスフィア。その目に映るのは、期待はずれという色。
「あなたなら請けてくれるって情報屋が言っていたわ。三年前、この街に突然訪れて、すぐに指折りの仕事人になったって――」
「そりゃデマだ。俺は主に用心棒を生業にしている」
スフィアは唇を噛み締めた。ここまで来るのに、どれほど苦労したのか。何度も苦汁を舐める思いをしてきたのに、全ては徒労だったのだ。そう考えると悔しくて涙が溢れそうになる。
そんな彼女の様子を何の感情のない目でラットは見つめた。内心、これで諦めてくれればいいと思っていた。何故なら、ラットには二人を殺すことが不可能だったからだ。
「……具体的に、いくらあれば、足りるの」
同じ問いをスフィアは呟いた。負けの込んだギャンブラーのように、分の悪い賭けに全てを注ぎこむ彼女を見て、ラットは「最後の問いだ」と酒を飲みながら言う。
「お前さんには、覚悟があるのか?」
「覚悟……?」
「人を殺すってのは、重いんだ」
表面上だけじゃなく、芯の通った言葉の重みを感じさせる。
思わず息を飲んだスフィアにラットは目を合わせた。
その目は覚悟を内包させていた――
「殺したときの感触。殺したやつの表情。一生忘れられない。お前さんは、それを俺に背負わそうとするんだぜ? いや、俺が断ったら別のやつに背負わせる。それを理解してるのか?」
「…………」
「殺していい人間なんて、この世にはいないんだぜ」
スフィアは視線を落として、唇を噛み締めて、それから絞りだすように、恨み言を吐いた。
「その二人を殺さないといけないのよ……私の人生を、私の家を滅茶苦茶にした、二人を……たとえ他人に重荷を背負わせても、絶対に……」
何か事情があるんだなとラットは悟ったが、慰めもたしなめもしなかった。
ただ黙って、酒を飲み干した。
「お金が足りないのなら、稼いでくるわ……」
「……どうやって? 仕事ができるとは思えないな」
スフィアは――自分の身体を抱きしめながら、震えたかすれ声で、忌まわしいことを言う。
「女は――自分の身を売ることだってできるのよ」
その瞬間、ラットはスフィアの頬を――遠慮なしに叩いた。
スフィアは自分が椅子から転げ落ちて、床に膝ついても、何をされたのか分からなかった。頬がじんじんと痛みを伴うようになって、ようやく叱られたことに気づく。
「……ガキの癖に、強がるんじゃねえよ」
ラットは怒りを湛えた顔つきで、スフィアを見下していた。
スフィアはそんな目に耐え切れ無くなって――頬を雫が伝った。
ラットは空になったコップをジークに見せる。様子を見守っていた店主は溜息をつきながらコップに酒を注ぐ。
居心地の悪い空気が漂う――それを壊すような明るい声が酒場に響く。
「父さん! 今帰ったよ!」
思わず耳を塞ぎたくなる大声。スフィアが声の主を見ると、そこにはジークと同じ金髪を二つに結んだ、十八ぐらいの女が荷物を抱えながらこちらに歩いてくる。
顔立ちは相当美しく、特に脚線美を露わにした服装が似合っている。何故かウサギの耳を模したヘアバンドを付けていた。
「お、セリアちゃん! 買い物から帰ってきたのか!」
「こっち来て酌でもしてくれよ!」
「あははは。後でね!」
ウインクをするセリアと呼ばれた女性。客たちがひゅうひゅうとはしゃぐ。
カウンターに近づいて、床に座り込んで泣いているスフィアを見つけたセリアは「ど、どうしたの?」と慌てた様子で近づく。
「頬、腫れてるよ? 誰に――ちょっと待ってね。父さん、荷物」
父さんと呼ばれたジークは素直に荷物を受け取る。二人は親子らしい。セリアはカウンターに入って水桶で濡らして冷やしたタオルを持って、スフィアに差し出す。
「はい。頬に当てて冷やしてね」
「あ、ありがとう……」
「えーと、多分、ラットくんだよね」
疑問ではなく確信しているような言い方だった。
ラットは「いつも思うが勘が鋭いな」と酒を飲みながら肯定した。
「分かるよ。位置とかラットくんの表情とか。父さんが殴るわけないし」
「ま、馬鹿じゃないみたいだな」
「今、私のこと馬鹿にした?」
「馬鹿じゃないって言ったんだ」
セリアはスフィアを立たせて、カウンターの席に座らせた。ラットと一個分、席を空けて。
「それで、どんなこと言って怒られたの?」
セリアが背中を擦りながらスフィアに優しく訊ねた。
スフィアは「……よく怒られたって分かるわね」と驚く。
「ラットくんはこの街では珍しく常識的な人だからね。めったに女の子を殴らないよ」
「……たまにお前が怖くなるよ、セリア」
ジークはコップを拭きながら自分の娘の鋭さに慄いていた。
ラットは静かにコップを傾けた。
「それは……スフィアちゃんが悪いかな。ラットくんも悪くないことはないけど」
事情を中立であるジークから聞いたセリアはそう判断を下した。
ラットは三杯目のウイスキーを飲んだ。かなり酒に強いらしく頬は赤みをさしていない。
「意地悪言わないでよ。ラットくんは殺しも請けるじゃない。私の依頼で殺したこともあるし」
「あれは、死人との約束だったからな」
さらりと物騒なことを言うセリア。まともそうに見えるが、エンドタウンの住人なのだとスフィアはぼんやりと思った。
「相手が相手だからな。それ相当の金は貰いたい」
「ふうん。具体的にいくらなの?」
セリアもスフィアと同じことを訊ねる。面倒だな感じながらも、答えないほうがしつこいと知っているラットは「一人百ゴールドだ」という。
「百ゴールド? そんな大金なの?」
「一人は行方不明の大名殺し。一人は将軍直属の大名。これくらいなければ請けられない」
「うーん。どうしよう……あ、そうだ!」
セリアが悩んだのは数瞬。そして答えを言ったのも数瞬だった。
「ラットくんの仕事を、スフィアちゃんが手伝えばいいんだよ!」
その提案をラットもスフィアもジークも飲み込めなかった。
「何を言っているんだ? とうとういかれたのか?」
「まともだよ私は! ラットくんの仕事、一人じゃ手に余るってぼやいてたじゃない」
「まあそうだが……」
「助手代を貰って、依頼料を貯めればいいよ! 仕事がないときは、うちの酒場を手伝ってもらえばいいし!」
どさくさに紛れて従業員にしようとするセリアにスフィアは「か、勝手に決めないでよ!」と焦る。
「私、仕事なんてまともにしたことない――」
「大丈夫! 最初は誰だって初心者だから! あ、そうだ。その格好じゃ接客できないから、服あげるよ! ついでにお風呂にも入れてあげる!」
「そ、そんな強引な――」
スフィアを引きずるようにセリアは店の奥に連れて行った。
残されたラットとジークは同じタイミングで溜息をついた。
「あんたの娘、凄いな」
「……母親を亡くしてから強くなったよ」
ジークはしみじみと言う。言葉に込められたのは、娘の成長の喜びか、妻を亡くした過去か、ラットには分からなかった。
「それよりもいいのか? ホークは――」
「良いんだジーク。いずれこんな日が来ると、薄々分かっていた」
琥珀色の水面をラットはじっと見つめる。
「分かっていたんだ。過去からは逃げられないってな」
「…………」
「俺はあの娘に覚悟があるか訊いた。その前に、俺も覚悟を決めないとな」
そのまま、コップの液体を飲み干すラット。
生きている限り、過去は追いかけてくる。
後悔には、まだ早かった――
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