第3話

 何度か繰り返し話すことになるが、俺が娘の彼氏である優斗君と初めて出会ったのはだいぶ前。彼が、まだ小学生だったころ。娘にいたっては、まだ小学校にも入っていなかった。

 ある日、泣いている藍の手を引きながら、困った顔で我が家にやって来た男の子がいた。それが彼だ。よくよく話を聞いてみたところ、どうやら藍が俺達両親の目を盗み、一人で勝手に外に遊びに行ったらしい。しかしたちまちのうちに迷子になってしまい、泣きながら、たまたま近くにいる人に道を聞いたらしい。その、道を聞いた相手というのが彼、優斗君だ。


 幸いだったのは、藍が我が家の住所を書いた迷子札を持っていたこと。そしてたまたま道を尋ねた優斗君の家がうちの近所で、すぐに場所がわかったということだ。とはいえ、いきなり見ず知らずの子に泣きつかれた彼は、さぞかし困惑したことだろう。


 今まで顔も名前も知らなかったとはいえ、すぐ近くに住んでいる相手だ。一度顔を覚えてしまえば、たまに近所で見かけることもある。

 娘はその度に、ニコニコしながら彼に駆け寄っていき、気づけばいつの間にかベッタリになっていた。最初は迷惑にならないかとも思ったが、むしろ彼は喜んで娘の相手をしてくれていた。


 しかし知り合うというのは、同時に彼について更に知る機会が増えるということでもある。

 特に我が家のような街の喫茶店は、ご近所さんの溜まり場のようにもなっていて、自然と噂話も集まりやすい。良い噂も、悪い噂もだ。

 そんな、近所の悪い噂。その中に、度々挙がっていたのが彼の家庭だと気づくのに、そう時間はかからなかった。





「…………不安は、あります。家族になる。そう考えた時、どうしても両親のことが頭を過るんです」


 重い口調でそう告げる彼を見て、まだ知り合って間もない頃の事を思い出していた。噂で聞いた、彼の家庭で何が起こったかも。


 早い話が、彼の両親が不仲故に離婚した。ただ、その離婚に至るまでの惨状があまりにも酷いものだったそうだ。


「今でも時々思い出します。お互いに、何の臆面もなく酷い言葉をぶつけ合う両親の姿が。そんなのは見たくなくて、部屋に入って鍵をかけて、それでも聞こえてくる怒鳴り声が」


 いつの間にか、彼の顔には苦悶の色が見えていた。

 もちろん俺は、その現場を直接見聞きしたことはない。彼と初めて会った時は既に離婚は成立していて、父親に引き取られた後だった。

 だがかつて聞いた噂によると、喧嘩する声は家の外まで漏れ、そのあまりの剣幕ぶりに、警察に通報しようかと考えた者もいたそうだ。


「両親も、昔は仲が良かったんです。だけど二人とも少しずつ気持ちにズレが出てきて、最後は愛情なんては欠片も残っちゃいなかった。お互いに対しても、それに多分、俺に対しても……」


 彼は今、どんな思いでこれを言っているのだろう。

 またも噂できいた話になるが、外へと漏れた喧嘩の声の中には、子供を、つまり彼をどちらが引き取るか押し付けあうものもあったと言う。

 もちろん噂なんてものは、往々にして尾ひれがつくものだ。だが彼がうちの喫茶店で食事を取ることが多くなり、ある時家で食べなくてもいいのかと尋ねたところ、好きなものを食べろと現金だけを渡されたと言う。そしてそれを告げる彼は、一見淡々としていて、だけど一瞬見せた苦しげな表情を、俺は今でも覚えている。


 そして今の表情は、その時見たものとよく似ている気がした。


「すまなかったね。あまり、話したい事ではなかっただろう」

「いえ、おじさんが心配になるのも当然です。俺だって、家族の話が出てくるだろうなって、覚悟はしていました」


 事情が事情なだけに、実は今まで、彼に家族に対する思いを聞いたことはなかった。だがこれらの出来事が、まだ幼かった彼に大きな影響を与えたというのは容易に予想がついた。そしてこの質問をした時、彼が辛い思いをするであろうことも、また予想がつくものだった。

 それでも、今回ばかりは聞かずにはいられなかった。


 だがこれで、聞きたいことを全て聞き終えたかと言うとそうじゃない。今の質問をした上でさらに聞きたいことがもう一つだけあった。


「それで、君が不安を抱えていることはわかった。けどそれでも君は、あの子と、藍と一緒になると決めて、だから今日ここにやって来たんだろ。不安を押しきって結婚を決めたその理由、聞かせてくれないかな?」


 これが、もう一つの聞きたいこと。いや、本当に聞きたいのは、最初からこっちだった。

 彼がどんな思いで結婚に踏み切ったのか。何が背中を押したのか。それをきちんと知っておきたかった。


 簡単には気持ちを切り換えられないのか、彼はすぐには口を開かず、少しの間黙る。だがそれでいい。俺も決して、急かすつもりはなかった。

 そしてようやく、彼が次の言葉を告げた。


「確かに俺は、家族になるってことに不安を感じていました。だけどそれと同じくらい……いえ、それよりずっと、家族が欲しかった」


 そこまで言うと、彼は一度言葉を切り、ゆっくりと母屋の方へと目を向けた。

 向こうにいる、藍のことを思っているのだろうか。そう考えていると、それから再び、俺へと視線が戻される。


「そして、そんな気持ちを持つことができたのは、ここで藍と、それにおじさん達と会ったからです」

「な、なに。俺!?」


 この流れで娘の名前が出てくるのは当然だろう。だが、それに続いて自分が挙げられるとは思わなかった。


「おじさん達に会わなければ、俺は今でも、家族を持ちたいなんて思えなかったかもしれない」


 先ほど不安を語っていたのとは対照的に、今度はハッキリと、真っ直ぐに俺を見つめて告げる優斗君。


 しかし一方俺はと言うと、僅かに彼から視線を反らしていた。

 だって仕方ないだろ。ただでさえ緊張しているこの状況でいきなりそんな事言われたら、恥ずかしさやむず痒さで、どんな顔して目を合わせればいいか分からないじゃないか!

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