10-X1

 ひとりの少年が寝かされた医務室の天井を睨みつけている。


 実のところ、こうして清潔なベッドに寝かされるまで、否、グラウンドからここまで運ばれるまでの間ずっと、彼には意識があった。

 気絶したわけではない、昏倒したわけでもない。ただ体力を著しく消耗し、魔力をも燃焼し尽くして無様にも膝を屈した事実に変わりはない。

 それも公衆の面前で、将来の王国を担う同年代の前で。

 大公家の薔薇の前で。


 奥歯を噛み締めて意味の無い音を、心の裡を表す不協和音をかき鳴らす。

 仮に彼の歯軋りに音楽的な意味を見出すならば恨み節、怨嗟を奏でる不吉な旋律とでも命名すべきだろう。

 事実、ベッドの上の少年ドゥーガン・コートラド伯爵家令息はひとりの少女にかつてない怒りと憎しみの念を向けていた。


 アルリー・チュートル。

 何の歴史も背負わない『上がり盾』男爵の小娘。本来ならば記憶する価値も無い、かろうじて貴族と名乗ることが許された程度の有象無象の輩。

 伯爵家嫡男たる彼の影を踏むことすらおこがましい塵芥の分際で彼の命令を拒否し、それどころか人前で恥をかかせた許されざる者。

 ──少なくとも彼にとってはこれが真実である。


 それだけではない、彼女のせいでドゥーガンは栄誉を賜る機会を失った。

 大公家の薔薇、麗しき社交界の玲華に相対し、勇壮たると認められる絶好の機会を奪われたのだ。

 極度な疲労で未だ体が自由に動かない中、意思映す双眸に淀んだ憎しみを業火のようにぎらつかせ、ドゥーガンは報復の妄想を積み立てる。

 いつ何時、如何なる手段を用いて身の程知らずの小娘に痛い目を見させてやろうか、辱めてやろうか。暗い想念に加虐心を乗せて彼の欲望は


「……思い知らせてやるぞ、あの女」

「ふーん、思ったよりは元気そうじゃないか、うん?」


 歪んだ唇の漏らした言葉は降って湧いた揶揄に掻き消される。

 いつの間にか、そう、いつの間にかだ。

 ドゥーガンが逆恨みの情念に妄想逞しくしている間にか、カーテンで遮られた彼の区画を覗き込む誰かの接近に気付けなかった。

 無礼者、そう怒鳴りつけようと向けた視線の先には、


「ル、ルボアル様!?」

「あー、いーよいーよそのまま寝てなよ」


 反射的に身を起こそうとするドゥーガンを手で制したのは軽い雰囲気、アルリーならばチャラいと表現する気質をまとった青年。

 模擬戦の準決勝前、八百長を巡って詰め寄る彼とアルリーの諍いに割って入ったチャラ男、ルボアルである。権威を借る者はより強い権威にへりくだる、態度を急変させた伯爵家嫡子ドゥーガンの替わりようにルボアルは気にした風もなく話しかける。


「いやー、大事な後輩が倒れたっていうから見舞いに来たんだけどさー? どうやら大丈夫そーだねえ」

「は、はい、お耳汚しを」

「まーそれで君の呟きを聞いちゃったんだから無駄にはならなかったよねえ」


 どこまでも深刻さを欠く青年の声、しかしドゥーガンは身を強張らせる。

 彼が思い巡らせていたのは愉悦混じりの復讐心。憎らしい相手に屈辱を与えてやろうとの心が漏れた言葉を聞かれたことに焦りを覚えたからだ。

 しかしルボアルの指摘は彼の予想を超えるものだった。


「やめときなよー、恩人に対して逆恨みとかさあ」

「──おん、じん?」

「そーだよー、気付いてなかったの君??」


 ほんの一瞬、ルボアルの言葉を聞いた瞬間だけ彼は憎しみを忘れた。それ程に予想しない言葉だったのだ。

 恥をかかせてくれた相手に恩を受けた、そのような決め付けに立場を忘れてドゥーガンは一層気色ばむ。彼の態度の急変を無礼と咎めるでもなくルボアルは軽くたしなめる口調で先を続けた。


「君さあ、模擬戦の対戦相手を脅して勝ち上がったでしょ」

「……何の話です?」

「あんなのさー、バレないと本気で思ってたとか言わないでしょ、うん?」


 沈黙は金との言葉がある。

 しかし場合によって沈黙とは肯定でしかない。悪事の追及の場においては。


「君が剣を振るとこでも見れば誰でもわかることだし? あーいうのよくないよ?」

「……」

「まー理由は聞かないよ。フェリちゃんとお近づきになりたかったんだろーけどさ。気持ちは分かるよ、あの子ってば昔っから美人だったからねー」


 だんまりを決め込んだドゥーガンに気を悪くした風もなく、チャラ男先輩は一方的に見解を告げる。口調はともかく内容は完全に軽挙をたしなめるもの。

 少年の非を明らかにするものだ。


「でもさー、あの昔っから聡い子が裏の事情に気付かないわけないでしょ」

「……」

「君の腕前なんて僕ですら分かるよー? 武芸百般、大人顔負けのフェリちゃんの前でどう誤魔化す気だったのかな、うん??」

「……」

「もしも君がさ、あのままフェリちゃんの前に立ってたらさー」


 口を閉ざしたままのドゥーガンは顔色を赤くしたり蒼くしたり、目と同じように物を言っていた。それは謀を暴かれた羞恥であり、粗を突かれた恥辱の発露でもある。

 そこに彼の顔色を決定付ける爆弾が放り込まれた。口調は変わらず、気安さすら感じさせる言い方で、右手を首の横にスライドさせながら。


「君は断罪されたと思うよー? こんな風にさ、多分家門に傷がつくレベルでさ?」

「──ッ!!」

「あの子はさー、そういうの嫌いだからねえ」


 ドゥーガンは伯爵家の嫡男、後継である。彼の負った傷はそのまま御家の評判に直結するのは言うまでもない。そして彼の為した工作は……。

 苦いものを飲んだ、否、飲まされた顔で絶叫を堪える。感じたのは恐怖、虎ならぬ竜の尾を踏む愚行を犯す寸前だった事実を知ったからこその。

 事の深刻さを受け取った後輩を見て、先輩はにこやかにフォローを続ける。


「そーいうこと。あの男爵令嬢は君のためじゃないと思うけどさー、結果的に君の愚行を止めてくれたわけ」

「……」

「恨むどころかさー、むしろ感謝すべきって奴? 感謝状を出す必要はないけどね」


 少年の色が憎悪から恐怖に変わってのを見届け、チャラ男は己の用件が無事に済んだことを理解して満足げにうんうんと頷く。

 結局彼は最後の最後まで後輩を怒鳴ることなく、パンパンと手を打ち鳴らし一方的に教訓めいた会話劇の終幕を次げた。


「じゃー話は終わりー! 君もゆっくり眠ってしっかり元気になること」

「……」

「まったくさー、他にブロンザンドの顔役がいないからってこんなの僕向きじゃないったら。来年にはラン君が入ってくるから全部押し付けられるのに。そう思わない?」

「……」

「あーうん、うるさいと眠れないよねー、じゃあ僕はこれで」


 ヒラヒラと手を振って身軽に立ち去るチャラ男先輩。

 彼がいなくなった後にの医務室には再び静けさが沈殿する。


 ──この時のルボアルは優しく釘を刺した。

 ドゥーガンの過ちを指摘し、拾った幸運をも告げて遺恨としないよう手を打った。熱心でないにせよ先輩として、派閥の上に立つ者としての責務を果たしたのは間違いない。

 事実、彼の忠告はドゥーガンの怒りに任せた軽挙を抑えたのだ。


 ルボアルに誤算があるとすれば学年が異なる故のアンテナの低さ。

 それと後輩の恐怖が反転し、抱えた劣等感が今以上に膨張するのを読めなかったこと。

 そして何より──


「恩人……? 恩人だと……何を馬鹿なことを……」


 ドゥーガン少年の自制心が効かなかったことにある。

 蝶よ花よと育てられた伯爵家の嫡男はこれまでに挫折を経験したことがなかった。

 彼の短い人生に存在したのは最初から上下の決まった関係性。挑む前から諦めるか、全てを得るかの何れかだった。


 足元を疎かに、眩い上に憧れた彼の辿った結末は地に這う不名誉。

 目下の者から受けた屈辱に甘んじる経験など有り得ざる、初めての痛みは彼の心を他者の想像以上に苦しめた。この痛みを忘れるため、彼は時間という薬よりも手段を欲したのだ。


 ──はたして、味方を作ることは敵を作ることと同義であるとは誰の言葉だったのか。


「そんなこと、認められるわけ、ないだろうが!!」


 外付けの理性に抑え付けられただけの不平不満、妬み嫉み、そして気位の高さから生じた怒りと憎しみは熾き火となって燻り続け。

 肥大した燃料にて延焼し、やがてひとつの結果を産み落とすが。


 それはまだ先の話。

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