ドラゴンシフト

瀬場拓郎

第1話 ドラゴン殺しのユーリ①

 これらの物語の結末がすべて悲劇で終わっているということは、物語が真実を語ったものだという、何よりの証拠である。なぜなら野生動物の最後は常に悲劇的な終局を迎えるものだからである。  

             『私が知っている野生動物(シートン動物記1)』

                アーネスト・T・シートン著 藤原英二訳





 夜の静けさは、爆発音と地響きによって破られた。夜空に一瞬、赤々とした輝きが走った。奇妙で恐ろしい光だった。ヴァシリは体に怖気が走るのを感じた。

 あれは何だろうか。直前の爆発音と地響きから考えて、ヴァシリは一個大隊が大砲で村に襲撃をかけたのかと思った。しかしそれでは空の輝きが説明できないし、第一その爆発音は大砲のものとは違っていた。ヴァシリは大急ぎで馬に乗って森を抜け、村へ入る。

 村は火に焼かれていた。家はもちろんのこと、尻尾に火が付いた馬が駆け回り、火だるまになった人間から玄関から飛び出して地面を転げ回っていた。

 そんな中で、ひときわ巨大な影が力強く歩くのが見えた。

 四本の足に、背中にコウモリに似た二つの翼を生やしたそれは、かつてヴァシリがペテルブルグにある大聖堂で見たフレスコ画、そこに描かれたドラゴンの姿と瓜二つだった。

「ヴァシリの旦那!」

 村人の一人がヴァシリの下へ来る。

「ドラゴンだ! ドラゴンが出た! イーゴリがなんとか槍で追い払おうとしたんだが、そうしたらドラゴンが暴れて―――」

「ここは俺に任せて、みんなと遠くへ逃げろ!」

 そうしている間に家から焼け出された人々が、悲鳴を上げながらドラゴンから逃げていくのが見えた。転んだ老人を、ドラゴンの口が、勢いよく食らいついた。悲鳴と血飛沫を上げて老人が食べられた。

「貴様ッ!」

 ヴァシリは馬をドラゴンへ向かって走らせる。目と鼻の先まで近づくと、ヴァシリはマスケット銃を撃った。銃弾はあやまたずドラゴンの眉間へ飛び、火花と共にその硬い外皮によって弾かれた。

「なっ!」

 驚く暇も無かった。次の瞬間、尻尾の一振りがヴァシリを襲った。馬が倒れ、ヴァシリは地面に投げ出され、ゴロゴロと草の上を転がる。手に持っていた銃は闇の奥へ消え、腰のサーベルも草の中に絡め取られて無くなった。

「くそっ!」

 草むらの中からヴァシリは腰のナイフを抜いた。そのナイフは野営時に肉やパンを切ったりするためのものだ。それを逆手に持って、ヴァシリはドラゴンを睨みつける。ドラゴンはそんなヴァシリを見ながら「新しい餌が来たぞ!」とでも言うように、血まみれの口元をチロチロと細い舌で舐めた。

 そこへ、「やあやあやあ!」という黄色い声がヴァシリの頭の上から響いた。

 ヴァシリが上を見ると、そこにはいつの間にか民家の上でオリガが仁王立ちしているではないか。サーベルを天にかざし、芝居がかった口調で、彼女は口上を述べ始めた。

「ドラゴンめ! とうとう姿を現したな! 神妙に成敗してやる!」

 言い終わるや否や、オリガはドラゴンへ飛びかかり、その背中へ飛び乗ってしまった。この暴挙には流石のドラゴンも驚いたようで「シャーッ!」と蛇が威嚇する音を発して、体が上下に跳ねた。

「こしゃくなっ!」

 オリガがサーベルをドラゴンの首に振り下ろすと、カーンと音が響いてサーベルの刃が根元から折れて飛んだ。

 異常な光景に常軌を逸した行動が加わると、人はかえって冷静になるらしい。ヴァシリの頭に上った血が音を立てて引いていった。

「おい馬鹿! じゃない、少佐! 今すぐそこから飛び降りて逃げて下さい!」

 ドラゴンが濡れた犬猫のように体を揺すると、オリガはドラゴンの背中からあっけなく振り落とされた。頭から地面に落ちたオリガはそれきり動かなくなった。

「少佐!」

 ヴァシリが助けに入る余地もなく、ドラゴンがオリガに鼻を近づけ、彼女の匂いを嗅いだ。気絶したのか腰を抜かしたのか、あるいは死んだのかオリガ少佐は身動き一つしなかった。ドラゴンが歯茎をむき出しにする。オリガが食われると思ったヴァシリがナイフ一つで駈け出そうとした瞬間―――。



 話は一ヵ月前にさかのぼる。

 一七八八年四月の初旬、一隻の木造船がロシア帝国東部、シベリアのイルチュイシュ川を下っていた。

 ヴァシリ・ヴィクトロヴィッチ・アニシモフ大尉は、船の甲板の上で半死半生の体で寝そべっていた。荷物を枕に、マスケット銃を抱いている。

「ごほっ」

 と、せきをしてヴァシリは目覚めた。すると視界にちょうど、一匹の鳥が入った。ワタリガラスだった。ワタリガラスは雲一つない青空を軽やかに一周回り、再びヴァシリの視界から消え去った。

 鳥は気ままなもんだな。

 ヴァシリがそう思った途端、船が波に乗った。世界が縦に揺れ、横に揺れ、舟板の軋む音がそこかしこで聞こえた。

 俺はまだ船にいる。

 そう考えただけでヴァシリは憂鬱になった。口の中が酸っぱい。意識を失う直前に胃の中の物を吐いてしまったからだ。酷い船酔いだった。

「大丈夫かおめぇ」

 四、五十代の船長らしい男が膝を付いて男に声を掛ける。言葉づかいに負けない、染みだらけの汚い顔だったが、愛想は悪くなかった。

「俺の船にゲロなんか吐くなよ」

「もう吐くものなんか無い」

 ヴァシリは無理やり体を起こした。すると立ちくらみに似た、あるいは酒をしこたま飲んだ時のような吐き気と酩酊感があった。それでも先ほどよりましになってきたようだ。

「情けねぇな、それでも軍人さんかい?」

 軍服を見て言ったのだろう、船長の言葉にヴァシリは「陸軍だからな。水とは相性が悪いのさ」と返す。

 船長は「ああ、なるほど」と納得して「まぁ、無理すんなよ」と、船の見回りに戻っていった。

 ヴァシリは風に当たろうと船べりまで歩いたが、生憎と風は一向に凪いだままだった。帆は畳まれ、船はただ川の流れに乗って進んでいた。方向修正のために、船員が左右でたまにパドルを漕いだ。

 川というと、ヴァシリは故郷の屋敷の裏手でちょろちょろと流れている小さな川しか想像できなかったが、ロシア帝国東部、ウラル山脈を越えたこのシベリアの川の主流は彼の想像していたよりも遥かに巨大だった。川幅は平均して千メートルあり、見通しが良いと遠くタイガ(針葉樹林)の森は、草原に揺れる草のように錯覚するほどだ。船もボートのような小さなものではなく、コーチという種類の船で全長二十メートルの一層甲板でマストが一本付いていた。帆の他に、船乗りが左右に三人ずつ、歌を歌いながらパドルを漕いでいた。

 天気は太陽が出ているものの、川の周辺には霧とはいかないまでもうすい靄が立ち込めていた。船は川の真ん中から少し右側に寄って進んでいるのだが、そのせいで左側の岸はぼんやりとしか見えなかった。ときおり太陽の光が、靄の中で白い大きな筋となって大気にきらめいた。川は船が立てる波以外に動きは無かった。ヴァシリはこの川にはどんな魚がいるのだろうか、と考えながらぼんやりそれを眺めていた。

「起きたかヴァシリ大尉」

 後ろから自分を呼ぶ女の声に、ヴァシリは振り替える。長身で金髪、豊満な胸が背筋を伸ばすたびに上下に揺れた。彼女が昨日からヴァシリの上官となったオリガ少佐だった。オリガは反対方向の船べりへ手招きをしていた。

「来い大尉」

「なんでしょう」と、ヴァシリが船べりに近寄ると、オリガは川辺で水を飲む動物の群れを指した。

「見て見ろトナカイの群れだ! 仲良く水を飲んでいるぞ! かわいいなぁ!」

 ヴァシリはオリガが指さす方向へ目を向けて、ため息をついた。

「お言葉ですが少佐」

「なんだ大尉」

「あれは馬です」



 どうしてヴァシリはこんな馬とトナカイの区別もつかない上官と共に、船酔いに苦しめながら川を下っているのか。それにはもちろん理由がある。

 ヴァシリ・ヴィクトロヴィッチ・アニシモフの家はモスクワ管区の郊外に領地を持つ貴族だ。貴族と言ってもただ領民を治めればいいというだけでなく、ヴァシリの家は国家から一定の軍務を課せられていた。つまり徴兵だ。嫌なら貴族の位をはく奪されて一国民となる。

 こうした貴族は軍務なしに世襲で受け継がれる『世襲貴族』と明確に区別されて『勤務貴族』と呼ばれる。国家から仕事を与えられ、報酬として領地を治める資格を得るわけだ。

 だが徴兵の歴史は徴兵逃れの歴史でもあり、十八世紀のロシア貴族においても、この軍務は金やコネで逃げることも出来た。しかし、しがない貧乏貴族、それも三男坊であるヴァシリには出せる金もコネもなかった。

 ヴァシリが前線に駆り出されたのは軍隊に入って二年ほど経ったころだった。三年ほど前からロシア帝国は南部の黒海に進出する南下政策をとっていた。その進出に黒海海沿岸に国を構えるトルコが抵抗し、戦争が始まった。第二次露土戦争である。

 戦争の経過は順調だった。ヴァシリ自身、この戦争において短期間に、いくつかの勲章を貰い、昇進し、小隊を率いるまでになった。元々まじめな性格だし、体力にも自信があった。それにヴァシリの射撃は陸軍の中で最も優れていると過言では無かった。

 ところが数か月前、何を間違ったのか、味方の砲兵が大砲がヴァシリ率いる小隊に直撃した。生き残ったのはヴァシリ一人だった。

 ヴァシリはその際に負った怪我の為に本国へ帰還。部隊壊滅の責任を取るために軍務を延長させられた。そして配属先である先の皇帝が作った帝国の首都、芸術と文化の街、ペテルブルグからシベリアへと左遷されたのだ。

 馬車に乗って一ヵ月の間、彼はひたすら東へ突き進んだ。療養先の実家があるモスクワからニジエ・ノヴコロド、カザン、エカテリンブルグを経由し、ウラル山脈を越えてシベリア行政の中心都市、トボリスクの管区長本部へ出頭した。政府主導で行われたシベリアの開拓は、軍が行政の全てを取り仕切っているから、そこは事実上、シベリアの総司令本部と言っても差し支えなかった。

 本部はヨーロッパ風のレンガ造りの洒落た作りだった。小高い丘に立っているそれは、トボリスクの街や、麓に流れる川を威圧的に見下ろしていた。馬車に乗り過ぎて、尻が堅くなりつつあったヴァシリをそこで待っていたのはトボリスク管区長、ゲオルギー中将、それからオリガ少佐だった。

 ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・モロゾフは髭を生やし、がっしりとした体格の男だった。年齢は四十代前後だろうか、顔に深く刻まれた皺と、右頬から耳にかけて迫力のある刃物傷が目立つ。胸にはべたべたと勲章が付いていた。オリガについては、最初、ゲオルギーの愛人か何かだとヴァシリは思った。だがそれにしては若すぎるし、何よりゲオルギーのデスクの前に堂々と座っている姿には貫禄がにじみ出ている。

 でも女性軍人なんて聞いたことないぞ。

 ヴァシリが戸惑っていると中将は気さくな笑みを浮かべて「かけたまえ」と、ヴァシリを机の前に並べてあった椅子に促した。

「はっ!」

 ヴァシリは敬礼し、着席する。

「そう硬くなるな。楽にしろ。はるばる遠くからよく来てくれた。アントヴァナ少佐、ヴィクトロヴィッチ大尉」

 やはり軍属なのか、とヴァシリは思わずオリガの方を向きそうになった。しかもヴァシリよりも階級が高いではないか。

「これから君たちに辞令と命令を言い渡す」

 ゲオルギーが言った。

「私は形式ばったやり方は好まない。単刀直入に言おう。君たちにはヴィーチェ・ドラスクへ行き、そこの駐屯を命じる。詳しい業務内容は駐屯兵長のイーゴレヴィチ大佐に教えてもらうといい」

 ゲオルギーは立ち上がり、辞令書を何故か下士官の俺に差し出した。ヴァシリが起立して受け取ろうとして………ゲオルギーはひっこめた。

「ああ実は、もう一つ命令があるんだ、大尉」

 ゲオルギーがニヤリと笑う。ヴァシリは嫌な予感がした。

「ヴァシリ・ヴィクトロヴィッチ・アニシモフ大尉、元ペテルブルグ管区所属、先のオスマン帝国との戦争では中隊長を勤め上げたこともある。スヴォーロフ元帥の指揮下でヤッツィーとホーキンでの戦闘に参加、いくつか敵の部隊を壊滅、あるいは包囲による拿捕を行う。大尉に昇進したのはその時だな、勲章も貰っている。その後、ウルジ攻囲戦に参加したところ味方船からの砲撃により君の部隊は壊滅、君自身は負傷して後方へ送られている。運は悪いが実戦経験も豊富、指揮官としても有能でもある。さて……」

 ゲオルギーはゆっくりとヴァシリの後ろへ回る。

「君はシベリアについてどれだけのことを知っているかね」

「はい、閣下。二十年前までは流刑地、現在は皇帝陛下の開拓計画により政府の支援の下、移住が進められております。特に動物の毛皮は海を越えてイギリスにも―――」「うむ、それが世間一般の認識だろう。だがそれ以前、そう流刑地になる前はここがどんなところだったか」

 ヴァシリは躊躇ったが、ゲオルギーの促すままに言った。

「ドラゴンの生息地………原初年代記において七匹のドラゴンが現れ、モスクワの町を焼き払ったと」

「そう、十三世紀に二回、ドラゴ・ドゥーマ山脈とウラル山脈を越えて我々の祖先とタタール人を食い殺し、モスクワを焼き、ヨーロッパの半分を火の海に沈めた。一番最近だと、百六十年前、トヴェーリに二匹のドラゴンが現れ、ポーランド人を皆殺しにした上に城を半壊させた。この東からのドラゴン移動現象………イングランド人は『ドラゴンシフト』と名付けたな。それが今、現在、我々を悩ます問題なのだよ」

 ゲオルギーは元の席に着席して続けた。

「二ヵ月前、東部を行き来していた船乗りから妙な噂が流れ始めた。『巨大な影を見た』と。更に数日後、鉄を積んだ船が真夜中に巨大な何かの攻撃を受けた。船は大破、積み荷は川の底に沈んだ。幸い、乗組員は川べりで野営していて怪我人はいなかったが」

「それがまさか、ドラゴンの仕業だというのですか?」

「わからん。事件自体は盗賊の仕業ということになった。鉱山や輸送会社の関係者にもそう説明したし、乗組員にはかん口令を布いてある。だがドラゴンのせいにせよ、盗賊のせいにせよ、放っておくことは出来ない。そこで君たちにヴィーチェ・ドラスクの村を拠点に調査を行ってほしい。立ち向かえとは言わん。船が大破した原因を確認次第報告せよ。対処に困るようであれば、正式に部隊を編成して向かわせる」

 ゲオルギーはいったん言葉を切り、椅子をずらして窓の外を見る。

「君も言うように、このシベリアの開拓計画は政府を挙げての事業だ。先のトルコとの小競り合いもそうだが、スウェーデンの動きも気になる。我がロシア帝国には南方へ進出するための資源が必要だ。不穏な噂が流れて移住の流れが鈍っては困るのだよ。『ドラゴン条約』のこともある。アントヴァナ少佐、ヴィクトロヴィッチ大尉、両名をヴィーチェ・ドラスク村の駐屯兵として正式に配備する。イーゴレヴィチ大佐の指揮の下、秘密裏に周辺を調査。ドラゴンの存在を探り、報告してほしい。ドラゴン、およびそれに相当する脅威が発覚次第、迎撃部隊を派遣する。調査期間は未定、まぁ気長にやりたまえ。それでは、起立」

「ハッ!」

 二人は立ち上がり敬礼を行い、ゲオルギーの「退席してよし」の声で退室する。

「ああ、それからヴィクトロヴィッチ大尉」

 最後にゲオルギーはヴァシリを呼び止めて耳元で囁いた。

「アントヴァナ少佐は、その、まだ経験が浅い。彼女の父上には世話になった、どうか危険な目に合わせんでくれ。な?」

「了解しました」

「よし、頼むぞ」と、ゲオルギーはヴァシリの胸に辞令を押し付けた。

 こうしてヴァシリは大閣下から直々にシベリアの東にある新興の村、ヴィーチェ・ドラスクへの着任をオリガ少佐と共に命じられたのだ。

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