第6話 首相官邸

 危機管理局に戻ると、鬼塚局長が二人を待ち構えていた。

「まずは、星久保村での概要を聞かせてくれ」と鬼塚が言った。

 赤城は、MADサイエンス研究所でノーベル賞受賞者の白鳥博士と会ったことを含め、研究所での出来事を五分程度で要領よく説明した。鬼塚は、腕組みをして赤城の説明を黙って聞いていた。

にわかには信じられないことも多いが、MADサイエンス研究所の協力を受けられるのは、ウイルス盗難捜査に有効な手段がない現状では突破口になるかもしれん。このことは、この三人だけの秘密だ。他の局員にも話してはならん」鬼塚が強い口調で念を押した。

「休憩なしで悪いが、これから毛利首相を含めた緊急会議だ。四階の閣議室に行くぞ」鬼塚は言いながら、二人を振り返ることもなく四階に通じるエレベータへと歩き出した。赤城と黒田の二人も無言で鬼塚の後に続いた。

 毛利元康は民自党の総裁で、現在の総理大臣である。康幸ちゃん誘拐事件の当時は、元財務大臣の汚職事件や所属議員のスキャンダルなどで民自党が野党に甘んじていたときで、毛利党首は公私ともに多難な時代であった。ただし、その後の総選挙では、毛利党首の若さや誘拐事件への同情から民自党は大きく票を伸ばし、第一党に返り咲いて歴代最年少の首相にも選出された。

 首相官邸の四階には、政府の意志決定の場である閣議室がある。閣議室は閣議応接室の奥に隣接した閣僚のための会議室で、中央には直径五メートルを超えるマカンバ製の大きな丸テーブルが置かれている。

「閣議室に入るのなんて初めてですよ。何だか緊張しますね」黒田が不安そうに言った。

「緊張してるのは、私も同じよ。でもお願い、少し黙ってて」赤城は、黒田と同様に緊張した自分を鼓舞するように、少し大きな声でたしなめた。閣議室の入口には、首相を警護する二人のセキュリティポリス、通称エスピーが控えていた。

 そのエスピーの一人が、最後尾に控えていた黒田に気付いて言った。

「ひょっとしたら、黒田さんじゃないですか? こんな場所で何してるんですか?」

「何してるって、仕事だよ! 毛利首相に呼ばれてるんだ。君は確か浅草署にいた守田君だよね。風の噂でエスピーになったことは知っていたが、同じ首相官邸に勤めていたとは驚いたなぁ」と黒田が言った。

「私も驚きました。黒田さんが首相と面会するなんて・・・・・・」

 もう一人のエスピーが、「ゴホン」と咳払いをした後で、鬼塚に向かって言った。

「首相が中でお待ちです」

「鬼塚と他二名、入ります」鬼塚が来室を告げて三人が閣議室に入ると、そこには毛利首相が大きな丸テーブルにポツンと一人で座っていた。

「健ちゃん、どこでも好きなところに座ってくれ」毛利首相が鬼塚に向かって言った。

「健ちゃん?」赤城と黒田は怪訝けげんそうな顔をしてお互いの顔を見合わせた。

「しまった。つい、いつもの癖で・・・・・・。すまない、鬼塚」毛利首相が言った。

「――二人にはまだ言ってなかったが、毛利首相と私は大学時代の同級生だ」赤城と黒田の戸惑いを打ち消すように、鬼塚が照れくさそうに言った。

「私は二年遅れて卒業したので卒業年次は違うが、アメフト部でも一緒だった親友でもある」毛利首相が笑いながら言った。

「昔話は、それくらいにしましょう。毛利首相」と鬼塚が言った。

     ☆

 グラウンドを濡らす小雨こさめの中、関東学生アメリカンフットボールのリーグ戦の最終試合が終わった。対局相手はすでにリーグ優勝を決めた強豪校だったが、この日は毛利と鬼塚の活躍もあり、第四クォータのタッチダウンで逆転勝利した。

 試合後のミーティングが終わって、メンバーがシャワールームに向かっていた時だった。

「健ちゃん、ちょっといいか?」と次期キャプテンに指名されている毛利が鬼塚に話しかけた。

「急になんだ」と鬼塚が応えた。

「いよいよ来年は俺たちも四年生だ。チーム全体のレベルも上がって、来年は優勝も狙える地力がついたと俺は思っている」と毛利が言った。

「当たり前だ。次はリーグ優勝が目標だ」と鬼塚が力強く言った。

「――健ちゃん、すまん。次期キャプテンに指名されたばかりだが、これ以上アメフトを続けられなくなった」毛利が努めて明るく振舞った。

「いきなり、どうしたんだ。いまクォータバックのお前が抜けたら、うちのチームは大幅な戦力ダウンだ」と鬼塚が抗議した。

「俺だってわかってる。でも仕方ないんだ」毛利が悔しそうに言った。

「試合の直前で言えなかったが、今朝、田舎の父が亡くなったんだ」

「これからすぐ、山口の田舎に帰らないといけないんだ」

「これまでは奨学金と少しの仕送りで何とかやってきた。これまで少しのアルバイトしかせずに、アメフトに打ち込んでこられたのも親からの仕送りのお陰だ」

「しかし、事情が大きく変わった。これからは学費と生活費を自力で稼ぐ必要がある。だから、休学して学費を稼ぐことに決めた」毛利が事情を説明した。

「そういうことか・・・・・・。力になってやりたいが、俺も親のスネかじりの身だ。役に立てなくて、すまん」黒田が申し訳なさそうに言った。

「気にすんな。大学を辞めるわけじゃない。ちょっと卒業が遅れるだけだ」毛利が笑いながら言った。

「健ちゃんにお願いしたいのは、次期キャプテンのことだ。うちの大学は頭のいい奴が揃っているが、協調性はあまりない。チームをまとめられるのは、お前しかいないんだ」毛利が力を込めて言った。

「仕方がない。お前の頼みなら、引き受けるしかないな。でもな、困ったときは遠慮なく連絡するんだぞ」と鬼塚が言った。

 次の年、東大アメフト部は開幕前の予想を裏切って、リーグ優勝は逃したものの八校中の二位と大健闘した。

     ★

「もう一度繰り返させてすまないが、星久保村での話を毛利首相に説明してくれ」鬼塚が赤城に促した。

「わかりました。MADサイエンス研究所での出来事を説明いたします」

 赤城は、鬼塚に報告した時のように出来るだけ感情を抑えて、康幸ちゃん誘拐事件の解決手法や、サイエンス研究所が今回のウイルス盗難事件を知ったきっかけを説明した。毛利首相は赤城の説明に時々うなずきながら、聞き入っていた。

「そういうことだったのか。今すぐには納得できないが・・・・・・」毛利首相がうなった。

「今度は私が説明しよう。ウイルス盗難の件で、私に届いた脅迫メールの件はすでに知っているな。セキュリティ保持の関係で、ここに一部だけ印刷してきた。三人で回覧してくれ」と毛利首相が言った。

 メールの内容は、文章ではなく次のような単語の羅列だった。

《鳥 ウイルス 盗難 身代金 五十憶円 ネットコイン 福山大観たいかん 辞任 要求 警察 通報 自由》

「この脅迫メールをどう思うか、君たちの忌憚きたんのない意見を聞かせてくれ」と毛利首相が言った。

「ところで、総理。メールにある福山大観というのは、人物名のようですが何者ですか?」と赤城が聞いた。

「福山は、今回の鳥インフルエンザウイルスが奪われた国立ワクチン研究所の所長だ」と鬼塚が説明した。

「犯人には、福山さんへの何か個人的な恨みがあるのでしょうか? それにしては、身代金の額が大きすぎる気がします。また、脅迫状が文章になっていないのも気になりました。外国人が犯人の可能性も考えられます」と赤城が意見を述べた。

「誘拐事件の場合、警察に通報するなというのが定番なのですが、通報も構わないというのが気になりました。私は愉快犯の可能性も否定できないと思います。それから、このような大胆な犯行は複数犯の可能性が高いと思います」と警察出身の黒田も意見を述べた。

「もちろん、この問題は社会への影響が大きいので警察への通報はまだ控えている。この件を知っているのは、ここにいる四人と今は席を外している官房長官だけだ」

「この件を公表すれば、大規模なパニックになる危険性もあるからな」喉から絞りだすような声で毛利首相が言った。

「私は、ネットコインで身代金を要求したことも気になりました。毛利首相のメールアドレスを突き止めた事といい、送金に仮想通貨であるネットコインを指定した事といい、コンピュータのスキルがかなり高い犯人だと思います。また、単語の羅列というのは、文章の癖を悟らせないためだと考えられます」

 赤城が意見を述べ終わったのとほぼ同時に、毛利首相と鬼塚の情報端末にメールが届いたことを知らせる音が鳴った。毛利首相と鬼塚は、情報端末をスーツの内ポケットから取り出してメールの内容を確認した。

「最初の脅迫メールが届いた後に、メールアドレスは変更したはずだが、また脅迫メールが届いたようだ」毛利首相が言った。

「私の方にも全く同じメールが届いたみたいです」と鬼塚が言い、情報端末を赤城と黒田に向けて、そのメールを見せた。

 そのメールには、《五十憶円 明日 十五時 振込 警告 赤 黒 狂 邪魔》と最初のメールと同じように、単語の羅列で書かれていた。

「身代金の締め切りが明日の午後三時までになっています。それから、赤と黒と書いてあるのは我々のことでしょうか?」赤城が鬼塚に聞いた。

「狂はMADマッドのことでしょうか? MADサイエンス研究所のことも、すでに知られているみたいですね」黒田も三人に同意を求めるように言った。

「とにかく、身代金の五十億円は官房長官と私で何とかする。まずは、犯人が辞任を要求している福山所長に会ってきてくれ。犯人につながる何かがわかるかもしれない。頼んだぞ」と毛利首相が赤城と黒田に言った。

「ただし、犯人からの警告もある。くれぐれも気を付けてくれ」鬼塚が注意を促した。

     ★

 首相官邸の閣議室での緊急会議が終わると、既に夜十一時をまわっていた。赤城が危機管理局へ戻って帰り支度をしていると、黒田が声をかけてきた。

「もうこんな時間ですね。遅くなったので、家まで送りましょう」

「一人で大丈夫です。こう見えても、合気道の心得があるので、自分の身は自分で守れます」と赤城が言った。申し出を拒絶されて落ち込んだ黒田は、鬼塚に呼び止められて何か話し込んでいたが、赤城はその様子を横目で見ながら、危機管理局を後にした。首相官邸の最寄り駅である国会議事堂前駅は、危機管理局から徒歩五分である。駅までの道のりは深夜近い十一時を過ぎても人通りが絶えず、犯人からの警告がふと頭の隅を過(よぎ)ったが、まだ危険な兆候は微塵みじんも感じられなかった。

 赤城は自宅マンションの最寄り駅で降り、駅の西口から出て、いつものように馴染みのコンビニエンスストアに向かい、明日の朝食のためにヨーグルトと野菜ジュースを買った。赤城の自宅は川沿いにある独身者用のワンルームマンションで、最寄り駅から歩いて十分の距離にある。目指すマンションまでは一軒家の多い住宅街を通り抜けるため、この時間帯には帰路の人通りはかなり少なくなる。見通しの悪い交差点に設置されているカーブミラーには、赤城の不安げな表情が映し出されていた。

 駅から歩いて五分。頼りなさそうな黒田であっても、意固地になって黒田の好意を受け入れなかったことが、今頃になって後悔の気持ちに変わったことを赤城は意識していた。赤城は、自宅のあるマンションまでのほぼ中間地点で、仲良さそうに腕を組んだカップルとすれ違った。二人はプロ野球のファンらしく、贔屓ひいきのチームのユニフォームをかたどったお揃いのTシャツを着て、野球帽を目深まぶかかぶっていた。野球帽のつばのため、赤城は女性の表情を見ることはできなかったが、すれ違う瞬間、その女性がわずかに微笑んだ。すれ違った後で何となく違和感を覚えた赤城は、すぐに振り返ったが、路地を曲がったためか既にカップルの姿は視界から消えていた。

 明日のスケジュールを頭の中で反芻はんすうし、次の日に備えて今日は早く寝ようと考えながら歩いている赤城の前に、自宅手前の路地から目出し帽を被った怪しげな四人組が突然現れた。四人は背格好こそ違うが、同じ濃紺の作業着を着ていて、素顔がわからないようにお揃いの黒い目出し帽をかぶっていた。

 そのうちの一人が、じりじりと赤城に近づいてきた。

「警告だ。この件からすぐに手を引け」と低い声ですごんだ。

「この件とは、何のことかしら?」と赤城が聞いた。

「何でもいい。お前には関係ない。今すぐめろ!」と男が再び凄んだ。

 男はさらに近づいて、赤城の肩を触ろうとして右手を伸ばしてきた。その暴漢の右手が赤城の体に触れようとした瞬間、赤城はわずかに体を横に移動して、暴漢の右腕をかわした。次に赤城は、目標を失ってバランスを崩した右腕の手首を掴んで反対方向にひねり、その流れのまま暴漢を地面に組み伏せた。

 一瞬の出来事に、その暴漢は何が起こったかわからなかった。しかし、呆然ぼうぜんとしていた暴漢も、数秒後には自分の状況に気が付いた。「いてぇ。何すんだぁ」とその暴漢が叫ぶと、慌てた残りの三人が一斉に赤城に向かって襲いかかってきた。三人のうちの一人はプロレスラーのような巨漢で、その大男が赤城を後ろから羽交い絞めにした。羽交い絞めにされたことで、赤城は組み伏している暴漢から手が離れた。

「やめなさい。警察を呼びますよ!」赤城が厳しい声で警告すると、巨漢はグローブのような大きな手で赤城の口を封じた。冬なのに巨漢の体臭は強烈で、数種類の香辛料が混じったむせるような複雑なにおいがした。

「らめらさい」赤城は声にならない警告を再び発した。口をふさがれた息苦しさと恐怖で全身が脱力し、崩れ落ちそうになる瞬間、黒い人影が赤城の目の前を横切った。

 一瞬気を失った赤城は見ることができなかったが、その人影は優美な舞のように、目にも留まらぬ動きで掌底しょうていによる打撃を三人の暴漢に次々と繰り出した。その打撃は、的確に三人のあごを打ち抜いた。三人は軽い脳震盪のうしんとうを起こし、自分が打撃を受けたことにも気付かないまま、意識を失い地面にゆっくりと崩れ落ちた。さらにその人影は、この光景を見て呆然とする巨漢の顎にも同様の打撃を加えたが、身長差のせいか一撃で昏倒させることはできなかった。次にその人影は、顎を狙った一撃からの連続動作で、巨漢の肩に肘打ちを叩き込んだ。強烈な肘打ちによる肩の激痛に耐えかねて、その巨漢は赤城への羽交い絞めを振りほどき、その場に尻もちをついた。さらに、その巨漢の足首を狙って、黒い人影の攻撃が続いた。四人の暴漢がすべて撃退されるまでにかかった時間は僅か十秒で、百メートル走と同じ時間しかかからない早業はやわざであった。

 気が付いて目を開けた次の瞬間、赤城は信じられない光景をの当たりにした。赤城を襲った四人の暴漢のうち三人は、熟睡したかのように地面で昏倒していた。また、赤城を羽交い絞めにした巨漢は、足首を抱えながら聞いたことのない外国語でわめきたてていた。

「お怪我はありませんか? 赤城主任」黒田が聞いてきた。

「――怪我はないけど、これはあなた一人でやったことなの?」黒田と倒れた暴漢たちを交互に見ながら赤城が質問した。

「こんな奴ら、私一人で十分ですよ。三人はそれぞれ一撃で気絶しましたが、大きい奴は気絶しなかったんで、逃げられないように両足首をひねっておきました」黒田が平然と答えた。

「少し前に警察に連絡しましたから、もうすぐパトカーが到着すると思います」黒田が冷静に言った。

 まもなく二台のパトカーで到着した警察官たちに、黒田が暴漢たちを引き渡した。それから警察官たちに簡単な事情を説明して一段落した後、黒田が赤城に言った。

「別の暴漢が続けて襲ってくることはないと思いますが、用心するに越したことはありません。今日はホテルに泊まってください。近くのホテルを探してみます」黒田は情報端末で素早く検索してホテルの予約を入れた。

「ホテルまでは私が送ります」と黒田が言って、手配したタクシーに二人で乗った。着替えを準備するため、途中で赤城のマンションに立ち寄って、予約したホテルに向かった。ホテルでチェックインを済ませて黒田と別れる時、黒田が言った。「明日はホテルまでお迎えに上がります。先方との面会時間は十時ですので、忘れないで下さい。暴漢の件は、私から鬼塚局長に報告しておきます」

     ★

 ホテルの小さな部屋の薄明りの中、赤城は自分の無力さを痛いほど感じていた。「もう少し何かできた筈なのに」、「あの時こうしていれば」と後悔ばかりが赤城の頭をよぎった。赤城はベッドに入ってからも、恐怖と興奮でなかなか寝付けなかった。しかし、奥多摩までの出張疲れもあり、午前二時を過ぎた頃にはいつのまにか眠り込んでいた。そのあとは連日の深夜勤務による寝不足もあり、情報端末にセットしたアラームに起こされるまで、夢を見ることもなく朝まで熟睡した。

 赤城はレストランでの朝食を軽めに済ませ、身支度を整えて一階のロビーに向かった。約束の時間より少し早かったが、すでに黒田が到着して待っていた。

「おはようございます」と黒田にいつもの調子であいさつされると、赤城は昨日のことが現実ではない悪夢ではなかったのかと錯覚するような感覚に陥った。

「昨日は助けて頂いて、ありがとうございました」赤城は余裕がなくて言いそびれていた昨晩の感謝を黒田に伝えた。

「実を言うと、鬼塚局長から赤城主任を自宅まで見届けろと命令されていたんですよ。少し離れて主任を尾行していたのを気付きませんでしたか?」近づいてきた黒田が小声で言った。

「尾行の途中で四人の怪しげな連中に気付いたんですが、四人同時に確保するため、機会をうかがっていました。主任には怖い思いをさせて済みませんでした」と黒田が続けた。

「話の腰を折って済みません。今思い出したんですが、暴漢に襲われる前にすれ違ったカップルには気付きませんでしたか?」赤城が聞いた。

「――申し訳ありません。暴漢の方に集中していたので、よく覚えていません」少し考えてから黒田が答えた。

「そうですか・・・・・・。やっぱり、私の気のせいかしら」と赤城が小声で言った。

「少し込み入った話があるので、場所を移動しませんか?」黒田に促されて赤城はロビーの端に移動し、引き続き黒田の話を聞いた。

「昨夜の犯人たちの供述を、所轄にいる友人から聞いてきました。まだ確認は取れていませんが、四人のうちの一人、あの巨漢はエジプト人だそうです。もう一人は中国人、残りの二人が日本人です。四人ともインターネットの闇サイトの求人広告を見て、赤城さんを襲ったそうです。ただし、請け負った仕事は『脅し』だけで、赤城さんに危害を加える予定はなかったそうです。ですが、最初に赤城さんに組み伏せられた日本人を見て、巨漢のエジプト人がパニックになって予定外の行動に出たようです」黒田が昨夜の経緯を簡単に説明した。

「脅迫の仕事は、すべてインターネット経由の依頼だったようです。ですから、四人全員が依頼主と面識はないそうです。犯行に使われた黒い目出し帽や作業着は黒幕である依頼主が手配したもののようです。また、報酬の前金が二万円相当のネットコインで支払われていました。これらのことから考えて、例の件の犯人と同一の線が濃いと思います。こんなわけで、暴漢たちの依頼主を特定することはかなり難しそうですね」と黒田が続けた。

「ところで、黒田さんは空手を習っていたんですか」と赤城が聞いた。

「前にもお話したように、空手はやったことがありません。私の格闘術は、師匠から一子相伝で教わった名無しの古武術です。これでも一応、第六十九代の継承者ということになっています。ただし、どこかの漫画のような無敵の暗殺拳ではありませんので、ご心配なく。私の古武術は、人を生かすための拳法で、人を傷つけるための拳法ではありません」

「私の師匠は熊野くまの活人拳かつじんけんと言っていましたが、正式な名称ではありません。先々代は別の名前を名乗っていたとも聞いています。名前に関しては結構いい加減な古武術ですが、その歴史は古いんです。私の師匠の話では、この古武術の開祖は空海くうかいだそうです」と黒田が説明した。

「あの空海・・・・・・、弘法大師がその古武術の開祖なんですか?」と赤城がいぶかしげに聞いた。

「はいそうです。もちろん、私の師匠が言っているだけです。この古武術に関する一通りの伝承は師匠から聞いています。しかし、口伝えの伝承ですから証拠になるような古文書は一切ありませんし、私も実は半信半疑です」黒田がきっぱりと言った。

     ☆

 黒田は三十年前の師匠との出会いを思い出していた。その日は黒田が通っていた小学校の遠足の日だった。遠足の目的地は、奥飛騨町の烏山からすやまの中腹にある烏山八幡からすやまはちまん神社で、黒田が通う小学校では、新入生の歓迎遠足の定番コースになっていた。烏山には、よく知られている赤い顔の天狗ではなく、黒い顔をした烏天狗がいたという古い伝承が残っている。その烏天狗が、作物を荒らすイノシシや村人を襲ったクマを撃退した話が、今でも語り継がれている。もちろん、妖怪のたぐいである烏天狗は実在しないので、その正体は山岳信仰の修験者しゅげんしゃか平家の落人おちうどではないかと、地元の郷土史家には考えられている。また、山頂付近には方位磁石を狂わす磁気を帯びた大岩があり、オカルトブームの頃には、山全体がミステリースポットとして雑誌に取り上げられたこともあった。また数年前には、地域を盛り上げるためのご当地マスコットとして、『黒天狗ちゃん』という“ゆるキャラ”まで作られていた。麓の登山道入り口から烏山八幡神社までは緩やかな登りの一本道で、山から眺める景色の良さと適度な距離の道程みちのりのため、地元のハイキングコースとしても利用されていた。

 小学二年生の黒田は前日から、リュックサックに詰めたお菓子を何度も出し入れしながら、興奮してソワソワしていた。担任の先生からは通知表に「少し落ち着きがありません」と書かれるくらい、一旦何かに興味がわくと、他のものが見えなくなる傾向が黒田少年にはあった。遠足当日の日もそうだった。小学校を出発した黒田は、同級生とふざけあいながら、山道を楽しく登っていた。しかし、山道の途中で優雅に飛んでいる大きな紫色の蝶を発見した。最初は目だけでその蝶を追っていたが、気付けば遠足の列を抜け出して、登山道からも離れていった。「保夫ちゃん!」と呼ぶ同級生の声も耳に入らず、黒田は蝶を追いかけて、さらに山の奥に分け入った。

 夢中で追いかけていた蝶を見失って、ふと周囲を見ると、そこは鬱蒼うっそうと木々が生い茂った林の中だった。黒田は、その場所が一体どこなのかが分からずに、途方に暮れた。少し落ち着いた黒田は、喉が渇いていたことに気が付いて、斜め掛けしていた水筒の蓋を開けてお茶をゴクリと飲んだ。気を取り直して、元の遠足の列に戻ろうと考えたが、黒田は自分がどの方向からやってきたかもわからなかった。仕方なく、山の傾斜方向にトボトボと歩いて十分ぐらい山を下っていると、およそ三十メートル先に黒くて大きな岩が見えてきた。「あそこでちょっと休もう」と黒田が思ったとき、その岩が小刻みに動いているのが見えた。岩のように見えたその物体は、黒田に背を向けて、地面を掘りながら何か食べている様子だった。しかし、近づいてくる黒田の気配に気が付いて、その生き物が食事の動作を中断した。

「イノシシだ!」

 初めて見る野生のイノシシに驚いて、黒田は緊張のあまり動けずにいた。食事を邪魔されたイノシシは、振り返って黒田の方をにらみながらゆっくりと近づいてきた。そのイノシシは野生にしては珍しい百キロを超えるような巨体で、口元には湾曲した大きな牙が見えていた。じりじりと黒田との距離を詰めてきたイノシシは、途中から急加速して猪突猛進、黒田に向かって走ってきた。イノシシは不用意に接近した人間を襲う場合も多く、イノシシの全力の突撃を受けると、大人でも跳ね飛ばされて大怪我を負う危険がある。

「わぁ、ぶつかる」と黒田が思った瞬間、黒い塊がイノシシの真横から衝突して、イノシシを三メートルほど跳ね飛ばした。その黒い塊に突き飛ばされたイノシシは、横倒しになったあと、素早く立ち上がって一目散に林の奥に逃げて行った。黒田は、何が起こったのか理解するまでに、少し時間がかかった。黒田がイノシシが走ってきた方向を見ると、そこには着古された黒いジャージを着たおじさんがぽつんと一人で立っていた。そのおじさんがゆっくりと歩きながら黒田に近づいてきた。

「ボウズ。危ないところだったなぁ。こんなところで何してるんだ?」黒ジャージのおじさんが微笑みながら黒田に話しかけた。

 近付いてきたおじさんの顔をよく見ると、真っ黒に日焼けした顔の額には、生々しい大きな傷があった。

「ありがとう、おじちゃん。蝶々を追いかけているうちに道に迷ったみたいなんだ。おじちゃん、いまので頭にケガしたの?」と黒田が心配そうに聞いた。

「これか? これは三日前にクマにやられたあとだ。ちょっと手こずったが、クマは素手で仕留めたから、心配ない」

「おじちゃんは、ここで何してるの? おじちゃんは天狗さんなの?」地元に残る黒天狗の伝説を思い出した黒田が聞いた。

「天狗じゃないぞ。でも、天狗より修行してるから、天狗よりは強いかもしれんなぁ」

「ところで、ボウズ。助けてもらったら、お礼をするのが人としての礼儀だ。何か食べるものを持ってないか?」黒ジャージおじさんが聞いた。

「――遠足のおやつのバナナならあるけど、食べる?」少し考えて黒田が答えた。

「良いもの持ってるな。バナナは大好物だ。クマの肉は食い飽きたから、ちょうど良いデザートだ」

 バナナを食べ終わった黒ジャージおじさんが唐突に言った。

「お礼に俺の蘊蓄うんちくを聞かせてやろう。ボウズは遺伝子という言葉を聞いたことがあるか?」

「イデンシ?」

「遺伝子は生き物の体を作る設計図みたいなもんだ。この設計図を使って、人間の体もできてるんだぞ」

「人間とクマの遺伝子は九十パーセント似ているぞ。イノシシは八十パーセントくらいだな。さっき食べたバナナでも六十パーセントは似ているそうだ」

「そうか。バナナと人間は設計図が似ている兄弟なんだね」

「そうだな。生き物は、すべて兄弟だ」

「ところで、ボウズは大きくなったら何になりたい?」

「僕はテレビで見た戦隊ヒーローのような正義の味方になりたい!」

「そうか。わしはテレビを見ないから、そのヒーローについては良くわからんが、正義の味方は強くないとなれないぞ」

「おじちゃんは、どうやってそんなに強くなったの? 僕もおじちゃんのように強くなれる?」

「ボウズはツイてるな。そろそろ、次の後継者を考えていたところだ。よし、それじゃあボウズを儂の弟子にしてやろう。今日から儂のことは師匠と呼べ」

「シショウ?」黒田は意味が分からずに、頭の中でその言葉を繰り返した。こうして黒田は由緒正しい古武術の第六十九代継承者の道を歩むことになった。

     ★

 今思えば、伝説の黒天狗は遥か昔の継承者の一人かもしれないなぁと黒田は考えた。それから、ふと我に返った黒田が腕時計を見ながら言った。

「約束の時間に間に合わなくなります。赤城主任、急ぎましょう」

「そうですね。ホテルをチャックアウトしてきます」どことなく元気がない赤城が力なく言い、支払いを済ますためにホテルのフロントに向かった。

 黒田はフロントに向かう赤城の背中に、「主任の合気道の技、結構決まってましたよ!」と小さな声をかけたが、赤城は気付かなかった。


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