死神のおすすめ

綾繁 忍

最終話

『だから、お前に一人だけ人を殺す能力をやる』

 いや。いやいやいや。意味がわからないっての。

 そのおっさんの言葉が口というよりは耳元に響くような奇妙な声音だったとしても、その申し出ははいそうですかと納得するには突飛すぎる。


 深夜の公園。某県某所のリサイクル工場で働く俺は、休憩時間に抜け出して、近所の公園で缶コーヒーを飲みながらベンチでまったりするのが日課だった。

 そこに突然現れた、よくわからないおっさん。夜なのでよくわからないが、コートか何かを着込んで全身黒ずくめの格好の上に青白い顔が乗っている。

「はは、何言ってんのアンタ。罰ゲームか何か? そういうのは大学生までに卒業しておけよ」

 鼻で笑いながら答える。するとおっさんは、

『こういう力だ』

 とまた不可解な口調で話しながら、数十メートル遠くを歩くカップルをゆっくりと指差した。

『×××××』

 俺にも発音できるが、どうしても文字にできない奇妙な言葉をおっさんは放つ。

 するとカップルの男の方は、急にその場に倒れた。

「は……?」

 意味がわからない。最初は冗談かと思ったのか半笑いだったカップルの女の方が、だんだん半狂乱になっていく。徐々に周囲も異変に気づき始め、人だかりができつつあった。

「……手の込んだドッキリだな?」

 何とかそう言ってみるが、自分でも驚くほど切れの悪い口調になってしまった。

 初対面の俺を騙すにはあまりに手間のかかる仕込み。

 信じられるわけじゃないが、そのおっさんの風体も相まってとにかく不気味だった。

『指を指して、今の言葉を唱えろ。別にお前に不利益はない。ただ一人しか殺せない』

 無理やり翻訳したかのような口調でそれだけ告げると、おっさんは踵を返して去ってしまった。俺の方だって、呼び止めるほどの理由もなければ信じるだけの根拠もない。返事もできず、ぼーっと缶コーヒーを持ったままベンチから立てずにいた。


 信じているわけじゃない。

 それはそうなのだが、いざ実際にそんな力があるのだと仮定してみると、少しだけ愉快な話だった。あの言葉を言うだけで、あいつも、あいつも、あいつも、いつでも簡単に証拠さえ残せず殺せるとしたら。ただしできるのは一回だけだ。殺せるなら自分にとって一番厄介なヤツを殺したい。

「おい安達! ぼさっとしてんじゃねえぞ。指飛ばしても知らねえからな」

 仕事中、そんな妄想に浸っていると上司からお叱りが飛んだ。反射的に上司を指差す。

「あ? なんだお前」

「いや、ははは、すみませーんついクセで」

 卑屈に笑ってごまかす。まだだ。あんな小物でせっかくの力を失うわけにはいかない。……力? バカバカしい、いつのまに俺は信じるつもりになったんだ。

 そう思ったところで、妄想は消えなかった。むしろ妄想を重ねるたびに、自分には本当にそんな力があるんだという思い込みが深くなっていったと思う。


 結局、今日もこき使われた。上司はあのあとも事あるごとに俺の仕事ぶりにケチをつけた。自分だって工場長から毎日のように怒鳴られてるっていうのに、人のことをよく言えたもんだ。無能に無能扱いされるのは本当に胸糞悪い。


 退勤時刻ちょうどに工場から出て、恋人のマドカに電話する。しかし出ない。珍しいこともあるもんだと思い、とにかく仕事の愚痴を吐き出したかった俺はマドカの家に向かうことにする。幸い職場からはそれほど遠くない。原付にまたがり、マドカの家を目指す。


 途中のコンビニで二人分のケーキを買ってから、マドカの住むアパートにたどり着く。二階の角部屋がマドカの部屋だ。明かりはついている。家にはいるようなのに、掛け直してもこないのはどういう了見だ。しかしせっかくここまで来たのだから、驚かしてやろうか。


 そう思って防音性の低そうなドアの前に立つと、中から人の声がする。

 男の、声。

 それに答える、俺に向けたときとは全く違う、媚びたようなマドカの声。

 会話の中身はよくわからない。やめてよ、とか、もう、とか、そんな笑い混じりの濡れた言葉が聞こえるだけで、それでも何が起きているかは十分に理解できた。

「は…っ…?」

 足元がぐらつく。こんな不意打ち聞いてない。ケーキを持った指から力が抜ける。

 付き合い始めて三年。俺の稼ぎでは不安で言い出せなかったが、それでもそろそろ結婚を、と俺は考えていた。確かに最近はすれ違うことも多かった。棘のある会話も何度かした気もする。だがこんな裏切りをされるほどだったか。


 どさり。

 指に引っかかっていたケーキの袋が床に落ちる。中から「え?」という声が聞こえた。

 せめてここで踏み込んでいればよかったかもしれない。

 俺はたくさんの踏み込むべきでない理由を頭に浮かべながら、全力でその場から逃げ出した。


 翌日、俺は無断で仕事を休んだ。職場からはひっきりなしに着信が入ったが全て無視した。頭の中では三年間のマドカとの思い出と、上司を含め工場のいけ好かない連中の顔がずっとぐるぐる回っていた。ほとんどロシアンルーレットだった。しかし誰を指差すかは俺が決められる。俺が×××××といえば、結果が決まる。

 涙を拭くのも面倒だった。鼻水が次々と出てきて止まらなかった。冴えない人生だったが、結婚して子供でもできれば何かが変わると思った。それももうどこかに消えてしまった。

 ほとんど一日中、布団の上でうずくまって過ごした。さすがに身体も痛くなり、絶望するだけ絶望したからか動こうという気になったので、とりあえず顔を洗うために洗面所に向かう。

 鏡の中俺の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。

 しかしその頬は引きつったように釣り上がり、微笑むような表情になっていた。

 その頬に触れるために持ち上げた手は、誰かを指差すような形で固まっていた。


 次の日、俺は工場に出勤した。工場長に謝り、上司に謝り、仲間に謝ったが、何か吹っ切れたような、晴れやかなような気持ちだった。誰かを殺すことを心に決めたときというのはこんな気持ちだったのか。全てがどうでもよくなって、空の青さがきれいだと思った。今日、あいつを殺す。それが俺にとっての祝福だった。

 あっという間に時間が過ぎていく。そんなことは起きないと思いながらも、内心が漏れ出さないように他の人からはなるべく離れて働いた。我ながらおかしなテンションだ。


 俺の邪魔をするやつ、俺を苦しめるやつのことを気にかけなくてもいい。

 たったそれだけのことが、俺の心を随分と軽くしてくれた。

 もう殺さなくてもいいんじゃないかと思えるくらいに軽くなった。


 だからだろう、本当は二人以上でなければ行ってはいけない作業を、俺は一人でやることにした。謎の自信に満ちていた俺は、その機械のスイッチを止め、メンテナンスを開始する。いつもはうんざりするようなベルトコンベア上のゴミの取り除き作業だって苦にならない。こころなしか、いつもより効率的に進められているような気さえする。


 だから肘がいつの間にか起動スイッチに触れてしまったことにもしばらく気づけなかったし。

 ベルトコンベアに服の一部が挟まれていることもわかっていなかった。


「え?」

 身体が運ばれる感覚で我に返る。作業着の裾がベルトコンベアに挟まっているのか、どれだけ引っ張っても外れない。目と鼻の先には――破砕機。リサイクル用の木材をやすやすと、粉々に砕く鋼鉄の刃。

「――ッ!?」

 言葉にならない叫びを上げてしまう。ベルトコンベアから刃までは数メートルの距離しかない。時間にして数秒。頭の中がぐるぐる回る。どうしよう。どうしたらいい。あれに巻き込まれる? 足から? 嫌だ、そんなのは耐えられない。絶対に死ぬ。死にたくない。死?


 そうだ、殺せる。

 俺にはその力がある。


 指先を自分の胸に向ける。つい躊躇ってしまう。周りの人間が気づいてくれるかもしれない。機械が奇跡的に止まるかもしれない。わずかな期待を持ってしまう――が、目の前に迫り回転する刃が期待を打ち砕く。

 無理だ。もう無理だ。足から巻き込まれて死ぬまでに何秒かかる? それまでにどれだけの苦しみが襲ってくるんだ?


「×××××!!」


 破砕機に切り刻まれる自分の姿をありありと想像した直後、俺は迷わず叫んでいた。

 しかし何も起こらない。


「×××××!! ×××××!!」


 何度叫んでも何も起こらない。

 もう足先に刃が届く――そんな瞬間に、あのおっさんの声が耳元で響いた。


『嘘だよーん』


 殺す。絶対に殺す。


 人生最大の殺意を抱えたまま、

 俺の足先は刃に巻き込ま れ 

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