第2話 朝の風景
遠く、かすかに聞こえる汽笛の音で眠りの淵から意識が呼び戻されて目を開くと、カーテンを透かすほの明るい朝の光に暗い室内がわずかに照らし出され、そこが見慣れた自分の部屋であることを確認してまた目を閉じる。
再びの汽笛の音、さっきよりも近い。
一つあくびをして目を覚まし、ベッドから降りて伸びをした後、カーテンを引いて朝日を浴び、窓を開けて潮風を吸う。
遠くには蒸気船が黒煙と蒸気を吐き出しながら港に付き、近く窓の下には荷役にあたる人々と牛馬が賑やかにそれぞれの音を発しながら港へと向かっていく。
活気に満ちた朝の音を聞きながら身だしなみを整え終わると、カーテンを揺らす新鮮な潮風が室内に満ち、さっきより高く昇った朝の陽が室内に差し込んでいる。
まだ眠気の抜けない目をこすりながらチェストの方に視線をやり、並んだ人形の佇まいを確認してから窓辺の作業机に向かい、その上に広げられたドレスを手に取ると、昨日までドレスを飾っていたレースの束が別れを惜しむようにはらりと床に落ちる。
このドレスに思いを込めた人のことを考えると、我ながらに残酷なことをしていると思う。だけど、着られないドレスに価値なんてない。
床に落ちたレースはそのままにドレスを広げて袖の部分を引っ張り、作業机に置かれたペン立てから糸切りを取って生地を傷つけないよう慎重に袖の縫い合わせに差し込む。そして縫い目を確認しながらぷつりと糸を切り、整然と均等に並ぶ縫い目の二つおきに糸を抜いていく。
縫い目や仕立てを見れば、テイラーや縫い子の技量、想い、工夫が手に取るようにわかるまでに、私はこの作業を繰り返している。
この部屋に住みだしてからもう四年、最初の頃は女中のエイミーが一日中監視して半ば監禁に近く、しばらくはおとなしく従っていたけれど、そんなことがいつまでも許されるはずもなく、暇に任せて毎日のように抗議しているうちに向こうの方が根負けして今は自由に行動することが黙認されるようになった。
監禁されていた時は狭い部屋の中で特に何もすることがなく、そんな時に目についたのが妹が幼いころに一緒に遊んでいた人形たちで、そのボロボロにくたびれたドレスが哀れに思えて、エイミーから裁縫道具を借りて修繕しようと思ったのがことの始まりだ。
最初はほつれた部分を繕うくらいで、そのうちに破れや汚れがひどくて修繕できない部分に継当てをしたり、ほどいた部分を型紙に写して別の布で新しく作り直したりするうちに使える布が無くなり、自分の古着のドレスを分解して人形のドレスに仕立て直すようになった。
――コン、コン、コン、コン。
「サラお嬢様、朝食をお持ちしました」
「入って」
作業の途中に手を止めるのは煩わしい。何も言わなければ出るまでノックし続けるのだから勝手に入ればいいことだ。
「失礼いたします…… あぁっ! そのドレスはっ……!?」
背後でドアが開いて床が軋み、驚いたエイミーの声と同時にトレーの上の食器がカタカタと鳴る。
「おはよう、エイミー。このドレスが何か?」
「あっ、おはようございます。えぇと、それは、この間社長がお嬢様に贈られたものでは……?」
「ええ、そうよ。何か言いたいことがあるの?」
「ええと…… いえ、なんでもありません」
「ならいいわ。そこに置いて、後で下げに来て頂戴」
「はっ、はい、畏まりました……」
食器がテーブルに置かれ、ドアが閉まる音。ドレスから切り離された袖を繋ぐ一本の糸を最後に切ると、袖が音もなく作業机の上に落ちる。
片腕を失ったドレスを袖の上に重ねて糸切りをペン立てに戻し、凝り固まった肩を回しながら部屋の中央に置かれたテーブルにつく。
朝食はいつもと同じ、重曹で膨らませた質素なパンと、それほど時間がたっていないはずなのにぬるく渋い紅茶。私が店を指定して買わせたマーマレードだけがこの味気ない食卓に花を添える。
朝食を食べ終えて作業に戻ってもう片方の袖を切り離した頃に再びノックの音が響き、同じように返事をするとエイミーが食器を下げに現れる。
「あの、サラお嬢様……」
「なにか?」
「今日は午後から社長がお見えになられるそうで、サラお嬢様にはまともなドレスを着ておくようにと……」
「ふぅん、お父様が…… こんなところまで来るのは久しぶりね。私に何の用事かしら?」
「さぁ、そこまでは……」
「まぁ、あの男のことだから、どうせ禄なことじゃないわ。まともなドレスね。わかったわ」
「えぇと…… いつも着ていらっしゃるようなドレスではなくてですね……」
「それは、私がいつも着ている服がまともじゃないとでも言いたいの?」
「ひっ……! そっ、そういう意味ではなくて…… その、コルセットをつけてクリノリンでスカートを膨らませるような昔ながらのドレスをですね……」
「それは残念。そういうのなら今ここにあるドレスが最後の一枚よ。袖の無くなったドレスがまともなドレスと言えるかどうかは知らないけれど」
「うぅ…… サラお嬢様、私の口からはもう何も……」
エイミーはこの近くに住む私より四つ年上の庶民の娘で、私がこの事務所に住むことが突然に決まってから急遽ここの女中を任されて以来、私の身の回りの世話をしてくれている。
ちょっと気弱で頼りなく仕事もできるとは言い難いけれど、優しく気立てが良く、ひねくれ者に育った私にも分け隔てなく接してくれる私の数少ない理解者だ。
「エイミー、ありがとう。どうせ怒られるのは私だから、気にしないで」
「……はい、では、お下げします」
不安と困惑の入り混じった表情でトレーを持つエイミーの背中を見送り、またバラバラになったドレスに向き合い、今度はもう片方の袖の縫い合わせに糸切りを差し込んだ。
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