空が泣いている
生と死はいつだって隣り合わせにある。死は忌まわしいものとされているが、ある者にとっては救いとなることもある。
その訃報が流れてきたのは、とある夏晴れの日の仕事中だった。臨時ニュース速報のテロップも出たらしいが、その時私は事務所の倉庫にいて、その訃報はすぐに届かず、用事が済んでデスクに戻った私のもとに真っ青な顔をして走り寄ってくる同僚によってもたらされた。悪い冗談だと思った。何かの間違いだと思った。しかし同僚の青ざめた顔を見る限りふざけているわけでもなさそうで、私は何も言えず、目を見開いたままで力なく椅子に体を預けることしかできなかった。
「みひろ、大丈夫?」
その声で我に返ったときには既に定時はとうに過ぎていて、部署に残る社員の数は疎らになっていた。一体どれくらいああしていたのだろう。その間の記憶が切り取ったように一切ない。
頭は冴えず靄がかかったままの頭の中で、もしかしたら悪質なデマなんじゃないか、何かの勘違いだったんじゃないか、という僅かな希望が湧き、机に向き直るとパソコンを開き、インターネットを起動する。手は震えていた。大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせながら。
しかしそこにあったのは、あまりに悲壮すぎる現実だった。文字にするとさらに残酷で、机ごと足場が崩れ去っていくような感覚。彼の笑顔の写真と共に綴られる「死去」「自殺か」「人気歌手」「享年27」「自宅のロフト」その全てが刃物のように心を滅多刺しにして、深く抉っていく。
リョウを知った10年前から、私の生活の全てはリョウになった。リョウ自身が作詞作曲をしたデビュー曲「Emotion」を聞いたその瞬間から、私は彼の虜になった。私は何千何万いるファンのうちのたった一人でしかない。だけどそれだけで十分だった。彼の音楽は、私を救ってくれた。
リョウはすごくファン思いで、握手会などのイベントがあれば積極的にファンと交流し、猫みたいに人懐っこい顔で笑った。イベントの度に駆け付ける熱狂的ファンは私を含め何十人もいたけれど、きちんとそれぞれを認識していて、一人一人丁寧に会話をしてくれた。わたしの手を両手で優しく包み込んでくれた、あの柔らかで優しい温もり。近づくとふわりと香る、意外に男らしい香水の匂い。
「新曲聞きました。やっぱりリョウさんはすごい。リョウさんみたいな音楽を作ることはできないけれど、私もいつかリョウさんみたいに、人の心を動かせるような仕事をしたいです」
私がそう言うと、
「いつもありがとう。一緒に頑張ろう」
と優しく微笑んでくれたから、私はいつかリョウと一緒に仕事がしたくて、内定が決まっていた銀行の就職を蹴って、音楽関係の会社に就職した。周りは反対したけれど、そんなのどうでもよかった。リョウに恩返しがしたかった。
そんなリョウは来月、俳優デビューが決まっていた。SNSでもすごい意気込みを見せていたし、そんなリョウが自殺なんてするはずがない。そんなのは嘘。なんて酷く長い夢だろう。
朝目が覚めて、ベッドの中に入ったまま無意識にリモコンを押す。朝のワイドショーで、コメンテーターがわかったような顔であれこれ語っている。リョウの心の闇だとか、自殺の原因だとか、遺書だとか、付き合っていた彼女だとか。あなたにリョウのなにがわかるっていうの。時折流れる歌番組での映像、PV、インタビューに答える姿が、ひどく遠くに感じる。擦り切れるほどに聞いたリョウの声が、今は他人の声のように遠い。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。
明るい日差しが目に染みて痛かった。
数日経って、リョウの部屋から遺書が見つかった。
「期待に応えられない自分が許せない。悔しい。曲が書けない。何をやってもうまくいかない。一人になりたい。重圧に耐えられそうにない」
その全文がニュースで公開されたのを見たとき、リョウを殺したのは私だと思った。そんなのは自惚れだと笑われるかもしれないけれど、本気でそう思った。きっとそう思ったのは私だけではないだろう。
私たちはリョウに会うたび、いつも勝手な期待をぶつけていなかったか。理想を押し付けていなかったか。次の何かを急かしていなかったか。そんなつもりはなかったにせよ、繊細な歌詞を書く繊細な彼の心に、私たちの思いがのしかかって息ができなくなってしまったのではないか。人気がどんどん増していき多忙になる中で、私たちがかけるべき言葉は「楽しみにしています」「期待しています」ではなかったのではないか。そんな言葉をかけられる度に、リョウの心は摩耗して、衰弱して、小さくなって消えてしまったのではないか。
空を見上げる。雲一つない絵の具で塗ったような綺麗な青い空。どこまでも続くこの空のどこかに、リョウはいるのだろうか。会いたい。
私が死んだからといって、リョウに会えないのはわかっている。そう言って説得する人を見たことがあるけれど、はっきり言ってそんなに自惚れてなどいない。
私はただ、リョウのいないこの世界に生きていたくないだけ。逃げたいだけ。
いなくなって誰が悲しむとか、そんなことは考えられない。優しいリョウだってそれを考えていたら自殺なんてしなかったと思う。私なんかとは違って、リョウには死んだら泣いてくれる人がたくさんいるのだから。そしてリョウ自身も、それを自覚していたはずだから。
思っていたより未練はない。家族や何人かの友人の顔が浮かんでは消える。そっと目を閉じて、縄を首にかける。無音の静かな部屋の中、息を吸い込んだ。
バチバチバチ。雨音が窓を叩く音がした。雨。リョウがいなくなってから、初めての雨だった。今まで降るのを我慢していたかのように、雨の矢はこの古いアパートの窓を容赦なく刺し続ける。私はそっと縄を外して、カーテンの隙間から空を見上げた。どんよりと厚い雲が空一面を覆っている。
「空が泣いている」
雨音が響く狭い部屋に、私の声だけが不自然に浮かびあがる。そして気づく。私もあの日から、泣いていないということを。
自惚れかもしれない。そう思われても構わない。だけどリョウもきっと今、泣いていると思った。この雨はリョウの涙だと思った。泣いてもいいんだよと言われた気がした。私は咽び泣いた。雨音に負けないくらいの声で。子供のように。
泣き腫らした酷い顔で、空を見上げる。
今はただ、せめて貴方が穏やかに笑っていてくれますようにと願う。
やがて雨は止み、雲の隙間から細い光が刺す。私はそれに手をかざして、そっと握りしめた。
貴方はいつだって私の光でした。
そして、これからもずっと。
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