桜の記憶
ざらついた蝉の声。アスファルトに照り返す太陽が、半袖の制服の腕をジリジリと焦がす。緑緑とした木々もまた、彼の後ろ姿に影を落とした。
「行ってきなよ、美咲」
親友のミキはそう言ってわたしの背中を押したけれど、わたしはそこから動くことができず、ただ俯く彼の後ろ姿だけを見つめていた。
彼の大きなエナメルバッグにぶら下がっている背番号入りのお守りは、わたしが作ったものだ。「勝てる気しかしねえ」白い歯を出して笑った彼の顔が浮かぶ。
「絶対甲子園、つれていくからな」
今は役目を終えたお守りが、力なく揺れている。彼の最後の夏が終わった。
風に優しく揺れる薄黄色のカーテンの隙間から夕陽がさして、薄暗い教室を照らす。放課後の誰もいない教室に二人でこうしているだけなのに、なんだかものすごく悪いことをしているみたいで、立ち並ぶ机に身を隠すようにして、二人は身を寄せ合って壁際にしゃがみこんだ。
「そういえばさ、来週の日曜日。隣町の河川敷で花火大会があるんだって。わたし去年ミキと行ったんだけど、すごく綺麗だったんだよね~」
「行こう。美咲が行きたいところは全部行こう」
彼は穏やかに微笑んだ。
日焼けした彼の腕とわたしの白い腕がぎこちなく触れ合う。
「見て、オセロみたい」
そう言ってはしゃぐわたしの唇に、少しだけ固い彼の唇が優しく触れる。
汗と柑橘系の爽やかな匂いが溶け合った厚い胸に顔を埋めると、窓の外から聞こえる掛け声や笑い声、全ての雑音が遠ざかる。
これから始まる、二人だけの夏。
今までの空白を埋めるように、彼の放課後はわたしだけのものになった。自転車の後ろに跨り、しがみついた背中は思っていたよりも大きくて、それが何だか誇らしくて、わたしは何度も怖がるフリをした。思いが通じてから二年も経つのに、会えば会うほど今まで知らなかったたくさんの彼が溢れ出てくる。くだらない口論も拗ねてみたりのじゃれあいも、わたしにとっては全てが新鮮だった。
太陽が照り付ける帰り道。豊かに生い茂った綺麗な緑が、生温い風に揺れる。わたしは籠るような暑さに顔をしかめながら、温いだけの風を思いきり吸い込んだ。
「ねえ。ここ、春になると桜がすごいんだよね」
言った後で、後悔する。
彼は何も言わず足を止め、左右を囲む木々たちを見上げていた。わたしも同じように見上げながら、涙が零れないように唇をきつく噛んだ。
ずっと一緒にいられますように。そう願掛けをした花火も数秒で闇に散ってしまった。ずっと、っていつだろう。大人になっても?大人って何歳から?
わたしたちに残された時間は、もう長くない。ずっと、なんてないことを本当はわかっていたけれど、気づかないふりをして、隣に座る彼の、豆だらけの厚い掌をきつく握った。あまりに短すぎた夏の、終わりを告げる音が鳴る。
緑の葉が赤く染まり、名残惜しそうに散っていく。裸になった木々は寒そうに身を縮め、やがて来る春を待つ。彼の暖かく大きな腕に包まれていると、未来なんてどうでもいいと思えたけれど、否応なしに季節は変わっていく。そして———
満開の桜並木の中を、並んで歩いた。この制服を着るのは今日で最後になるだろう。スカートの襞に絡まる花弁を指でつまみながら、わたしは彼に問いかけた。
「わたしのこと、好きだった?」
彼は太陽みたいな笑顔を歪ませて、力強く頷いた。
「本当に、好きだった」
こうなることはわかっていた。彼は大好きな野球をするために県外の大学へ行くと言った。わたしは地元で就職すると決めていた。恋人に合わせて進路を変えるなんて言えるほど、わたしたちはもう子供ではない。
遠距離恋愛という選択肢は、最初からない。それは暗黙の了解みたいなもので、わたしたちはいつか来るタイムリミットに合わせて、全力で、全身で恋をした。限りある愛おしい日々を二人で駆け抜けた。もしこの恋愛にゴールがあるとするならば、この桜並木の終わりなのだろう。アルバムと証書を抱えたわたしたちは、もう手を繋ぐことすらできない。
どちらともなく足を止める。並木が途切れ、道が左右に分かれる。二人の出会い、そして別れの全てをこの木々たちは知っている。祝福するかのように、悲嘆するかのように、桜の枝が風にざわりと揺れる。
わたしたちはきっと大丈夫。この思い出さえあれば、どこでも生きていけるから。
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