ラストシーン
@rui_takanashi
雨
雨がフロントガラスを激しく打ち付ける音だけが、暗く静かな車内に響いている。ワイパーが忙しなく往復する度に、滝のような水流を払い除けていく。
少し話をしよう。そう言って彼が車を路肩に止めたのは今から五分前のこと。しかし彼は両手をハンドルにかけたまま俯いて、いまだに口を開かない。
何の話かはわかっている。昨夜彼がくれたメールで今夜これから何を言われるのかは勘付いていたし、あたしはそれほど鈍感じゃない。このところ連絡が減っていたのも、話しかけても上の空なことが増えたのも、きっとそのせいだろう。
大丈夫。覚悟はできている。
いつも夜に会うときは必ず食事をするけれど、今夜はそれさえしなかった。待ち合わせ場所であたしをピックアップした後、どこへ行くわけでもなく無言のまま車を走らせ続ける彼の横顔は、どこか寂し気で、だけど何かを決意しているかのような鋭さもあった。付き合いたての頃は、運転する横顔を飽きもせず眺めていたものだけれど……。
それにしても。せっかちな性分のあたしからすると、この沈黙の時間は無駄でしかないわけで。こんな無駄な時間を過ごすくらいなら、早く帰って温かいお湯をたっぷりと張ったバスタブに浸かりたい。それなのに「雨、すごいね」なんて表面を撫でつけるような言葉しか出てこないのはどうしてなんだろう。
「もう、会えない」
彼がやっと口を開いたのは、それから更に十分後のことで。たった六文字の言葉を吐き出すために十五分、いや無言のドライブの時間も含めると1時間以上かけるなんて、一滴の躊躇や葛藤くらいはあったのだろうか。あたしにそれを言うことは昨夜から決めていたはずなのに。いや、もっと前から決めていたはずだったけれど。
「別れるってこと?」
あたしは助手席の窓を滑り落ちる雨の粒を見ながら、彼に問いかけた。
「ごめん・・・」
彼もまた、あたしの顔を見ずに俯いたまま、答えになっていない答えを呟く。出会った一年前、煩いくらいに熱く絡みついた視線は、今はすっかり解けてしまった。たった一年でこうも変わってしまうのだと思うと、自然にため息が零れた。
「本当にごめん」
その意味を履き違えたのか、彼がまた呟き落とす。その声はあまりにか細くて、打ち付ける雨の音に混じって消えていく。別に謝ってほしいわけではない。ただ、知りたいだけなのだ。確信したいだけなのだ。自分の中の未練や後悔と決別したいだけなのだ。
「理由をきかせて」
我ながら意地悪な質問だと思うし、答えはわかりきっている。だけどこれを聞く権利くらい、あたしにもあるだろう。
彼は、おかしなくらい饒舌に語った。時折涙で声を詰まらせながら、目線は雨に溺れるフロントガラスの向こう側に置いたまま、見えるはずのない誰かをそこに映し見ているかのように。切なげな表情で語るのは、忘れられないという元カノの話。あたしと付き合う前に付き合っていた、アズサとかいう名の。結婚を考えるほどに大好きだったとか、料理上手だったとか、嫉妬深くて苦労しただとか、あたしがこんなに彼女について詳しく知っているのは、全て酔った彼の口から何度も聞いていたからで。その図々しさに、女々しさに、未練たらしさに、あたしの心とプライドはズタズタに切り裂かれた。
この一年はなんだったのか。あたしはその、アズサとかいう名の元カノの代わりだったのか。いや、代わりですらなかったと今になってみれば思う。じゃああたしは何だったんだろう。彼にとってあたしは。この一年は。あの笑顔は。あの言葉は。あの夜は。暇つぶしにしては長すぎる。
考えてもみれば、五歳も年上のくせに食事も割り勘のことが多かったし、背だって収入だって高いわけじゃない。話が面白いわけでもないし、お酒が強いわけでもない。あたしが彼に縋る理由などないはずだし、実際そんなにみっともないことをするつもりもない。
だけど、こんな男でも。目の前で、自己満足でしかない涙を流す女々しくてくだらない男でも、あたしは好きだったんだ。だから、あたしは泣いたりしない。
「わかった。別れよう」
男は少し面食らったように、あたしに視線を移した。呆気にとられたように目を丸く見開いている。今日になって初めて、彼の顔をこうして見た気がする。
「・・・いいの?」
「いいもなにも。別れたいって言ったのはそっちじゃん。いいよ、別れるよ」
「そうだけどさ・・・」
フッと笑いが込み上げる。そうか。このシナリオは、このエンディングは、彼の思い通りではなかったのだ。彼の頭の中のおめでたい頭をしたあたしは、別れたくないと泣き縋り、どうしてなの?と質問攻めにし、彼を困らせるのだ。だけどもう無理なんだよ、と彼があたしの身体をそっと引きはがし、きっと言うのだ。
「幸せだったよ。愛してたよ」と。
綺麗なエンディングなど、存在しない。それはただの願望、妄想、自己満足でしかない。現実の別れはいつだって残酷で、傲慢で、空虚なものだ。あたしはもう、彼の思い通りには動かない。あたしはもう、あなたのものじゃない。
「さよなら」
彼の眼を見据えて、最後にそう言った。彼の瞳が揺れている。大好きだった、ビー玉みたいな瞳。きっともう、会うことはないだろう。
降りしきる雨の中、助手席のドアを開けた。アイボリーのシャツはすぐに色を変え、肌にべたりと張り付いてくる。冷たい雨の矢が、身体中を貫いては落ちる。
本当に。本当に。本当に。あなたのことが好きだった。
嗚呼、どうかこの雨が全てを洗い流してくれますように。
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