第六章:桜は咲き始め
ガチャリ、ドス、ドス……。
どうやらお父さんのテレビ会議は終わったようだ。
自室のドア越しに響いてくる父親の書斎の扉が開く音と廊下を歩く足音から察して伸び上がる。
数学はまだ問題集の四回目を解く途中だけれど、この文章題でさっきから足踏みしている所だったから、ここで小休止入れよう。
多分、小休止、一休みでは終わらないと自分でも知りつつ、椅子を立ってストレッチを再開する。
兄貴がうるさがったって知るものか。
もうお父さんの会議は終わったのだから、自粛する理由はない。
汗の匂いが微かに残る部屋着の上を脱ぎ捨てると、微かにひやりとした空気が裸の腕や背に触れたが、締め切った春の午後の部屋は寒いという程ではない。
*****
まあ、あの子一人がクラスメイトというわけじゃないし、そこまで気にする必要はない。
ベッドの上で自らの上半身を抱きかかえ、宙に浮かした両足をゆっくりと白い天井に向けて伸ばしながら息を吐く。
新しいクラスの名簿を見る限り、山下櫻子の他にはそこまで険悪な間柄だったり嫌な感じを持っていたりする名前は見当たらなかった。
櫻子が自分を嫌っているとしても、まさか他のクラスメイトにあれこれ吹き込んでいじめや孤立を煽るとかいう行動には出ないだろう。
自分たちは表面上は喧嘩したり尖った言葉を交わし合ったりはしていないのだから。
大体、あの子みたいな外部から来て今の部活でも微妙な立場の大人しい女の子にそんなクラス内のいじめを主導する権力など持ちようがないのだ。
スクールカーストなんて嫌な言葉だが、それに照らし合わせれば、持ち上がり組で体操部(部自体は弱小だが)でもエース格の自分の方が櫻子より遥かに優位にいる。
むしろ、あの子こそ新しいクラスでのいじめや孤立を恐れる立場ではないのか。
ふっと顔が綻ぶのを感じるのと同時にそういう優越感を抱く自分に嫌らしさを覚えた。
――バレエは凄いけど、鼻にかけて性格が悪い。
――お兄ちゃんは大人しくて優しいのに翔くんはきかない。
自分について昔からそう言われていることは知っている。
あの子もずっとそう思っていて、今更その見方を変えることはないのだろう。
爪先を最大限に伸ばしても決して届くことのない天井がいつもよりもっと高くだだっ広く見える。
不意にガラッとベランダの方からガラス戸を開ける音がした。
ビクリと身を起こしてから、開いたのが自分の部屋のガラス戸ではなく隣の航の部屋のそれだと気付く。
*****
ガラリとガラス戸を開けると甘い草花とアスファルトの入り雑じった匂いが流れてきた。
部屋着の袖に微かに冷えた気配がする。
山形の春は遅い。東京では
――東京は染井吉野がパッと咲いて散ったらもうおしまい。山形の方が春が遅い分、花見の季節が長いから。
東京の女子大に通っていたお母さんはよくそう語る。
――東京の人は桜桃や林檎の花なんて見たことない人の方が多いから。
バレリーナを諦めて進学した土地について話す時、お母さんはいつも懐かしげというより寂しげに笑う。
カシャリ、カシャリ。
スマホの電子的なシャッター音を響かせていた兄がふと振り向いた。
「桜がやっと咲き始めたから撮ってる」
午後の陽射しの中、一歳半上の兄は晴れやかに笑っている。
昼時の食卓の気まずさなど嘘のように。
「そう」
これはイケメンだ。
まだ新しい藍色の部屋着から抜き出た航の長い
「女みたい」と揶揄されることも多いが、普通にしていれば女の子から嫌われることはまずない。
まだ髪の長かった櫻子の嬉しげに笑う顔が目の前の兄の優しげに微笑んだ瞳に重なった。
自分と良く似た面差しだからこそ、誇らしさと厭わしさが相半ばする。
自分が航より一般的な基準で劣る容姿だとは思わないが、良く似ていて微妙に異なるからこそ、その違いが今のあの子の好悪を大きく分けているのだろうか。
それならば、何かのきっかけで逆転することも可能だろうか。
ベランダ用のサンダルが裸足の裏に冷え冷えと食い込んでくる感触がゆっくりとふくらはぎの辺りにまで上ってきて、知らず知らず握り締めた拳の中が汗ばむ。
「毎年、この辺りの枝から咲き始めるんだよ」
航が示す先の枝には確かに花がポツポツ咲き始めている。
九割の白に一割のピンクを溶かし込んだ風な、染井吉野の花。
風に微かに揺れる一重の花びらはまるで後ろの風景が透かして見えそうなほど薄かった。
「陽当たりの関係かな」
一輪か二輪だけ咲いたって、別に貧弱でつまんない花だ。
兄に調子を合わせて答えつつ心の中では貶す。
小学校に上がる辺りで庭に植えた染井吉野に面した部屋は航、そうでない部屋は自分のものになった。
部屋ではストレッチさえ満足に出来れば良いので今まで特に不満に思ったことはなかった。
カシャリ。カシャリ。
藍色の部屋着の背からまたシャッターを切る電子音が響き始める。
知らず知らず自分の黒い部屋着の胸に目を落とす。
そこには朱色のフェニックスがプリントされていた。
これは兄貴のお下がりだ。あまり着なかったからまださほど褪せても傷んでもいないけれど。
自分の服や学用品は昔から航のお下がりばかりだった。
年子で性別も同じ兄弟だから仕方ないと頭では分かるが、それが今は屈辱に思えた。
カシャリ、カシャリ。
乾いた音を切ってはこちらに向けられた藍色の部屋着の背中が蠢く。
その動きが妙に淫猥に見えて、同時に、そんな風に感じている自分がいかにも不潔に思えて尻の辺りがぞわつくのを覚えた。
“中学三年生になったばかりの少年が弟の前で庭に咲き始めた桜の花をスマートフォンのカメラ機能で撮影している”
頭の中でこの状況を文章にしてみても、どこにも性的な、嫌らしい要素などないのに。
カシャリ、カシャリ。
何だって同じ花をそんなに何枚も撮るのだ。満開ならともかく一本の枝にポツポツ咲き始めた程度なのに。
カシャリ、カシャリ。
もしかして、兄貴、俺とは話したくないから背を向けて写真撮ってるのか?
カシャリ、カシャ……。
「櫻子ちゃんに送るの?」
冗談ぽく言うつもりが妙に上擦った、当て擦りめいた声になる。
航の顔がゆっくり振り向いた。
「いや」
自分の声が上擦ったまま、今度は言い訳がましい調子を帯びるのを感じた。
「桜で思い出したからさ」
桜桃の産地だが「
「さっきLINEしてるって自分で言ってたじゃん」
俺だってさっきまでユリアさんにLINEしていた。
兄貴には言っていないが、今、それも話すべきだろうか?
「俺さ」
無表情だった航の顔がふっと苦いものを含んだ笑いに綻ぶ。
「しょっちゅうあの子とやり取りしてるわけじゃないよ?」
語尾を僅かに上げる、問い掛けと念押しを兼ねた口調だ。
それが何かを憐れむ風な面持ちと相まってこちらは苛立つ。
俺を子供扱いするな。
「あの子とだけLINEしてるわけでもないし」
他にもLINEしている女の子が沢山いて櫻子もその一人ってこと?
兄貴がそこまで女の子に積極的なやり手のわけはないと冷静な頭では知りつつ、ことさら嫌な感じに想像しようとしている自分に屈辱感が燻った。
「あの子だって同じ部活の仲間やレンちゃんとかの方がよっぽどやり取りしてるんじゃないかな。ガールズトークってやつだ」
レンちゃん?
一瞬、間を置いて、いつか櫻子と並んで廊下を歩いていた背の高いポニーテールの女生徒の浅黒い勝ち気そうな顔と新しいクラス名簿で“森谷翔”のすぐ上に記された“
櫻子と同じく外部から受験して入ってきた子だ。
去年も彼女と同じクラスでちょくちょく一緒にいるのを見掛けたから仲が良いのだろうという感じはしたが、それ以上の注意を持って眺めたことは今までなかった。
そう言えば、平塚さん(と同級生からは一般に呼ばれている)の部活は航と同じ美術部だった。美術室の前に並んで絵が貼り出されているのを目にした覚えがある。
大柄で気の強そうなあの子こそむしろバスケ部に似つかわしい気がするけれど、現実には小柄で大人しい櫻子がバスケ部で、平塚さんは美術部に入っている。
それはそれとして「レンちゃん」などと兄貴から親しく呼ばれているのは初めて知った。
航からすれば彼女も下級生の女の子だからそう呼んでも別におかしくはないのだが、何だか尻の辺りがまたゾワゾワする。
平塚さんには今まで特別好意も悪意も抱いていなかったが、自分が知らないところで兄貴が複数の女の子と親しくしているという状況が何とも不気味に思えた。
「レンちゃんなんて呼んでんだ?」
自分の上擦った声がいかにも小バカにした風な、嫌な感じに響くのを感じた。
相対する航の顔がまた無表情を纏い始める。
「俺は平塚さんのこと良く知らないけど」
大柄で浅黒い肌をした、勝ち気そうな眼差しの、櫻子とは対照的な女の子。
兄貴がああいう子を好きならむしろその方がいい、そうであって欲しいとどこかで願う自分に敗北感を覚えた。
鼻先に花と草の入り雑じった甘い匂いが蘇って、サンダルを履いた裸足の爪先が冷え冷えと固まっていくのを感じる。
「美術部の仲間は皆、そう呼んでるよ」
航はどうということもない調子で語りつつスマホをズボンのポケットに仕舞うとどこか憐れむような笑顔でこちらの肩を叩いた。
「そろそろ寒くなってきたから戻ろう」
藍色の部屋着を纏った兄の肩越しに限りなく白に近いピンク色の花の咲く枝が揺れている。
むしり取ってグシャグシャに潰してやりたい気がした。
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