第五章:通話《ライン》と障壁《バリア》
あの子、兄貴とはLINEしてたんだ。
母親がAmazonで購入した問題集四冊の内、中一の数学の問題集を開きながら胸の内で反芻する。
自分にもバレエ教室の仲間でLINEを交換している女の子は何人かいる。中にはどうやら自分を好きらしいと察せられる子もいる。
櫻子が兄とLINEしているのも、あるいはそうした気持ちからなのだろうか。少なくとも人としての好意や信頼感があるから、従姉が事故で入院している話もしたのだろう。
自分はあの子の中ではそんな「人としては好き」「友達としてはいい人」という位置にすら就けていない。
櫻子の中では自分は身内の事故の話をしても冷淡に返しそうな印象で捉えられているのだろうか。
いや、俺だって仮に嫌いな奴でも身内に不幸があった話を聞いて小バカにしたり追い討ちをかける言葉を投げ付けたりはしないぞ。そんな真似をあの子の前でもした覚えはない。
どんだけ俺を兄貴より性悪な風に決め付けているんだ。
春の穏やかな陽射しが射し込む部屋で、開いたページは中一の最初に習った内容なので途中までは難なく解き進められたが、段々怪しくなってくる。
*****
“こっちもずっと大学は休みだし、今は山形には帰れないよ。電車に乗るのも避けてるから外出は寮から近所のスーパーやコンビニを行き来するくらいだな”
文面は完全な日本語だが、アイコンはやや金の混じった栗色の髪を太い一本の三編みにして小さな頭に巻き付けた、薄茶の瞳に透けるように白い肌をした、ロシアの民話に出てきそうなスラヴ美人である。
今は東京の外語大でロシア語を専攻する
名前や風貌からも明らかなようにお父さんは日本人、お母さんはウクライナ人のダブルだ。
このアイコンは去年、お母さんの実家で地元のお祭りに参加した時に撮ったものだと前にLINEした時に聞いた。
この人は昔からずっと綺麗だし、プロは目指さなかったがバレエも巧かった。何よりいつも朗らかで優しかった。
自分は小さい頃、六歳上のこの人が好きで今も温かな気持ちが残っているから、時々こうしてLINEしている。
今のところ、相手から拒絶や嫌悪を示す応対をされたことはない。
“俺もマスクが足りなくなるからってお母さんが買い物の手伝いにも出してくれません。部屋でストレッチしてるとうるさいと家族に言われます。”
ここまで打ち込んでからどうも自分の目にも幼稚な愚痴ばかりだと感じるので付け加える。
“兄貴が今年受験生だからしかたないんですけど”
エンターキーをタップすると、押し出された自分の言葉にはすぐ「既読」の表示が点った。
“航くんも高校受験か。早いなあ”
この人にとっては兄貴も自分も「バレエ教室で一緒だった小さな子たち」の括りなのだ。そこに今は寂寥よりも安堵を覚える。
“まあ、兄貴は頭いいから本当は親は俺にもっとバレエより勉強してほしいのだと思います。自分ははっきり言って勉強の成績は良くないので”
侮蔑や冷笑を返して来ない相手の前では自分の短所を認められる。
“附属は頭のいい子が多いから翔君も自分で言うほど酷くはないよ”
こんな風にフォローが返ってくるからだ。
“桜子ちゃんも確か一緒だったね”
よりにもよって見たくない名前が出てきたという思いとあの子の名前は常用漢字の「桜」ではなく旧字体の「櫻」だと訂正したい気持ちでジリジリする。
「山下櫻子」と他の字は小学一年生レベルの単純さなのに、「櫻」だけが一文字に複数の漢字をギュウギュウ詰め込んだ風な複雑さ。
幼稚園児の頃はバレエ教室で目にするあの子の持ち物には「やました さくらこ」といかにも優しげな文字列が並んでいた。
それが小学校の中学年辺りから「山下櫻子」に切り替わって、随分難しい字で書くのだと驚いた記憶がある。
ハーフアップの長い髪にピンクのワンピースを着たミニリカちゃんの頃も堅すぎて本人の雰囲気にそぐわない感じがしたが、今の刈り上げ頭には皮肉なほど似合わない。
“向こうはバレエやめちゃったし、クラスも部活も違うせいか会ってもあいさつくらいしかしないですね”
今度は同じクラスだけど、そもそも櫻子は目も合わせないほど気まずい空気だけど、伝えるべきだろうか。
この人の中では自分たちは「仲良くしているはずの小さな子たち」なのだということが壁として立ち塞がっている。
“そういえば去年の夏休みに偶然会ったけど、凄く髪短くしてたね。バスケやってるって言ってた”
何だ、ユリアさんも今の櫻子を知っているのだ。
気抜けするのと同時に櫻子もユリアさんには普通に笑顔で話したのかもしれないとまた胸が塞ぐ。
“お母さんと一緒だったけど元気そうで良かったよ”
やっぱりそうだ。
あの子は兄貴やユリアさんには心を許して話すのだ。
音もなく部屋全体が暗くなって手にしたスマホの液晶だけが明るく浮かび上がる。
外で陽が陰ったらしい。
解きかけの数学の問題集を開いた勉強机とベッド以外は物らしい物を置いていない自分の部屋が妙にガランとした空疎なものに思え、そこに先程のストレッチで汗じみた部屋着姿で立っている自分がいかにも小さく薄っぺらい存在に感じた。
“今度は同じクラスなんですけどね”
嫌われて疎まれているのに。
“翔くんは優しいからきっとうまくやれるよ”
それは、本当に俺のことか。
眺める内に液晶の画面はパッと暗くなって周りは薄い暗がりに閉ざされた。
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