第四章:家族の食卓

「お父さんが二時から会議だし、お弁当にしたから」


 シャワーを浴びたばかりでまだ若干濡れたままの髪をアップにした母親が食卓の前で告げる。


 お母さんは化粧を落とすと、むろん四十歳の年相応にシミやソバカスはあるのだけれど、白い肌に薄いピンクの唇をした、切れ長い瞳の目許も優しげな顔になる。


 それなのに、外に出ていく時はわざわざ目が余計に吊り上がって見えるようなアイラインを引き、血のように赤いルージュを塗り、レモンじみた匂いの香水を点けるのだ。


 まるで他人から“可愛い”と思われるより“きつそう”と見られることを望むかのように。


「それでいいよ」


 父親はこの所は外に出ないため無精髭の目立つようになった顔を頷かせると取り出した割箸をパシリと割る。


 母親より十歳近く上のその顔にはより深い皺が刻まれ、無精髭にも白いものがかなり目立った。


「じゃ、いただきます」


 何となくこの場を早く切り上げたい気持ちで敢えて普段より丁寧に挨拶すると割箸を取り出してパキリと割る。


 四人の家族にそれぞれ割り当てられた弁当は父と兄が鶏肉の照り焼き弁当、母と自分が野菜と雑穀米の低カロリー弁当だ。


 それで誰も交換しようとは言わないし、自分も父や兄と同じものを食べたいとは思わない。


 端からバレエの経験などない父はことさらメインの食事のカロリーを抑えようとはしないし、二年前にバレエを辞めた航も今はそうだ。


 一方、バレエを辞めて二十年近く経った母は今も体型維持の為なのか、習っていた頃の習慣がずっと抜けないのか、それともバレエ現役の息子にそういう形で協力するつもりなのか、いつも食事は自分と同じ低カロリーに抑えようとするのだ。


 一口含んだ雑穀米のご飯は中途半端にぬるい。


 買ってきた弁当や惣菜を電子レンジで後から温めると、いくら調節しても熱過ぎるか温いかで決してちょうど好い温かさにならない気がする。


かける


 不意に前から母親の声が飛ぶ。


 目を上げると、アイラインを落とした素顔の切れ長い瞳とぶつかった。


「何」


 どうやらお母さんはずっと自分を見ていたらしい。


 悪いことをしていた訳ではないが、奇妙に胸がどきつくのを感じた。


「Amazonで買った中一と中二の問題集が届いたから、中一の復習からでもやりなさい」


 リビングのテーブルに置かれた段ボール箱(というには小さくて薄いけれど)を示す。


「分かったよ」


 取り敢えず、こう答えておけば安全だ。


 あの厚みからすればせいぜい薄いワークが三、四冊だろうし、多分、英語と数学だろうからいくらか得意な英語の方から半分でも終わらせれば……。


「数学もっとやんないとダメ」


 ぴしゃりとした声が突き刺さる。


「この前なんて六十点も取れなかったじゃないの」


 母親の隣で鶏肉の照り焼きを齧っていた父親も苦い顔を横に振る。


「あれは平均点も低かったんだよ」


 平均五十五点で五十九点なら落ちこぼれでもないはずだ。


「英語は七割取ってたし」


 こちらは平均五十七点で七十二点だった。


「お兄ちゃんは八十点より下取ったことないよ」


「うるせえよ!」


 バン!


 割箸を食卓に叩き付けると、指先に痺れるような痛みが走った。


 隣の席の航を見やると、困ったような悲しいような顔でこちらを眺めている。


 これはバレエを習っていた時に兄貴がよくした表情だ。


 ――どうして翔は一回で出来たのにお兄ちゃんは出来ないの。


 そういう言葉を掛けられた時の面持ちだ。


 今は立場が逆なのに、兄貴はやっぱりそんな顔をするんだ。


 俺は自分が持ち上げられている時は兄貴なんか馬鹿だなと笑って見ていたのに。


「今日、スーパーで櫻子ちゃんのお母さんに会ったの」


 母親は叱責の色が収まった代わりにやりきれない様子で息子のテーブルに叩き付けた手を見詰めている。


 お兄ちゃんに続いて翔も反抗期になった、成績も悪いのに困ったものだとお母さんは思っているに違いない。


 頭の冷めた部分でそう考えると、屈辱が頭をもたげてまだ痺れた痛みを感じる指先を握り締める。


「今度、同じクラスでしょ」


 ちゃんとしなきゃいけないでしょ、という口調だ。


「あの刈り上げ女か」


 ぞんざいに言い放つと、隣の航が微かに固まる気配がした。


 斜向かいの父親も「止めろ」と言いたげに眉根に皺を寄せた苦い顔を向ける。


 だが、自分は隣の兄貴を振り向いて言わずにいられない。


「ていうか、あれ、もう女に見えねえし」


 あはは、と可笑しくもないのに何故か笑えた。


「下手なくせにバスケ部に入ってそこでもハブにされてんだから笑えるよ」


 航は反駁も同調もせずにこちらを見詰めている。


 兄貴は何を、誰をそんなに憐れむような顔をしているんだ。


「あの子はそれでもあなたより成績はいいよ」


「外部だからな」


 俺のことなんか嫌いで目も合わせないくせに何でわざわざ受験して同じ中学に来た?


 頭の中で、ジャージ姿の彼女を突き飛ばす。これはこの一年の間に幾度となく繰り返した想像である。


 ともすると、夢の中にすら出てくるが、自分が突き飛ばそうがバレエシューズの足で蹴り上げようが櫻子は大きな目を伏せたまま決して答えない。


 目が覚めると、ああ、あの子を殴る蹴るしたのが現実でなくて良かったと胸を撫で下ろす一方で、夢の中ですら拒み通されたことに胸の奥がひりつくように痛むのだ。


「従姉の女の子は医大に行ったみたいだし」


 自分の思いをよそにお母さんは語る。


 長い髪をハーフアップにして白衣を着た、バレエを辞めなかった櫻子の数年後のような女子学生の姿が浮かんだ。


 自分と従兄弟たちだって必ずしもそっくりではないし、櫻子の従姉妹も似ても似つかない可能性はあるが、こうした場合に浮かぶのはやはりバレエをしていた頃の彼女の延長なのだ。


「それ、今、事故で入院している人じゃない?」


 隣からの航の声に頭を思い切り殴られたような衝撃を受ける。


「さっき、そういうLINEが来たよ。横浜に住んでる従姉のお姉さんが事故で入院してるって」


 当たり前のように語る兄の様子に今度は背中を刺されたような衝撃を覚える。


「LINEなんかやってんの」


 櫻子と?


 目を伏せた刈り上げ頭の横顔と、まだ三人ともバレエを習っていた頃に航には嬉しげに話しかけていた今より幼い笑顔が相次いで浮かんだ。


 あの子は同い年でも自分や当たりのきつい感じの女の子にはおずおずとした様子でしか接してこず、何かあれば涙目になる風だったが、兄貴にはそうした恐れがないらしく話す時はいつも楽しそうな笑顔だった。


 当時は特に気にも留めていなかったはずの小さな笑顔が今は胸をチクリと刺して来る。


「時々だけどね」


 航は表情を消した顔とどうということもない声で答えた。


 年子のこの兄がこういう調子で語るのは逆に何か隠したいことがある時だと自分は知っている。

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