第三章:年子の兄

 階段を降りてリビングのドアの前に取り付けられた大きな鏡の前に立って部屋着の上を脱ぐ。


 鏡の中には肌は蒼白いが腹筋は割れた半身が現れた。


 すっと両腕を伸ばして曲げる。手指の先まで神経を張り巡らせた腕のどこにも弛みなどはない。


 クルリと鏡の前で半回転して裸の背を映す。


 正面から見るのと同じ蒼白い肌だが、筋肉の引き締まった背中である。


 小学生の頃からの習慣で学校もバレエ教室も休みになってからも毎日、この鏡に自分の体を映している。


 朝晩のストレッチの甲斐あって、どこにも贅肉や弛みなどは生じていない。


 だが、自分は音楽の鳴り響く場所で思い切り手足を伸ばして踊りたいのだ。


 あの音楽と一体になって一心に踊る時ほど自分が自分でいられる瞬間があるだろうか。


 すっと爪先立ちになったところで階段を降りてきた兄の航と鏡越しに目が合った。


「ああ」


 急に現実に引き戻された気分で爪先立ちを戻し、傍らに脱ぎ捨てた部屋着の上を拾い上げる。


 袖を通すと中途半端に冷めた布の感触と微かな汗の匂いがした。


 今日は少しだけ寒いようだ。


 足の裏に接する木の板張りのひやりとした感触が思い出したように蘇り、木材特有のウエハースじみた甘い匂いが鼻先を通り過ぎた。


 そうする間にも航は無言で階段を降りてくる。


 年子の兄とは近頃はこんな風に家の中で顔を合わせても互いに言葉をポンポン交わす空気にはならない。


「お父さん、二時からテレビ会議なんだって」


 不意に小さいが微妙に割れた声がした。


 自分より学年は一つ上、正確には四月生まれのため十月生まれの自分より一歳半上の兄はもう声変わりが進んでいる。


 背丈も頭半分ほど自分より高い。


「知ってるよ」


 朝食の時に聞いた。


 近頃は父親はずっと在宅勤務で、朝食の時に今日は何時からテレビ会議だから大声で話すな、喧しく物音は立てるなという大体の予定とそれに際した注意が伝えられる。


 もっとも、それ以外の時間でも、妻子が声高に話し合ったり物音を響かせたりすれば、


「静かにしていろ」


 と父親は書斎から苦虫を噛み潰した顔を出す。


 そんなに家族がうるさいなら自分こそどこかに行けと思うけれど、さすがにそれは口には出せない。


「いや、バタンバタンいう音が部屋から聞こえたから」


 三日前に十五歳になったばかりの兄は表情を消した面持ちと押し殺した声で告げる。


 そうすると、蒼白い顔の奥二重の切れ長い目に冷たい蔑みが滲む感じがした。


 これは去年辺りからこの年子の兄が良く見せるようになった表情だ。


 世間では「反抗期」とか「中二病」(兄はもう今度で中三だし、今や自分がその中二になるわけだが)とかいうし、これが小さい頃から「大人しくて優しい子」と評されることの多かった兄にとっての正に「反抗期」「中二病」の現れなのかもしれない。


 しかし、一つ下の自分には露骨に不機嫌に怒鳴り散らすとか親に殴りかかるとかドアを蹴飛ばすとかいういかにもそれらしい反抗期の言動よりこの方が却って陰湿に思える。


「まだ二時じゃないんだからいいじゃん」


 途中で辞めたお前と違って俺にはバレエがあるんだから。


 胸の内でそう付け加えて頭半分背の高い航を見上げると、相手は変わらず表情の消した目で見下ろしていた。


 昔から、自分たちは年子でそっくりだと良く言われる。


 むしろ、目などは自分の方が少し端が吊り上がっていて一般にはよりきつい顔にすら見えるだろう。


 そう思うと、見上げた兄の顔がいっそう小面憎く感じた。


「部屋でやってると結構響くよ」


 お父さんじゃなくて本当はお前がうるさいんだろ。


 ことさら表情を消した風な航の蒼白い顔を見上げながら拳を握り締める。


 二階は家族それぞれの自室になっているが、自分たち兄弟の部屋は隣り合わせである。


 自分の部屋はストレッチしやすいように勉強机とベッドの他は極力物を置かないようにしている。


 一方、兄の部屋には大きな本棚があって勉強机に収まり切らなくなった問題集や参考書はもちろん、好きで買い集めたらしい小説や映画のDVD、民族音楽のCD、画集、美術展の図録、外国の風景の写真集が背を並べ、隙間のスペースにはデッサン用の関節人形もまるで見張りのように腰掛けている。


 二年前までは週に二回バレエ教室に自分と一緒に通って、大きな休みには母親に連れられて海外のバレエ団の舞台を観に行っていた。あの部屋にはそうした痕跡が洗い流され、あたかも最初から無かったかのように別な物で埋め尽くされているのだ。


「やってないと体が鈍るんだよ」


 誇るように部屋着の両腕を開く。


 バレエを辞めてから、兄貴は随分体が弛んだと相手の服の上から改めて眺めて感じる。


 一般の男子中学生としては特に肥満体でも不健康な体型でもないが、踊る上ではもうダルダルだ。


 美術部で絵ばっかり描いているからそんなだらしない体つきになる。


 櫻子は下手でもバスケをして運動を続けているせいか、体型には崩れが見られない。


 体育館でバスケ部の練習をしている時の細いが筋肉質な腕や脚がまざまざと蘇る。


「お前はいいよな」


 航はどこか憐れむ風に笑うと、大人に近付いた低い声で続けた。


「俺は今年受験なんだ」


 静かにしろ、とテレワークの自室から出て家族に告げる時の父親の顔と口調にそっくりだ。


「分かったよ」


 やっぱりお父さんじゃなくて兄貴は自分がうるさかったのだ。


 俺がバレエのためのストレッチをするのをやめさせたいのだ。


 板張りに接した足の裏が汗で滑ってひやりとする感触が背中まで通り抜ける。


「ずるいよな」


 受験勉強と言われればこちらも引き下がらないわけにはいかない。両親もそう聞けば自分より兄の肩を持つだろう。


 ――勉強をしっかりやる方が大事だから。


 父はもちろん、小学生の頃はバレエに秀でた自分の方をとかく優先していた母も息子たちが中学生にもなると、そんなことを口にするようになった。


 元から学校の成績は兄の方が良かったから、勉強よりバレエに打ち込みたい自分の家での立場は悪くなる一方である。


「何がずるいんだよ」


 航は“話はこれで打ち切り”という風に片手をさっと払う風に振ると、リビングのドアを開けて奥に向かう。


 手を払う尊大な仕草も、肩の広くなった後ろ姿も、五十近い、勤め先では管理職を務める父親にいよいよ似てきたと思う。


 自分なら絶対に嫌だが、この年子の兄にそれを伝えてもそこまでショックを受けることもなく開き直るだろうという気がした。


 こちらの思いをよそに航はガラリと今度はリビングとキッチンを仕切るガラス戸を開いてその向こうに姿を消す。


 多分、またココアを飲む気だ。


 この年子の兄はとにかくカカオの味が好きで勉強の合間にもチョコレートやらココアやら摂りたがる。家に居てそんなものばかり口にしていればまた太るのに。


 ウエハースじみた甘い板張りの匂いを感じながら、鏡に向かって再び爪先立ちになったところで玄関から鍵をガチャリと開ける音が響いた。


「ただいま」


 母親の姿は見えないが、聞こえてきた声の明るさでどうやら出掛ける前より機嫌が良くなったらしいと察せられてホッとする。


 同時に、母親を含めて家族全員の顔色をどこかで窺っている自分に気付いて胸の奥で屈辱感が微かに燻ってくる。

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