第七章:アイコンは語る
「新しく来た問題集、数学は三回分やったよ。英語は五回分やった」
夕飯のビーフシチューを家族皆が食べ始めたタイミングで訊かれる前に自分から伝えておく。
向かいの母親はプーアル茶(これは油分の多い食事の時に母親が必ず飲むものだ。自分はプーアル茶の匂いが苦手なので代わりに烏龍茶か麦茶にしている。父親と航は油分が多かろうが特に飲み物で中和しようとはしない)の入ったグラスを手にしたまま目を向けた。
「そう」
ダイニングの卵色のライトに照らし出されたお母さんの顔は特に嬉しそうでもなく何だか疲れて見える。
「どれも八割以上出来たよ」
中一数学の最初の方は小学校の復習レベルだし。
「間違えた問題もやり直しておいた」
ミスした答えの脇に赤鉛筆で正しい答えを書き写したのだから、「やり直した」内に入るだろう。
「そう」
焦げ茶色が濃すぎて醤油かめんつゆのように見えるグラスのプーアル茶を啜ると、母親は微かに苦い顔で付け加えた。
「休みの内に中二の予習までやっときなさい」
何故一言、「よくやった」と言ってくれない。
自分は精一杯やったのに。頑張ったのに。
言いたくても言えない言葉が喉の奥にぐっと詰まる。
――勉強するのは自分のためなんだから当たり前でしょ。
――結果も出せてないのに“頑張ったから褒めて欲しい”なんて甘えるなよ。
それぞれの皿に盛られた食事を黙々と進める家族の姿からは自分が仮に不満を訴えてもそんな突き放した答えしか返ってこないような醒めた苛立ちが透けて見える気がした。
冷めない内にさっさと食べよう。多目によそったスプーンの一口を含むと、程好い温かさだがやや強い酸味がじんわりと効いて目頭が微かに滲む。
お母さんはビーフシチューの隠し味にいつもトマトケチャップを入れるが、今日は少し強過ぎて「隠し味」になっていない。
*****
何だか疲れる一日だった。
自分の中でストレッチの枠には入れていないが、寝る前の習慣でベッドライトのオレンジ色の照明が点る中、両足を天井に向けて伸ばしながら深く息を吐く。
人目のない所でこんな風に溜息ばかり吐くようになったのはいつからだろう。
学校が休校でバレエ教室も休講になってから特に酷くなった。
ストレッチではなく思い切り踊りたい。踊っている間は自由になれる。自分が解き放たれるのは踊っている時だけだ。
いくら伸ばしても爪先は中空をさまよったまま、壁に黒い影だけが落ちる。
息を吐けば胸の奥がシクシク痛んだ。まるで深く傷付いた時のように。今日一日のどこにもそんな傷付くほどの出来事などなかったはずなのに。
ドアの向こうからギイッと椅子の軋む音が響いてきた。
どうやら兄貴はまだ勉強しているらしい。微かな焦りを覚えるが、今日は英語も数学もかなりやったわけだし、自分の受験にはまだ一年以上の猶予があるので良しとする。
もう寝よう。足をバタンとベッドに落として目を閉じたところで枕元で充電器に繋いでいたスマートフォンがブルブルと震動する音が耳に届いた。
こんな時間(といってもまだ十時前だしLINEかメールなら非常識でもないが)に誰だろう。
もしかして、ユリアさんがまたLINEくれたのかな?
就きかけた眠りから引き戻された苛立ちを微かな期待にすり替えてスマートフォンを手に取る。
“神近すみれ”
ああ、この子か。
画面に表示された名と藤色のバレッタで天然パーマ気味の縮れた長い髪を纏めて留めて横向き加減に笑った少女の写真のアイコンに力が抜けて疲れが再び襲ってくる。
溜息を吐きつつ、それでもこの子の写真を撮る時のキメ顔らしい笑顔のアイコンをタップしてみる。
“こんばんは! バレエも休みでずっと会ってないけど元気? こっちの中学ではクラス発表があって私と
すみれちゃんと葵ちゃんは学校は違うが、自分とは同い年でバレエ教室の仲間だ。
そもそも櫻子とこの二人は同じ小学校だったはずだが、彼女だけ受験して別の中学に進み、バレエも辞めてしまった。
“良かったね”
正直、すみれちゃんは苦手だが、自分に好意を持って良くしてくれる女の子ではあるし、邪険にしてプライドを傷付けると掌返しが怖そうなタイプなので無難な言葉を返しておく。
“葵は一年生のころクラスで無視されて一時期学校に行けなかったから今度は同じクラスで良かった”
“それは知らなかった”
自分の覚えている限り、すみれちゃんと葵ちゃんは教室にいつも仲良く二人で来た。
正直、二人とも中肉中背の背格好や紫系の服やアクセサリーを好んで着ける雰囲気が似ており、葵ちゃんは「すみれちゃんを水で薄めたようなもう一人の子」という淡い印象だったので、そんな事情があったとは想像だにしていなかった。
というより、こいつらは櫻子が一緒に習っていた頃は、自分たちより体も小さくて大人しい、バレエも奮わない彼女を明らかに馬鹿にしてつっけんどんに接していたのだ。
――あんたはもっと前でしょ。
いつか教室の皆で並んで写真を取る時にすみれが小柄な櫻子に放った、尖ったものを含んだ声が耳の中で蘇る。
櫻子がすみれちゃんと葵ちゃんに「あんた」などと呼び掛けるのは見たことがなかったし、この二人と話した後は大抵涙目だったのだ。
“葵は可愛いからねたまれて無視されたんだと思う”
“ひどいね”
葵ちゃんは決してブスな子ではないが、積極的に“そうだね”と答える気にはなれない。
むしろ、すみれちゃんは自分と葵ちゃんが似通っていて、自分の方が一般にはより可愛い部類だから、敢えて褒めているのではないかとこちらも意地の悪い見方をしてしまう。
“私も廊下で『お嬢様ぶってる』とかわざと聞こえるように言われたことある。うちは全然自慢できるようなお金持ちじゃないし、お嬢様だなんて思ったことないのに”
お前は本当に調子こいてて嫌われたんじゃねえの?
画面には打ち込めないが、頭の中で皮肉な声が毒づく。
そこそこ裕福な家の娘で、そこそこ可愛い顔をしていて、バレエ教室でもそこそこ巧い部類。
本人もそれを知っていて自信を持っているようなのだが、自分にはどれも突出して優れているわけではないのに思い上がっている井の中の蛙に思えて昔から一定以上には好きになれない。
美人といったらユリアさんの方がずっと綺麗だし、バレエだって外のコンクールに出るようなレベルではない。
生まれや育ちにしても、本来は旧家の娘だという櫻子よりすみれちゃんが本質的に格上だとはちょっと思えないのだ。
小さな頃に見た、庭に二本の桜の木が向かい合うようにして植えられた、ひっそりと大きな家の姿が胸の内に蘇る。
――あのおうち、おっきいね。
他意なく言い放った幼い自分にお母さんはどこか苦いものを含んだ笑顔で教えてくれた。
――あそこは櫻子ちゃんのおうちだよ。
もう少し大きくなってから、お母さんは自分たち兄弟に微かな恐れを潜めた声で語った。
――山下さんのお宅は昔はあの辺り一帯の大地主だったから。
他の家についてはちょくちょく気軽な風に話題にするお母さんが櫻子の生家の事情について子供たちの前で語ったのは後にも先にもその一度だけだ。
だからこそ、大人たちの間では、何らか別格の扱いを受けている家庭なのだと自分にも察せられる。
もしかすると、櫻子の目に映る自分も、生まれも育ちもさほどでないくせに勘違いして威張る、ちっぽけな井の中の蛙に見えているのだろうか。
“知らない内にそんなに嫌われてたんだなって思うと、とても傷ついた”
縮れ髪を纏める藤色のバレッタを見せるように横向きに笑ったキメ顔のアイコンから新たに発せられた言葉が突き刺さる。
“色々大変だったんだね”
取り敢えず、この子のこの言葉だけは否定せずに流してあげよう。
“ありがとう”
お礼を言うアイコンの自信ありげなキメ顔は変わらないが、電話線の向こうにいる相手は本当はどんな表情で言葉を打ち込んでいるのだろう。
“翔くんとこはもう新しいクラス発表になった?”
予想はしていたが、この子とはあまり話したくないトピックだ。
“発表になったよ。俺は持ち上がりだから小学校のころから一緒のやつばっかりだけど”
櫻子と同じクラスになったと伝えるべきだろうか。
それだけなら別に問題はないはずだ。
“さくらこちゃんはずっと違うクラス?”
向こうから訊いてきた。
藤色バレッタのキメ顔アイコンから吐き出された文字列に改めてドキリとする。
すみれちゃんは櫻子の名を正確に覚えていて打ち込むのは面倒だから、そんな配慮をしてやるほどの相手とも恐らくは思ってないから変換もしないのだろうが、平仮名だとまだ小さい子みたいだ。
“そういえば同じクラスだった”
一年前に櫻子が辞めてから、バレエ教室に残った自分たちの間ではそれまでに辞めた子たちに対してそうしたように何となく彼女を話題にするのを避けて忘れた風に扱う空気になった。
“一緒の学校だけど去年のクラスも部活も違うし、全然話すこともないから、すっかり忘れてたよ”
最後以外は本当だ。
“あの子は変わってるから”
嫌いだって言いたいんだろ。
お前らがいい気になっていびっていたから櫻子もバレエが嫌になって辞めたんだ。
キメ顔アイコンを思わず爪で弾くが、液晶の向こうの得意気な笑いは変わらない。
“今、髪を凄く短くして男の子みたいだよね。最近よく聞くLGBTとか心は男とかいう人かな?”
これは今まで考えたこともないシチュエーションだ。
そうだという確証もないが、かといって否定できるほどの確信も自分にはない。
“だとしたら『変わってる』とか差別だから言っちゃいけないんだろうけど”
小さな頃から変わらず長い縮れた髪をバレッタで止めた少女のアイコンは語り続ける。
“あの子にはお母さんの言いつけ通りピンクのフリフリの服やチュチュを着てバレエをやるのはずっと苦痛だったんでしょうね”
*****
“じゃ、そろそろもう遅いしすみれちゃんも疲れてるだろうからおやすみ”
“おやすみ。またね!”
恐らく向こうのトーク欄にも「既読」が付いたはずだと察した瞬間、スマホをホーム画面に戻して裏返す。
「ああ、疲れた」
切られた回線の向こうにいる相手にむしろ聞かせたいような気持ちで呟く。
表面上はどこも互いへの否定や挑発を交えるやり取りなどしていないにも関わらず、というより、だからこそ、この子とのやり取りは疲れるのだ。
「眠れなくなっちゃったじゃんよ」
薄暗いオレンジ色の照明が照らし出す天井に向かって一人ごちる。
退屈で眠くなるような相手はまだ安全で、本当に苦手な相手はやり取りをしている間はずっと緊張していて終わった後にごっそり削られている自分に気付くのだ。
また大きく息を吐いてから一度裏返したスマートフォンをまた手に取って省エネモードで薄暗くロックされた画面を指先で払う。
画面がパッと明るくなって、白黒写真に撮られた壁時計の下で横向きに宙に浮いた黒い背広の中年男の姿が現れる。
ヴァーツラフ・ニジンスキー。
二十世紀初頭に活躍し、それまで女性メインだったバレエの世界で男性の役割そのものを刷新、向上させた、不世出のダンサーだ。
跳躍力に優れ、「薔薇の精」を演じた際は観客には本当に舞台の彼が空を翔んでいて降りてこないように見えたという。
自ら振付も手掛けた「牧神の午後」はその革新性と官能性で一大センセーションを引き起こした。
だが、ダンサーとしては絶頂期の二十九歳で精神に異常を来して引退、六十一歳で亡くなるまで、彼の心は狂気から完全に戻ることはなかった。
この写真はニジンスキー五十歳の時に撮られたものだ。
舞台を降りて二十年、心は狂気をさ迷っていても、彼はまだ翔ぶことが出来たのだ。
自分が仮にこれからバレエダンサーになれたとしてもニジンスキーのような伝説的な存在になれるとは思わないが、それでも、踊れる限りは踊り続けたいと思うから、この五十歳のニジンスキーの写真をスマートフォンの壁紙にしている。
LINEのアイコンも「牧神の午後」で牧神に扮したニジンスキーが片膝を着いている白黒写真だ。
LINEのホームを開くとプロフィールの小さな丸い枠の中で跪いた若い牧神のシルエットが変わらず待ち受けていた。
改めて見直すと、こんなちっちゃな枠の中では何だか窮屈そうだ。
“森谷一郎”
お父さんのアイコンは何の設定もしていない灰色ののっぺらぼうだ。
息子の自分もLINEしたことはないし、恐らく仕事でもプライベートでも主要な連絡手段ではないのだろう。
“森谷蓉子”
お母さんのアイコンは長い赤い髪を振り乱したシルヴィ・ギエムだ。
これはもう中高年でバレリーナとしての最盛期の彼女ではないが、お母さんはまるでその死まで見届ける使命でも課せられたように十五歳年上のこのダンサーの近影を追い続けている。
多分、自分にとってのニジンスキーかそれ以上の存在なのだろう。
そして……。
“森谷航”という名の脇には小さな丸い枠に上手いこと切り出された、限りなく白に近いピンクの花一輪。染井吉野こと桜の花だ。
多分、ここ数日で変えたものだ。前のアイコンは確か美術部で描いたギリシャ彫刻のデッサンだったから。
「ベタなもんだよな」
小さく口に出して言ってみる。
春になったから桜の花のアイコンなんて定番過ぎる。
自分の家の庭に咲いた桜という点では多少特殊かもしれないが、写真の花自体には際立った個性などない。
――別に個性をアピールしたくて桜にしたわけじゃない。
頭の中で年子の兄は自分を子供扱いする苦笑いを浮かべて反論してくる。
「月並みってやつだ」
もう一度小さく声に出して言ってみる。このくらいの声なら隣室の兄貴にも聞こえないだろう。
白ともピンクともつかない曖昧な色彩の花びらを見詰める内に、ふと櫻子はどんなアイコンだろうという疑問が浮かんだ。
やはりあの大きな家の庭に咲いた、彼女と同じ名前の花だろうか。
それとも、バスケットボールとか、NBAの有名な選手の写真などだろうか(わざわざ不慣れなバスケットボールを始めたきっかけとして、自分にとってのニジンスキーや母親にとってのギエムのような存在が櫻子の中にいてもおかしくはないのだ)。
少なくとも、あの刈り上げ頭で自撮りしたキメ顔アイコンではなさそうだ。
――最近よく聞くLGBTとか心は男とかいう人かな?
先ほど目にしたすみれちゃんのLINEの問いかけが頭に蘇る。
あの子は元から櫻子を馬鹿にして嫌っていたし、櫻子の方でもあの子に本心を打ち明けるようなことはなかっただろう。
冷静な頭ではそう思いつつ、引っ掛かるものがあった。
ニジンスキーもいわゆる
だから、そうした性的マイノリティが身近にいてもおかしくないという認識はあったし、そうした相手がいても平静に接しようとは肝に命じてきた。
しかし、バスケやっている女の子なら髪が短い方がむしろデフォルトだし、だからといって彼女らに同性愛者とかトランス男性が多いわけではない。
そもそもあいつらも男子バスケ部のキャプテンが格好いいとか誰が好きとかよく噂し合ってるしな。
櫻子もあるいはそういう男子に憧れてバスケを始めたのだろうか。
しかし、練習中の彼女の様子を思い出す限り、男子バスケ部の誰かを良く見詰めていたとか特定の誰かと話す時だけ嬉しそうだったとかいう様子はない。
むしろ、バレエを習っていた時と同じで気の荒い男子バスケの連中に対しては概しておずおずとした風なのだ。
心が男だというなら、男子バスケ部の連中はもちろん幼稚園生の頃から見知っている俺にももっと同性として気楽に話しても良さそうなもんだけどな。
結局のところ、櫻子の目に自分は親しく交流したい、信頼感の持てる対象とは映っていないのだといういつもの沼にはまり込む。
ふっと息を吐いてまたスマートフォンに充電器を挿した。
中途半端に充電して抜いて、そこから“要充電”の注意が表示される域までバッテリーを減らしてからの再充電。
これはバッテリーが劣化する充電の仕方だとお母さんもいつか話していた気がする。
ふっと今日も何度目かの溜め息を就くと、ベッドに何も掛けずに横たわっている部屋着の腹や太ももがうっすら冷えている感触に今更ながら気付く。
タイマーで二時間経ったら切れる設定にして微風の暖房を点けていても、まだ桜の花の綻び始めたばかりの山形の夜にはそんな寒さが残っているのだ。
体を解凍するようなつもりで両腕を伸ばして脚を浮かすストレッチを始める。
今日は脚を鍛える方のストレッチは随分やったから、二の腕に重点を置こう。
バレエダンサーの腕は筋肉質な上で細くしなやかでなくてはならない。
見たところ、ピンと伸ばした自分の両腕のどこにもぷよぷよした
友達、か。
二の腕を意識して伸ばしながら揃えた両足を一定の速さで浮かしては沈める。
櫻子は俺とは目も合わせなくても兄貴や俺の良く知らない平塚さんには打ち解けて本心を話すのだ。
すみれちゃんにしても櫻子には嫌な感じだったが葵ちゃんとは不登校の時でも支えるような友達なのだ。
自分には、そんな相手はいない。学校でも、バレエ教室でも、結局は見せても大丈夫な顔しか見せていない相手ばかり。
腹や太ももの冷え冷えとした感じが引く代わりに胸の中に穴が開いて風が吹き抜けて行く。
オレンジ色のベッドライトだけを点けたベッドの上では、ぴったり揃えた裸足の爪先が、暗がりを上下しながら飛ぶ、夜行性の生き物の
ガチャリ。ギーッ。
ドアの開く音にギクリとして振り向いてから、自分の部屋ではなく隣の部屋からだと気付く。
トン、トン、トン、トン……。
閉じられた自分の部屋のドア越しに階段を降りていく静かな足音が響いてくる。
どうやら兄貴がまたココアを淹れに行ったらしい。
年子の兄は今の今までずっと勉強していたのだ。
俺も国語の勉強でもするかな。
今日はこれ以上体を動かしても徒に筋肉を疲れさせるだけで神経が昂って眠れないと半ば察していたので、ベッドサイドに置いた「ニジンスキーの手記 完全版」を取り上げる。
これはニジンスキーが二十九歳で精神異常を来した際に書かれた、当時の日記と自伝を兼ねた記録だ。
バレエの具体的な技術等の指南書ではないし、元よりニジンスキーの書いたものを読んだからといって同じレベルのダンサーになれるわけではないが、この不世出の舞踊家が辿った心の軌跡を少しでも追いたくて繰り返し読んでいる。
ただ、今日は最初から順を追って丁寧に紐解いていくには疲れているので、適当に開いたページの活字を追おう。
“私は過去がきらいだ。私は生きているから。このインクでは書けない。私はこのインクを感じないから。”
自分が今、読んでいるこの文面はニジンスキーが死んでから日本語という彼にとっては全く縁のない外国語で大量生産的な過程で刷られた活字だ。
何だか焦れったい気持ちでまた別なページを開く。
“私は神経質だった。たくさん自慰をしたからだ。自慰に耽ったのは、色目を使ってくるきれいな女をたくさん見たからだ。私は彼女たちを欲望し、自慰に耽った。”
自分だったら日記にもこんなこと書けない。まして、それが翻訳されて見ず知らずの外国人にまで読まれるなんて。
“踊るときはあまり自慰をしなかった。踊りが死んでしまうことを知っていたからだ。自分の欲求を加減できるようになり、自慰をやめた。そのうちに『女の子の尻を追いかける』ようになった。娼婦を見つけるのに苦労した。どこで探したらいいのか知らなかったからだ。”
ニジンスキーは一世紀前のロシアの人なので今とは感覚が違うのかもしれないが、何となく性欲の捌け口に生身の女性の体を買うという行為には寒々しいものを覚える。
胸の奥が冷え冷えするのと尻の辺りがぞわぞわする感じから逃れたくて、おみくじを引き直すようにまた別なページを開く。
“ある日、私は山の中にいた。気がつくと、山へと続く道にいた。私はその道をゆき、立ち止まった。私は山の上で語りたかった。そういう欲求を感じたのだ。私はしゃべらなかった。みんなが、この男は頭がおかしい、と言うだろうと思ったからだ。私は狂ってはいなかった。ちゃんと感じることができたから。痛みは感じず、人びとへの愛を感じた。”
これを綴っていたニジンスキーはもう自分が周囲から異常者として扱われていることを肌身で知っていて、それでも寄り添ってくれる相手を求めていたのではないだろうか。
そろそろもう本も自分の瞼も閉じるべきだと冷静な頭では知りつつ、最後の賭けに出るつもりでもう少し前のページを開いた。
“私は君を愛したい。
私は君を傷つけたい。
私は『なんじ』が欲しい。
私は『彼』が欲しい。
もし君が『彼』を愛したのなら、私にも『彼』が愛せる。
もし『彼』が君を愛するようになれば、私は君を愛せる。
君を愛したい。君の中の愛が欲しい。
私は君を愛することができる。私は君のもの、君は私のもの。
私は君を愛したい。君は感じることができない。
私は君を愛したい。君は私を愛していないから。”
パン、と両手の中で破裂に似た音がして、弾かれたようにベッドの上で体を起こす。
薄暗い部屋の白々とした壁に映った、獰猛な獣じみた自分の影から逃れるようにして扉を押し開けた。
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