「これを見ていただければ、わたしたち人間がいかに高慢な生き物なのかが分かります。本来ならばわたしは夜の存在なのですが、生まれ落ちた興奮が冷めやらずあなたにお声をかけさせて頂いたのです。本当ならあなたには一仕事を終えてからお会いしに行こうと思っていたのです。わたしはまだ完成していませんから。そのことはお詫びします」


 考えあぐね、二の句を継げぬ私に、長々と意味の分からぬことを言って微笑んだ女の顔は、満面に狂気をはらみながらも、見惚れるにあまりあるほどの色香をたたえていた。


 無性に気恥ずかしくなり、そっとアスファルトの床面へと視線を落とすと、ちょうど女の足と足のあいだあたりに、黒いしみのようなものが見てとれた。


 よくよく目を凝らすと、黒く見えたそれは、赤黒い液体のようなものだった。


 それを不気味に思いながら、女の白磁はくじのような太ももに視線を移すと、その内側から蛇のように赤い一筋が伝い、その上、赤いワンピースの裾からは、それらと同じ色の液体がしたたり落ちていた。


 ………血だ。


 根拠も無く確信的にそう思い、まさか内股を伝うそれが経血ではあるまいかとバカげたことを考えながら、ふたたび女の顔に視線を戻した。


 先ほどと変わらず、狂気と色香を内包させた笑みを浮かべる女の首筋にこびりつく乾いた血に慄然りつぜんとした私は、今になってようやく、女が着ている赤いワンピースが、白いそれに赤黒い血が大量に付着しているものであるという、恐るべき事実に気づかされた。


「……いや、やっぱり僕は…芸術とやらには興味が無いので…見るのは…やめておくよ…申し訳ない」

「そうですか、残念ですが仕方ありませんね。強制はわたしの趣味ではありませんから。でもやっぱり残念です。見ていただければ、『言葉という虚飾と全体主義的世界構造の比較』を分かって頂けたと思うのですが」


 もはや支離滅裂で、なにを言ってるのかすら分からない女に、とてつもない恐怖を覚えて膝が笑いだした私には、涼風に揺らめく赤いワンピースが、悪魔より邪悪なものに思えてならなかった。


「いや、本当に申し訳ない」

「はい……あの、最後に一つだけよろしいですか?」

「う、うん。何かな?」

「ヘビとクモ、どちらがお好きですか?」

「え?」

「地を這うヘビと糸を生むクモ。どちらがお好きですか?」


 その質問に、覚えがあった。


 だがそれは遠い記憶の底に沈み、なにか重要なことのようにも思えるその質問に、一瞬どう答えるべきかと困惑した。


「……えっと、どちらかというとクモかな。いや、よく分からないけどね」

「……そうですか、ありがとうございます。あなたのその言葉をわたしは、わたしはもういつだったのかも忘れるほど昔から待ちわびていたのです。クモ、クモ、クモ……」


 女が、今までとはちがう意味を含んだ笑みを浮かべた。


 女の言っている意味がまるで分からないながらも、何か重大な過ちを犯したのではないかと思い、暗澹あんたんとした気分になる。


「う、うん。よく分からないけどそれは良かった。じゃ、じゃあ、これで」

「はい」


 私はきびすを返して無我夢中で走り出していた。


 そして商店街へ抜ける道までたどり着いてから、恐る恐る振り返ると、ビルとビルのあいだから首だけを突き出して、ぢっと私を見つめる女の顔が見えた。ここからでは遠くて表情は分からなかったが、それは、私を恐怖におののかせるには、十分に足る光景であった。


 それを頭から振り払いながらふたたび歩き出し、


「早く、早くここから逃げなければ」


 と、私は何度も胸の裡で独りごちていた。

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