その女に出会ったのは、ジョギングを始めて二週間が過ぎた、ある朝のことだった。


 その朝も、私はいつものごとく家を出て公園へと向かっていた。


 薄曇りの空を見上げ、「今日は久しぶりの雨が降るのかしら?」などと考えながら国道を走っていると、


「あの、すいません」


 というかぼそい声が、どこからともなく聞こえた。


 私は立ち止まって辺りを見回してみたが、どこにも人影は見当たらなかった。


 首をひねり、ふたたび走り出そうとすると、また、


「あの、すいません、ここです」


 と、今度はさきほどよりもすこしだけ大きく、それでいて遠慮がちな女の声が聞こえた。


 ふたたび辺りを見回すと、ちょうど私の左側にある二棟のオフィスビルの隙間に、物憂ものうげな若い女が、すっぽりと収まるようにしてたたずんでいるのが見えた。


 夏だというのに長袖の赤いワンピースを着たその女と視線がぶつかった私は、明らかに異様な光景にもかかわらず、その淡雪あわゆきのようにはかなげな顔立ちに思わず見惚みとれていた。


「芸術作品に興味はおありですか?」

「え、なんですって?」


 あまりに唐突な質問に、動揺をおくびにも出さず聞き返すと、


「ですから、芸術作品に興味はおありですか?」


 と、ふたたび女が、静かに重くそして氷のように冷たい声でたずねた。


「いや、あまり興味はないかもしれないね…」


 そう答えながら、私は女の両胸の膨らみの頂に浮き出たものに目を奪われ、「ああ、この女はノーブラなのか」などといやらしいことを考えて、少しだけうしろめたくなっていた。


「そうですか、それは残念です。あなたにならわたしの作品を分かっていただけると思ったのですが」


 気だるそうにため息をついて私をぢっと見つめる女。


 私はなぜだかやましい気持ちを見透かされたような気がして、それをつくろうように、


「えっと、なんで僕なの?」


 と、いたって平静を装ってたずねた。


「ええ、なぜかはうまく伝えられえないのですが、しいて言うならば、あなたにわたしと同じニオイを感じたからだと思います。この作品のテーマが『男女平等主義と女性専用車両における作為的な齟齬そご』ですから。あ、ひとつ言い忘れましたが、わたしは今日この世に産まれ落ちたのです。そしてそれは多分、あなたのおかげなのです」


 ……言っている意味が全く分からない。


 産まれた?


 私のおかげで?


 それに、そもそもこの女が私に感じたニオイとは、なんなのだろうか?

 

 それが、先ほどから鼻腔びこうをくすぐる、たぶんに女から漂う、この薔薇ばらの香りのことでないことは明らかである。


 この女が言いたいのは、きっと私に同じ感性があるのだということだろう。つまり私の胸のうちにも、この女と同じような狂気が存在しているということなのだろうか?


 バカバカしい!

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