それでも、彼女はオーボエを吹き続ける。

西辻 東

それでも、彼女はオーボエを吹き続ける。

 屋上の扉を開けた。

 その瞬間、僕は自分だけの新しい世界を見つけたみたいに興奮した。


 視界に飛び込むおおきな入道雲に圧倒され、全身を熱く、それでいて心地よい風が取り囲む。


 バタン——と大きな音を立てて扉が閉まる。


 視線を下ろすと、そこには錆びた鉄格子があった。

 ねずみ色のコンクリートからは、熱気を帯びた夏のかおりがする。


 一歩一歩、ゆったりと優雅に歩くフリをする。

 全力で駆けだしたいのを我慢しながら。


 僕は鉄格子に触れて、豆粒みたいな住宅街を目を細くして眺めていた。

 陽炎かげろうで街はゆらゆらと震えている。



 すると突然、声がした。


「だれ?」左から聞こえた。心臓がどくん。と大きく跳ね打つ。


 僕はすぐにそちらを向く。


 そこにいたのは、女子生徒だった。

 ポニーテールの黒髪で、華奢きゃしゃな体格、小さな顔、そして彼女の手には楽器が握られていた。

 それはオーボエだった。





「一年二組の——」一拍遅れて、僕は答えようとした。


「——ああ違う違う。私は名前なんて聞きたくないの。どうして、ここにいるの?」オーボエを机に置き(そう、彼女は教室にある学生机を、屋上に持ってきていた)こちらを見ながら聞いた。


「え、えっと。休憩です。あと少しで全体練習が始まるので……」僕は困惑しながらも言った。


 休憩というのはあながち間違いではない。僕は先ほど面談を終わらせて、その足でここまで来たのだ。僕は吹奏楽部ではあるけれど、ここのところ全くと言っていいほど顔を見せていなかった。


「それまでサボりってわけ?」口角を釣り上げて彼女が言った。彼女の目は僕の思考力をそぎ落とす力でもあるのだろうか。僕はおどけた苦笑しかできなかった。


「……ふうん。まぁいいんじゃない?」彼女が適当に答える。


「あなたは? こんなところで、何を?」僕は聞いた。シャツで適当に汗をぬぐう。


「練習よ」そう言ってオーボエを少しだけ鳴らした。


「でも、屋上での練習は禁止で——」


「——いいの。私にはもう、関係ないから」彼女の言葉は冷たく、震えていた。


 しばらくの間、僕らは何も話さなかった。場を気まずくさせまいとセミが鳴き、じりじりと太陽が僕らを焼いていた。

 僕は垂れる汗を、どうしようもなくシャツでぬぐうことしかできず、彼女はそんな気まずさにはちっとも気づいていないようだった。

 後ろからは吹奏楽部の練習音が響き、その中に負けじと運動部の掛け声がする。


 僕はそんな夏の喧騒けんそうに耳を傾ける。



 正直にいうと、僕は怒っていた。


 彼女に怒っていた。


 出会って数分すら経ってない相手にである。


 部活をサボったことを指摘されて怒っているわけではない。


 もっと何か、根源的に彼女にたいして怒るポイントがあったのだ。


 それはどれだ?


 やれやれ——と僕は思う。


 支離滅裂な思考をしている、と自覚する。


 この暑さのせいで頭がやられたのか。もう汗をぬぐうのは諦めていた。


 彼女の方をちらりと盗み見る。彼女は毅然きぜんとした態度でそこに立っていた。


 地平線を見つめている。汗が彼女の頬をつたう。


 彼女がこちらに気づいた。


 すると、彼女はオーボエを持ってまたこちらを見る。


「ちょっと吹くね」


「はい」僕は何も考えずに応えた。でも本当なら、怒りのままに叫びたかった。できることなら屋上の地面を、拳で叩きつけてやりたいくらいだった。


 彼女は深呼吸をした後、なめらかにオーボエを吹きだした。


『アヴェ・マリア』だ。と僕は思い出す。


 その音はどこまでも届きそうなほど強く響いて、だけどどこか悲しそうで、彼女のなかにあるものを静かに訴えているように感じた。


 ここだけ時間がゆっくりと流れているように錯覚する。それは曲調もあるだろうが、それ以上に彼女の演奏に魅力されていたからだろう。いや、彼女の世界……だろうか。


 彼女の世界に僕は迷い込み、そこでオーボエをじっと聴いている。


 深い森に囲まれて、ぽつんと置かれた白い椅子に座って、彼女のオーボエを聴いている自分を想像する。


 徐々に、僕のなかにあった怒りが和らいで、なにか別のものに置き換えられていくのを感じた。


 それが終わると、僕はすっかり怒っていなかった。


 でも、心のなかに、それとは別のドロドロとしたものが残っていた。



「どうだった?」彼女はオーボエを置くとはにかみながら言った。


「ええ、まあ」意地を張る余地なんてどこにもないくらいに彼女の演奏は上手であった。だが、上手ですね。という言葉は、どうしても出てこなかった。


 一羽の小鳥が僕らの前を横切る。


 彼女は、どうしてこんなところにいるんだろう。


 そしてふと僕もどうしてこんなところにいるんだろうと思う。


 同じ言葉なのに、その意味の差はひどく明瞭だった。


 悔しい。という文字が僕の頭の中でぐるぐる回る。


 いいの。私にはもう、関係ないから。


 あれはどういう意味だったんだろう?


 分厚い沈黙が立ち込める。


 その度に、このどうしようもない暑さを思い出してしまう。


 一匹のセミの鳴き声が地面に染み込むように消えた。


「あなた、吹奏楽部?」彼女の体がこちらを向いた。


「はい」


「パートは?」


「オーボエ」僕は答える。なぜか嘘をつこうかと一瞬だけ思ってしまった。


「私のこと知ってる?」一拍遅れて、その質問がきた。その時の彼女は、何か恐れているような、怯えているような様子だった。


 僕は彼女について抱く疑問が多すぎて、苛立ちすら覚え始めた。


「分かりません」少し早口で答える。


「そう。じゃあ私のことは調べないで。今日ここで会ったことも、できれば内緒にして」僕にはその言葉の意味がよく分からなかったが、少なくとも彼女が冗談でそんなことを言っているのではないということは明らかだった。



「何故ですか?」


「質問をするのは私」彼女は視線を僕から逸らしていた。表情も読み取れない。ただ、彼女のその威圧するような口調にこっちを見るなと言われているような気がしてならなかった。


「何故ですか?」


「あなた、結構めんどうくさいのね」彼女はクスクスと笑った。


 僕は鉄格子を背にして、もたれかかる。自然と校舎が視界に入った。


 三階の空き教室でダブルリードパート(オーボエとファゴットで構成されるパート)が練習しているのが見えた。


「練習、行かなくていいの?」静かに彼女が聞いた。


「いいんです。必要ないですから」僕は笑って言った。


 彼女は、僕の顔をじっとのぞき込むようにして見た後、オーボエを僕の前に出して——


「ちょっと吹いてみて」と言った。


 僕はその言葉に動揺した。


「いや、でもこれは……」


「あなたとても吹きたそうにしていたけど?」


「僕、そんな顔してました?」


「うん。だからはい」彼女はオーボエを僕の胸にぐっと押し付ける。彼女との距離が一気に詰まる。鼓動が早くなるのを感じた。


「じゃ、じゃあ……」僕は仕方なくそれを受け取った。


 本当に、彼女の楽器を使ってもいいのだろうか……

 それをじっと見て、緊張する。


 彼女は目を輝かせて、僕の演奏を待っている。


 ため息とも思える深い呼吸をしたのち、曲を決める。

 指を動かして、イメージをする。

 そして、僕は彼女のためにオーボエを吹いた。


 最初の一音から、いつになく集中できていると分かった。


 五感が研ぎ澄まされ、狙ったポイントで、狙った音が自然と滑らかに出てくる。


 体中に音が駆け回って、響く。


 楽しい。


 こんなことは初めてだった。


 でも、彼女の技量にはほど遠く、やはりその差は明瞭としていた。


「へぇ、結構上手いじゃん。サボってる割にはすごいね」彼女が呟く。


「どうも」僕はそう言ってオーボエをすぐに彼女に返した。


 三階で練習している彼女たちにもこの音は聞こえただろう。

 だが、全然こちらを向かない。


 なぜだろう?


 僕が思案していると、彼女が話し掛けた。


「バッハのG線上のアリア。うちの中学の卒業式で流れたな」彼女は指を立てて言った。


「なんとなく、今はそんな気分だなぁって」


「うん、でも、上手い。余計にあなたに興味が湧いたわ」彼女はうつむく。


「余計に?」僕は尋ねる。


「ねぇ私のこと、本当に知らない?」彼女が真剣な眼をしてこちらを見つめた。


「知りませんよ」僕は首をふる。


「あなた、いつも部活には出てるの?」彼女は怪訝そうな表情で尋ねた。


「いいえ全然ですね。たまに少しだけ顔を出すことはあります」


「なるほどね。どうりで辻褄つじつまが合わないと思った」彼女はまた下を向いて、冷ややかな笑みを浮かべた。僕はその笑顔にほんの少し、恐怖を抱いた。


「どういう意味ですか?」言葉を選んで僕は言った。


「説明すると、めんどうだわ」僕の中で感情を抑えつけていた壁が破れた。


「あの、そうやってはぐらかすのはやめてもらってもいいですか?」


「……それはどういう意味?」笑顔のまま、しかし冷酷なトーンで彼女が。


 その顔はとても不気味で、背中がぞくり、と凍る気がした。


「言葉通りです、僕はさっきから正直に答えているというのに、あなたは何も答えやしない」早口で僕はまくし立てる。言いたいことが爆発する。なぜ人間の口は一つしかないのだろうと疑問に思うくらいに。


「わかった。話すわ。でもその前に、あなたのことを教えて」彼女は僕を制して言う。


「僕のこと?」


「あなた、どうして部活に出ないの?」


「別に大した理由はないです。ただめんどうくさいだけで」僕は下を俯いた。一匹のアリが目に映る。僕はそれを無意識に追う。


「いつから、部活に出なくなった?」静かに彼女から聞いた。僕はよそよそしいそんな口調に腹が立った。その口調は、僕が嫌いな人種に似ていたからだ。


「誘導はやめてください。……分かりました。話します。ちょっと長くなるかもしれません。僕は説明が苦手でして」僕はそう切り出した。


「中学の頃、吹奏楽部に入部しました。僕はオーボエを吹いていました。その時から、僕は教わったことはすぐに習得して、練習なんていらないぐらいでした。それで、一年生のうちに、部内で一番上手くなりました。

 中学二年生のころ、県の個人コンクールで金賞を受賞したこともありましたね。

 部内では特になんの問題もありませんでした。今思い返すと、誰かが裏で手を回して問題を丸く収めていたのかもしれません。ともかく、僕はそのまま三年間、常にただ一番上手い人のまま卒業しました。そして高校に入学した」


 アリが見えなくなったので、今度は上を見上げる。陽が眩しく、僕は思わず目を細めた。

 雲がゆっくりと流れている。


 彼女は地面に座って、手を膝に回していた。


「高校になっても吹奏楽部に入部しました。オーボエを吹きたいわけではありませんでしたが、オーボエをまた選びました。

 なぜなら、一番であるオーボエを手放すことは僕にとって大きな損失だと思ったから。だからオーボエを続けました。

 そしたら、中学の頃とはまったく違った」


「何が?」彼女が顔だけこちらに向けて聞いた。


「環境です。僕を取り巻く人間が、僕を見る目が、違ったんです。

 僕は部内では孤立しています。軋轢あつれき——壁でしょうか。みんな腫れ物みたいに扱うんです。向こうから話しかけることはまったくないし、誰も僕に関わらない。例えば、いつも上級生に対して敬語が使えないような同級生が僕には敬語を使って話しかけてくるとかですかね。

 僕がただオーボエを吹く。それだけで、周りの人間はどんどん変わっていきました。そんな部活は退屈で、オーボエの技術も中学のころから成長しなかった。でも、衰えもしなかった。まるで限界を迎えたみたいに、ピタリと僕にある何かが止まって。

 その時、僕は思いました。僕に才能なんてもともとなかったんだって。僕は人より早く限界に達しただけで、みんなはそのスピードが違うだけ。天才は限界を超えてゆく存在なんだって。

 そんな風に考えたら、今オーボエを吹く意味を見失ってしまいました」


 僕はそこでいったん言葉を区切って、ぼうっと放心する。

 長く喋ったせいだろうか、喉が異常に乾いていた。


 僕は、彼女の「そして?」という声にはっとして続ける。


「……そしてちょうどその頃、テスト期間で部活が一週間休みになりました。部活のことを考える必要がなくなって、僕は淡々とテスト勉強をしました。部活から離れるためだけに勉強をしていた、と言っても過言ではないくらいに。そして、テスト最終日。その日は部活がある日でしたが、僕はうっかりその事を忘れて、家に帰ってしまいました。気づいた時にはもう家で、そのとき僕はとても解放された気分でした。だから次の日も休もうとしました。

 もちろんその日は別に用事があったわけでもなければ、体調が悪いわけでもなく、うっかり忘れていることもなかった。結局休みました。だけど、僕は罪悪感で胸が押しつぶされそうでした。

 次の日の朝、僕は怯えて登校しました。下駄箱にたどり着くまでに部員に何か言われるのではないか、担任や顧問に呼び出され、叱られるのではないか。そんな幾つもの心配事が頭を行ったり来たりしていました。

 でも、それらは杞憂で特に変わったことは起きませんでした。

 そしてその日も、その次の日も、誰にも何も言われないのにその罪悪感は僕を苦しめにやってきて……でも部活に出る勇気はなくて。

 そんな生活が一週間ほど続くと、その抵抗感はまるで最初からなかったかのようにどこかへ行きました。要は慣れなんです。慣れてしまえばこんなのどうということもありません。僕の心は、沼のようによどんだ重い空気に汚染されきっていた。そういうわけで、部活に出ていませんでした。もうじきコンクールのメンバーが選抜されますが、僕は確実に外されてますね。幽霊部員扱いです」僕は言い終わって、深いため息をつく。


「そう……オーボエはもう吹きたくないの?」僕の話を聞いた彼女は、びっくりするくらい時間を置いてから言った。脳内で僕の話を何回も巻き戻しては再生していたのだろうか。


「もともと吹きたい、吹きたくないでオーボエを吹いていませんでした。ただそこに一番になれる座席があったからそこに座っていた、それだけの事です」僕はやけに軽く答えた。何も問題は解決していないのに、肩の荷がおりてしまったかのような気分だった。


「今は?」


「今は……もう違う。僕は僕よりも上手い人——あなたを見つけてしまった。だからもうオーボエは吹けない」


「じゃあ何でさっき、あなたは演奏をしたの?」彼女がようやく立ち上がった。


「あれはあなたが吹けと命令したからであって、僕の意志なんかじゃない」


「なら、私が部活に戻りなさいと命令したら、あなたはその通りに動いてくれるの?」


「それは……意地悪すぎますね」苦笑が零れた。


「だよね。うん、悪かった。あなたが行きたくないなら行かなくていい。ただ、後悔はするでしょうね。少なくとも高校を卒業するまでは」


「分かってます……どこかで踏ん切りをつけなきゃいけないのは」


「悩むといいよ。たっぷりとね。あなたにはまだ選択肢が残ってる」彼女が両手を広げて言った。


「あなたは?」


「私はここにいるしかないの」


「その理由を聞かせてもらっても?」


「分かったよ。私も誘導されるのって嫌いだなぁ……」彼女は苦笑して言った。


「どこから話せばいいんだろう。まぁ、高校だね。高校生になって、私は吹部に入部した。中学も吹部だった。高校でもオーボエを吹きたかったの。それで……まぁ、私もオーボエは人より上手いっていう自信はあったの。でもそれは毎日必死に練習していたからね。才能なんかじゃない。

 高校になっても毎日ちゃんと練習した。だけど、ちょっとしたすれ違いが、三年生との間で起っちゃって……。

 ある日ね、同じオーボエパートの先輩が、なかなか上手く吹けなくて困ってそうだったから、それとなくアドバイスしてみたの。そしたら、その先輩は顔を赤らめて、『うるさい! あんたなんかに指摘されたくない!』って……。

 まぁ、そうだよね。考えてもみて? 入部したての一年のくせに、誰よりも上手で、人一倍努力もする、先生からは褒められ、同じ一年には天才扱いされる。そんな奴に、アドバイスなんかされちゃったら、怒るよね。単純な嫉妬だよ」


 僕はその話を聞いて言葉が出なかった。そして、他人事のように話す彼女が、とても怖くて、悲しかった。



「ちょっとうざいかもしれないけど、私は周りからみれば完璧な人間だったんだ。だから、ミスの指摘や揚げ足取りなんかもできなくて、それがもどかしくって、怒りはどんどん風船みたいに膨らんで、最終的に感情任せになっちゃうってわけ。

 それからはあっという間だった。怒った三年生に同調した人たちが、私の悪い噂を広めたり、私のこと無視しだすようになったり、そうやって、私の周りはどんどん敵だらけになった」彼女はそう言って、鼻息を漏らす。


 屋上は静寂に包みこまれた。セミの声は遠い。


「それで?」いくら経っても彼女がしゃべらないので、僕は続きを促す。


「ああ、うん……。ええとね、六月の中旬あたりだね。その時期に、部員の財布が盗まれるっていう事件が起こったの」


「まさか」僕は彼女が何を言おうとしているのか分かってしまった。冷たい汗が背中を流れた。


「当然、私は何もしてなかった。事件が起こったのは、放課後の部活が終わるときで、私は放課後ずっと一人で練習していた。だから財布を盗むことはできなかったの。でも……真っ先に私が犯人だって疑われてさ、まぁ盗んでないんだから、潔白を証明しようとカバンを見せたの。そしたら、全身の血の気が引いたわ。だってそこにはないはずの財布があったんだから。たぶん、トイレに行っているときに入れられたんでしょうね……」


 僕は彼女になんといえばいいのか分からなかった。


「これで、唯一の支えであった教師達も敵に回って、部活を辞めるように言われたの。それに部員たちからのいじめもエスカレートした。でも私は反発した。諦めていなかったの。堂々とオーボエを吹いてやったわ。無視されると分かっていても、元気に話し掛けて、先輩にも挨拶をしっかりした。私にだけ予定表が配られなかったからいつ部活があるのか分からなかった。だから平日はもちろん、土日も毎日部活に行った。そうやって乗り切っていた。いや、実際は全然乗り切っていないけど、当時の私はこれが一番いい方法だと思い込んでいた。

 それでも……コンクールまであと二週間を切った金曜日のことだった。財布を盗られた一年と、その仲良しだった子たちが、ぞろぞろと私のところまで来て言ったの。『なんでまだいるの? 早く部活辞めてよ。この泥棒女』って……」


 想像をはるかに超える惨劇だった。人間関係のもつれでここまでの仕打ちを受けている人間が、まさか同じ学校に、同じ部活にいたというのが、単純に恐怖でしかなかった。


 彼女の顔は今にも泣きだしそうなほどに歪んでいる。


「学校ってほんとうに理不尽なところよね。だって『いじめはしてはいけない』とは教えられても、『いじめを受けたらどうすればいいか』までは教えてくれないもの。相談しろと言うけど、そもそも相談の以前に、対処法くらい教えてくれればいいのに。

 だから、私はどうすればいいのか分からなかった。もう諦めたかった。。だからここに来た。失うために、ここに来たの。この、屋上にね。けど、私は私を捨てることすらできなかった。ここでオーボエを吹くのは、惰性と後悔。でも私の中のどこかで、まだオーボエを吹き続けていたいという部分があるのも確か。

 だから、私はここにいる。過去の失敗と、微かな希望に挟まれて、私はここにいる」


 彼女は直接は言わなかったものの、精神的にかなり病んでいたのは誰にでも見て取れたけれど、今の彼女の様子を見ていると、自ら人生を辞めようとしているような人間には見えなかった。むしろ、その逆で、活力に溢れたように見える。

 まるでコンクリートの隙間に生える雑草のように。


 彼女は大きく伸びをしたかと思うと、深呼吸をして、オーボエを手に取る。

 そして、彼女はオーボエを吹いた。


『G線上のアリア』だ。僕がさっき吹いた曲を、彼女が吹いている。


 とても美しく、強気な音色だ。それはほんの少しのミスもなく、僕の心をつかんで直接揺らしてくる。

 先ほどの悲哀はどこにも見えず、すべて消え去って夏の空をどこまでも駆け巡る清々しさを感じる。


「やっぱり、僕とあなたは似ているようで、全然違う」彼女に聞こえないようにそっと僕が呟いた。


 涙が出そうなくらい、悔しかった。




「誰かのために演奏をしたのは久しぶりよ。私の音楽を聴いてくれる人は、もうあなたしかいないのかも。思えば、私の後輩はもうあなたしかいなくなってしまったわ」演奏を終えた彼女は、からからと笑いながら言った。


「そんな。来年もまた新入生がくるでしょう?」


「いいえ、私の噂は少なくとも私が卒業するまでは伝えられるわ」


「ひどい……あなたは何もしていないのに」本当に可哀そうだった。彼女は本当に何もしていないのに。なぜ彼女だけがこんな仕打ちを受けなければならないのだろう。僕は悔しくてたまらなかった。


「私たち二人とも、たしかに悪いことはしていないわ。けど、何かしなきゃいけなかったんだと思う。それは責任なのかもしれない」


「僕は何をすればいいんですか?」


「分からない。だって、私もあなたも失敗しているもの。二人とも間違えている。けど、少なくとも一つだけ言えることがある」


「それは何ですか?」


「あなたは、ここにいてはいけない。ここは、私がいるべき場所よ」風が彼女の髪を揺らした。


 その瞬間、僕は気づいた。ここは彼女の世界であり、、と。


 秘密基地に先客がいたときの子供のように怒っていた僕が、だんだん馬鹿らしくなってきた。


「僕も、あなたみたいになれますか?」


「私のようになってはいけないわ。私を目指しながら、あなたはあなたになるの。わかった? 後輩」彼女は笑って言った。


「なんで、あなたはそんなに……平気そうなんですか」僕は聞いた。彼女の話を聞いてから、まず一番最初に頭に思い浮かんだ質問だった。

 何故か聞いてはいけないような気がして伏せていたけど、彼女の笑顔を見ると、どうしても聞かずにはいられなかった。


「さぁ……自分でもよくわからない。でも、こんなみみっちいことで弱虫になっていたら、この先私はたぶん本当に自殺してしまうのかもしれない。だからこれは、私なりの防衛。処世術ってやつね」


 何も言えなかった。

 だから聞かない方がよかったんだ。とどこかで僕は後悔する。


「じゃあ、もう練習に戻りなさい」腰に手を置いて彼女が言った。


「え?」


「え、じゃないわよ。私は聞きたいことは聞いたし、言いたいことは言った。あなたも聞きたいことは聞けたでしょう? ならもう終わり。あなたは上手になるために練習しなくちゃ」


「だって、僕、もう練習しても上手くなんか——」


「——馬鹿じゃないの? あなた、真面目に練習したことないんでしょ?」


「ええ、ないです」


「だったら、これから真面目に練習するの。私だってそんな時期あったわ。いくら練習しても全然上手くならないし、イライラばかりする。でもイライラしたら練習する。上手くならないなら練習する。そしたら上手くなる」


「そういうものですかね……」


「そうよ。これは私の経験上言えることなの」


「じゃあ、練習に行ってきます。なんか、今日はやる気が出てきたので」


「そうするといいよ。あなたの音はしっかり覚えたからね。ここで聴いてあげる」彼女は耳に指をさして言った。


「あの、ずっとここにいるんですか?」僕は聞く。


「ずっとよ。ずっとここにいる」彼女は答えた。


「寂しくないですか? 辛くないですか?」なんでこんなこと、聞くんだろう。さっき後悔したばかりじゃないか。


「もちろん。寂しいし、辛いよ。でもね、私はそれ以上にオーボエが好きだから」


「そうですか……じゃあ。もう行きます」別れの言葉としては不十分だな、と僕は思いながら、屋上の扉へと向かいだした。


 何かまだ言うべきことがあったような気がした。けど、それを言う自分が想像できなかった。


「あなた、オーボエは好き?」ドアノブに手をかけたところで、彼女が呼び止めた。


 振り向くと、オーボエを手にした彼女が立っていた。ポニーテールの彼女がそこに。


「まだ分からないです」セミの声に負けないくらいに言った。


「じゃあ、嫌いになるまでオーボエを吹きなさい。後輩」彼女が僕の声に負けないくらい大きな声で叫ぶ。


「はい。先輩」僕も大きな声で叫んだ。


 そして、屋上をあとにした。


 バタン——と大きな音を立てて扉が閉まる。


 埃っぽくて、暗く、冷たい空気が急速に汗を乾かす。


 しばらく扉を背に立っていると、美しい音色が聞こえてきた。


 きっと——と僕は俯きながら思う。



 何が、彼女を苦しめようとも


 何が、彼女を傷つけようとも


 何が、彼女を妨げようとも



 それでも、彼女はオーボエを吹き続ける。

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それでも、彼女はオーボエを吹き続ける。 西辻 東 @128nishinosono

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