第102話 痛みをこらえて。
あー痛い。言わないけど。
「萩野様、一度撤退を。治療を」
「ここで私が退いたら、折角の膠着状態が」
「しかし」
このホテルは共通の一、二階。そこから二棟に分かれる。片方は屋上がヘリポート。もう片方は、もし今晩何事も無かったら、初日の出を見る筈だった屋上プールだ。
プール側の屋上に何者かが下りたという様子は無い。だから、渡り廊下で下からシャッターを吹っ飛ばして攻め込んでくる可能性は、今のところ無い。
非常階段を、今、先輩が駆け上がっているのは確認した。一階は、班目さんと柿本さんがほぼ制圧。一階から侵入した実戦強襲部隊はそのまま警戒態勢。班目、柿本ペアは諜報捜査室が突き止めた敵のアジト制圧に参加するべく向かった。
だから、後はここをどうにか切り抜けるだけ。
「結愛ちゃん……」
「志保さん。顔を出さないでください。死にますよ」
志保さんは、申し訳なさそうに、扉を閉める。自分にできることは無いと、すぐに理解する。そして、すぐに引っ込む。志保さんの良いところだ。
この戦場と、パーティー会場に繋がる廊下を隔てるたった一枚の扉だ。薄いなぁ。
朝倉家の人、守るべき三十人を最初、屋上から救助、あるいは非常階段から下りて避難してもらうつもりだった。そこに、これだ。
渋谷さんがいなかったら、私は間に合わなかっただろう。
敵がヘリを所有しているなんて思っていなかった。これだけの武装を用意できるなんて思っていなかった。
だから、この状況を許した。
敵を甘く見ていた。私の判断ミスだ。
一人ずつ、私が今隠れている、下に続く階段を下りてもらうかも一瞬考える。……いや、リスクの方が大きい。
止血はした。
まだ戦える。痛みは、堪えろ。
この膠着状態、私の役目が重要だ。
二回、スタングレネードを撃ち返している。
一回目撃ち返した時、そのまま制圧しようと、前に出たのがマズかった。
冷静な人。死線を潜り慣れている人がいる。
先輩が捕らえた、ナイフ術の男の人並に場慣れしている人だ。
腹部に感じる痛みを意識の外に。集中を切らすな。我慢比べだ。
「萩野様……」
渋谷さんも、迷っている。
この戦線に、私の狙撃技術が必要だと、理解している。
二回、撃ち返されている。三度目の正直に賭けて来る可能性は無いだろう。
投げ物に冷静な対処ができる人がお互いの陣営にいる。そのたった一つの事実が、今ここに、膠着状態を作り出している。
防衛戦は、粘り切れば勝ち。
私がこの痛みを耐え続ければ良い。その間に、外でどうにかしてくれるはず。
『結愛、状況は』
「うまい具合に膠着させてますよー。このくらい、余裕ですよ」
『……怪我は?』
「破瓜とかお産の痛みの方がきついのですかねー。先輩、この事件が終わったら試させてくださいよ」
『軽口はいらない。すぐに行くからな。班目さん達が来てくれた。状況は好転しているぞ』
「別に、軽口でも冗談でも無いんですけどね。しかし、そうですか……素晴らしいですね」
手に付いた血は、とっくに固まっている。
さて……開き直ろう。もう、意地しか残っていないのだから。
「あの馬鹿が」
絶対にひっくり返してやる。
もう、怖さも何もない。
意志の力が、足を前に進める。頭はクリアだ。視界も、やけに広く感じる。
実戦強襲部隊のヘリが、空中を旋回している。二人、屋上でそのヘリの動きを監視している奴がいる。
飛び続ける限り、警戒に人を割かせることができる。警戒を怠れば、増援を送り込まれる。
しかし、この状況でヘリの扉を開ければ、そこに銃弾の雨、最悪、墜落だ。
「こちら九重、屋上の奴らを無力化する。援護を頼む」
『了解、健闘を祈る』
俺の手は、無意識のうちに胸元のホルスターに伸びた。
右手が震える。ピストル。その持ち手が、上手く握れない。
……こんなものに、頼らなくても。
屋上、二人の男が空に銃口を向けている。
そして、ホテル内部に繋がる扉は閉まっている。あの向こうで、結愛が戦っているのか。
「行くぞ」
代わりに取り出したのは投げナイフ。
狙うは手首。一本飛ばす。
「ぐあっ」
銃を取り落とした。そのタイミングで駆け込む。もう一人が素早く銃口をこちらに向けてくる。そこにもう一本投げるが弾かれる。
冷静だな。だが、もう、俺の間合いだ。
銃を取り落とした方、ハンドガンを抜こうとしている。
「はぁっ!」
警棒で肩口、脇腹、顎を素早く打ち抜く。
「えっ……」
気づいた時には、銃弾がこちらに殺到していた。
仲間が盾になり、引き金を引けない。俺は、そう読んでいた。
「ぐっ」
右肩に痛みを通り越して、熱を帯びたような感覚。
……仲間ごと、撃ちに来たというのか。
「うぉおおおお!」
撃たれた敵の身体を奴に向かって蹴り飛ばす。だが、既に銃を捨て、ナイフを抜いている。
警棒とナイフが衝突する。
どんな判断力をしている。
俺が想定していた決め手を、しっかりと潰した。
だが、これで……。
屋上の扉が開く音。
銃口が、三つ。
さっき撃たれた奴。やはり防弾ベストを着ていたか。そして、建物中から二つ。
……こいつを盾にしても、一方向しか防げないし、恐らく奴らは撃ってくる。
閃光が屋上を一瞬照らした。袖の下に仕込んでいたものだ。俺の視界も一瞬白く染まるが、それでも、見えないほどではない。撃たれるのを一瞬遅らせた。それだけで十分。給水塔の陰に身を隠す。
厄介だ。予想以上に。
けれど、組織は負けていない。
「ハッハッハッ。九重の坊ちゃん、ナイスファイト」
「下りればこっちのものだぜ、ボーイ」
重装備の男が四人、屋上に現れる。盾を持って横に並び、盾越しに射撃しながら押し込んでいく。
実戦強襲部隊の十八番戦法。『ファランクス!』 と叫びながら訓練しているのを見たことがある。
扉を開ける音。屋上で別の戦闘が始まっている。
「うぉおおおおお!」なんて、むさ苦しくてやかましい叫び声、実戦強襲部隊だ。そっか、史郎先輩が、屋上の奴ら潰したんだ。流石、先輩。
あっ、ヤバい、気が抜ける。力が、入らない。
実戦強襲部隊が確保したから帰還する旨を伝える無線が聞こえる。あー、終わったんだ。
誰かが、駆け寄って来た。
「結愛! 無事か? 今一階からも警察が来ている。助かるぞ!」
「……先輩?」
「あぁ、俺だ」
「あー。先輩、お願い、あるんですけど」
「なんだ。言ってみろ」
「キス、して、欲しいです」
「何回でもしてやる。だから、死ぬな。諦めるな」
「……わかって、いますよ」
「よし」
先輩の顔が、近づいてくる。
あー。悪く、ない。
キュイーンっと、何かが回転する聞き慣れない機械音が、かすかに聞こえた。先輩も、耳を澄ましているのか、近づいてきた顔が止まる。
……なんですか、こんな時に。と思った瞬間。
窓ガラスが連続で割れる音。発砲音が連続で。
「結愛、ここにいろ」
ちらりと、脇に置いたタブレットを確認。志保さん達は無事。画面を切り替える。パーティー会場。窓ガラスが割れ、大きな着弾痕。
「全員、こっちへ。早く!」
史郎先輩が声を張り上げる。
カメラを切り替える。ヘリコプターが、ホテルの周りを旋回している。
下に大きなガトリングガンを搭載、発射している。弾が二発、壁に着弾。
「渋谷さん、この人達を連れて下に避難してください」
「わかった」
そう言った次の瞬間、屋上に続く扉が撃ち抜かれる。
「早く! 走れ!」
「史郎!」
「俺は大丈夫だ……志保、結愛を、連れて行ってくれ」
「わかった!」
朦朧としていた意識が、一気に覚醒した。
「駄目です。私は、まだ、やれます」
志保さんが、凛とした顔をして立っていた。史郎先輩が、心配を隠しきれない顔をしている。
「志保、早く来なさい。萩野さんも」
社長さんの、この状況でも落ち着きを払った声。
「先輩、一人であれをどうにかするつもりですか?」
タブレットを持ち上げる。そこに映っているのは、手に入らないなら壊してしまえと言わんばかりのものだ。
勝ち目が無いと悟った敵の、最後のやけくそ。死なば諸共って奴だ。
ここに来ていた実戦強襲部隊のヘリは、確保した人も乗せているから、一旦本部に戻らなければいけない。
敵の本部制圧に人員を割いているから、こちらに新たに寄こせる人もいない。
状況は、逃げ以外許さない。それでも先輩が戦うというなら。
「私も、一緒にいなければだめでしょう」
「怪我人が何言っているんだ」
「先輩も同じじゃないですか。何ですか、その右肩」
「掠っただけだ」
「……それ、がっつり当たってるよね、史郎」
志保さん、ナイスツッコミ。
「左手使えれば十分だ」
「私、両手使えますよ?」
アドレナリンがドバドバ出てるから、痛みも無くなって来た。
廊下から階段の踊り場に繋がる扉が撃ち抜かれる。猶予は無い。
建屋の天井を撃ち抜こうとしているのか、真上から着弾音が聞こえる。
「……ジリ貧だな。やるぞ。結愛」
「最初からそう言ってくださいよ。先輩」
根負けした先輩に笑いかける。先輩だってわかっている、一人では厳しいと。
さて。仕事だ。
どうするかを考えよう。
ミサイルとかついていないのは不幸中の幸い。
志保さん達を見送り、私たちは顔を見合わせる。
「まずは、あいつらがぶっ放している鉄砲どうにかするぞ」
「了解。……鉄砲という言い方、ダサくないですか?」
「うっせー」
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