第32話 ごめんなさいとありがとう。

 一人で帰って、リビングのソファーで制服から着替えもせず、横になっていた。

 何もする気が起きない。

 まず着替えなければならないし。夕飯を取るべきだと思うし。

 そもそも、そろそろ家の電気を付けなければならないだろう。夜目は利くほうだが、わざわざ暗くして過ごす理由が無い。

 玄関の鍵が開いて、続いて扉が開く音がした。


「史郎君? いるの?」


 足音が、真っ直ぐにこちらに向かってくる。

 リビングの扉が開き、部屋が明るくなる。


「あっ、ちゃんといた」

「どうした?」

「もう、明かりも点けないで」

「あぁ」


 起き上がる。

 奏は今帰って来たみたいだ。帰って来て、着替えもせずその足でここに来たのか。


「どうしたんだよ」

「ん?」

「花音ちゃんと、音葉ちゃんは?」

「大丈夫だよ。あの子たち、自分のことは自分でできるから」

「それなら、良いのだが。あのさ、何があったんだ」

「えっ?」

「いや、あいつに酷いこと、はされたな。痛いこと、されなかったか?」


「されてはないよ。ただ、その、シフト終わって、史郎君でも探そうかなって思ったら、一緒に来てくれって言われて、四階のあの場所まで連れて行かれて、そこで銃、突きつけられて、それから、縛られて……」


「あぁ。悪い、思い出させて」

「……史郎君は?」

「ん?」

「史郎君は、怖くなかったの?」

「怖かったよ」


 正直な気持ちを言った。奏に嘘を吐いたって、バレるから。


「そっか、史郎君も……」

「奏を失うのが、怖かった」

「えっ」

「誰かを失うのが、怖くてな」


 思ったより、自分は怖がりだった。

 任務として、仕事としてではなく、選べた状況に立って、ようやくわかった。


「史郎君は、強いね」

「臆病だよ」

「強いよ。史郎君は。あのね、私、謝りに来た」

「いらないよ。そんなの」


 奏に謝られることなんて、何一つ無いのだから。


「でも私、また、史郎君に」

「夕飯」

「その……えっ?」

「なんか作ってよ」

「えーっと?」

「お腹空いた。俺は着替えてくる」


 無理矢理切り上げる。奏は気にし過ぎる。ちょっと強引にした方が、良い時もあるんだ。

 奏を責める気なんて無い。謝られても困るだけだ。

 着替え終わって戻ると、キッチンからトントントンと音が聞こえる。

 冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して、グラスに注いでキッチンが見える位置に座って。


「謝るべきは俺だ」

「史郎君は助けてくれたよ」

「危険を近くに置きっぱなしにする。そんな選択を、俺はした」

「諦めたくなかった。そうでしょ、史郎君。ギリギリまで、撃たなくて済む方法を探し続けた史郎君だから」


 コンロに火が点く音がする。すぐに、肉の焼ける香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。


「彼の人生を奪わなくて済む選択を探した」

「……明らかに違うけどな。他の犯罪者を容赦なく警察送りにしておいて、霧島だけ、迷うなんて」


 志保の言う通りだ。自分にとって大切なもの以外にはドライ。

 ある意味平等を追求しなければならない仕事なのに。そんなんで。


「向いてないな、本当」

「何に?」

「人を助ける仕事に」


 うちの親は、結愛の両親は、よく大人になってまで、創作物のヒーローみたいなこと、目指せるな。って。

 例えば、女の子と世界を天秤にかけさせられて、でも最後には、どっちも助けてしまう、そんなヒーロー。

 自分がそんなことができてしまう未来なんて、見えない。


「いつになく弱気だね」

「そんなもんだろ、俺は」

「そうかも。長年一緒にいることによる弊害だね。年単位を最近と錯覚してしまう」

「ねーよ」

「無いかー。ほいっ。ご注文の品です」


 お盆に食事を乗せてキッチンから出てくる。

 一人分の夕飯が、テーブルに並んだ。


「ん? 食わねーの」

「あー、私別のところで食べたから」

「珍しいな」


 いつも、妹たち、あと俺の食事の心配をして、外で済ませてくるなんて無かった。

 友達はいても、休日はそんなに出かけるようなことはしてこなかった。

 買い物に俺を連れ出すくらいだ。荷物持ちに。


「でも、あの二人ももう中学生だ。これからそういうこと、増やしても、良いんじゃないか?」

「うん。そうかもね」


 奏は頬杖ついて小さく笑う。


「史郎君のそういうところ好き」

「なんだよ、急に」

「いつも通りにしてくれる。あんなことがあったのに、いつも通りに接してくれる」

「あんなことがあったから、いつも通りが大切なんだよ」

「ごめんね、じゃなかったね。ありがとう、だね」

「そっちの方が嬉しいな」


 話が途切れる。けれど嫌な沈黙じゃない。

 黙々と、食べ進めていく。

 億劫だったはずの夕飯が、今は嬉しい。


「なぁ奏」

「なぁに?」


 食べ終わって、箸を置いて。


「俺はさ、普段から奏に色々してもらってるわけで。だからまぁ、その、なんだ。あれだよ、こんな風に、奏が困った時に助けるくらいしかできないから、だからあんま気にしないで欲しいなと、思うわけでして、えっと……」


「史郎君」

「はい」

「私はね、何かの保険とか、見返りを求めてとか、そういうのでこんな風にしてるわけじゃないと、理解しなさい」

「う、うっす」


 良い感じにまとめて、そろそろ家に帰そうと思ったら、予想外の方向から切り返された。


「忘れた? 私、史郎君があの仕事してるって知る前から、こうしてたよ」

「そう、だったな」

「私にとって、史郎君と一緒にいるのは、自然なことなんだから。メリット、デメリットで考えるなんて、寂しいこと、やめてね」

「すまん」

「良いよ」


 今まで、何回やっただろうか、そんな想定。もし、奏がいなかったらって。

 意味の無い想定かもしれない。だって今確実に今の俺があるのは、奏がいたからなのだから。


「もう一つだけ良い?」

「何?」

「これは、前も言ったことだけどさ。一応、確認。史郎君は、確かに人を一人殺した」

「あぁ」

「でもね、史郎君。助けられた人がいること、忘れないでね。今の私がいるの、史郎君のおかげだから。それを、忘れないでね」


 上を向いた。

 見られたくない俺の、精一杯の抵抗。


「ありがとな」

「? 何が?」

「色々と」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る