第3話 朝の出来事
「その顔。怖い顔。久しぶりに見たかも」
「どれくらいぶりだ」
「史郎君が、あの仕事をしていた頃、もう二年も前かな」
「あぁ」
奏が用意してくれた朝食を食べて、駅までの道。俺の中のスイッチは既に切り替わっている。
まだ慣れていない服装にげんなりした人も。やる気と希望に満ち溢れた顔をしている人も、みんな警戒対象だ。
春の、温かいながらも、丁度良い気温の中を、歩いていく。
駅に入っていく人波の向こう、タイミングよく志保が見えた。
あちらもどうしてか気づいたようで、クルっと振り返る。目が合った。志保は俺たちを待つようにその場に止まった。
「おはよう。史郎。それと……久遠さん? だよね」
「そうだよ。おはよう、朝倉さん。挨拶まだだったね。よろしくね」
「そう。凄いイメチェンね。よろしく」
奏の視線が鋭い。志保は気づいているのか気づいていないのか。澄ました様子を崩さない。
志保の、余所行き用の顔。あまり人に関わられないようにするための顔。
「それじゃ。行こう、史郎君」
「お、おい。奏」
手を引かれ歩き出す。
振り返ると、奏が振り返らないと踏んだのか、志保は、気にした様子もなく、ニコニコと手を振っていた。
改札をつんのめるように、どうにか通って階段を下りていく。
「奏!」
「何?」
予想したよりも冷えた声が聞こえた。心臓が縮むのを感じる。
こんな変な光景も、朝の混雑に慣れた人たちは、ちらりと見るだけで、特に気にせずに歩いていく。
それでも、嫌な目立ち方は、しただろうな。ミスったな。
とりあえず落ち着かせよう。
「どうしたんだよ。何を怒っているんだ」
「……史郎君に怒っているわけじゃないもん」
「じゃあ、何に?」
「……わかんない」
「えぇ……」
「わかんないもん」
本気で困ったのか、かつてあった三つ編みをいじろうと伸びた手が空振る。
「……ごめん」
「謝るべき相手が違うと思う」
「そうだね。うん。謝って来るね」
「あ、あぁ。おい」
志保のところに走っていく奏を見送る。
律儀なところは良いところではあるが、人混みで走るな、危ないぞと言いたかった。
ため息を一つ。ちらりと後ろに目を向ける。
「……いるんだろ」
「気づいてましたか」
「あぁ」
「流石ですね。しかし、複雑そうですね。調べてはいましたけど、目の当たりにすると、なかなか複雑な関係だと実感させられます」
「俺と話していて良いのか?」
「今は大丈夫ですね」
「そうか」
灰色のパーカーのフードを深く被り、イヤホンをちらつかせて結愛は小さく笑みを作った。
大方、志保の鞄にでも仕込んだ盗聴器に繋がっているのだろう。
一応、よく見れば志保も奏も見つけることはできる。
朝倉志保。
彼女の両親の話は聞いたことが無かった。
まさか、大企業のご令嬢とは。
身代金目当ての誘拐で狙われてる、ねぇ。
そのまま結愛と電車に乗る。奏と志保は隣の車両にいるようだ。
朝は混むとは聞いていたが、ここまでとは。
「おっと」
電車の揺れに合わせて少し押される。咄嗟に扉に手をついて、結愛の分の空間を確保する。
「先輩?……ありがとう、ございます」
フードがずれて見える結愛の顔。男の俺でも羨ましくなるくらいに綺麗な肌。
澄んだ瞳が真っ直ぐに向けられる。別に動揺しない。任務の中で、これくらい近づいた経験が無かったわけでは無いのだ。
「あの、大丈夫ですか」
「余裕」
扉に体を預けた結愛は、イヤホンを耳に押し当てて隣の車両を見る。
ホームにそろそろ入るようで、減速していく、あちこちで人が降りる準備を始め、結愛も扉の方に向き直る。
電車を降りると、すぐに奏が駆け寄ってきた。それに合わせて、結愛は人混みに紛れる。
「志保は?」
「先に行くって」
頭を掻く。
いや。結愛がいるんだ。大丈夫だと思いたい。
「その、うん。私が変な態度取ったから、仕方ないよね」
「気にし過ぎるのは良くない。大丈夫だ。保証する」
そもそも、志保は怒っていない。欠片も気にしていない。そういう人だ。
ただ、志保の素とも言える姿を本人の許可なく広めるのは気が引ける。黙っておこう。
それよりも、どうしても、無事な姿を自分の目で見ないと安心できない。悪い癖だとは思う。でも。
前に行こうとする足。気まずさを感じる心。引っ張り合う。
違う。危機が迫ってる人がいるんだ。行かなきゃ。
気がつけば速足になっている俺に、奏はやれやれといった感じで、一歩後ろを歩いた。
「……ん?」
なんか幸せそうにパン屋から出てくる志保が見えた。
「……史郎に、久遠さん」
「お、おう」
気まずそうに顔を逸らす。恐らく、遭遇してはいけないタイミングに、奏を連れてきてしまった。
「朝倉さん、もしかして、先に行くって言ったのって」
「うっ……朝ご飯、まだだったのよ」
おやつ用、後はお昼用だろうな。
「二人も、どう?」
「あ、ありがとう」
紙袋から取り出されたのはカレーパンとクリームパン。奏が戸惑いながらもクリームパンを受け取る。俺はカレーパン。
一口だけ食べる。あぁ、美味いな。確かに。
「気に入ってくれたようで良かった」
志保はにこりともせずに言った。
歩きながら食べる。
プロの動きとか、こちらを狙う動きとか、そういうものは見えないし、感じないが、二年というブランクはそれなりに大きいものだ。信用しきれない。
学校までの徒歩十分程度の道のりが、やけに長く感じた。
昇降口に入って、無意識のうちにため息を吐いた。
「ため息とは幸先が悪いわね。史郎」
奏に気づかれないように向けられた笑顔は、付き合っていた頃と変わらない、心が嬉しそうに跳ねてしまう、そんな笑顔。
人見知りの志保にこの顔を向けられるようになった時、俺はこの笑顔を守りたい、そんなことを思った。
「? これは……?」
志保が下駄箱から取り出した白い封筒。脅迫状? 封筒の口に毒物? 頭の中を色々な可能性が巡り、精査している間に、志保は封筒を開きにかかる。
「えっ、ここで開ける? 普通」
奏のツッコミはもっともなものだが、俺も内容は気になる。
字を目で追っているのがわかる。
「……恋文の類ね」
「えっ、言っちゃうの、それ」
奏の指摘は頷けるものではあるが、内容を把握できたのはありがたい。
「体育館裏、ね」
「行くの?」
「無視する。入学して今日からようやく授業って日。そんな日にラブレター。人間性も把握できていないうちに送るものとは思えない」
志保は、鞄に手紙を入れてさっさと歩きだしてしまう。
少しだけ、安堵した自分がいることに気づいた。
志保は見た目綺麗で美人だから、来てもおかしくはない、とは思うけど。
その志保が無視すると判断した理由は、とても真っ当だろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます