第22話 大会初戦
純が年に数回しかない学校も部活も休みの日に、同級生と駅前を歩いている時だった。踏切の辺りを、サッカー部二年の先輩、酒井が彼女を連れて、歩いているのが見えた。
酒井は純のことを、他の二年の先輩と一緒にいつも気軽にバカにしてくる奴だった。純は、そんな酒井を遠くから睨みつけるように見つめた。堪らない怒りと屈辱感が純の中に湧き上がる。だが、酒井はそんな純に気づくこともなく、彼女とそのまま楽しそうに婦踏切を越え、どこかへ行ってしまった。
「・・・」
酒井が普通にかわいい彼女と楽しそうにしている残像に、純は堪らない憎しみを覚えた。
ついに日明たちの住むこの田舎町でも、秋の全国高校サッカー選手権大会の県予選が始まった。サッカーをやっている高校生なら誰しもが憧れる、全国への道だった。
初戦は、藤沢高校。名前が書ければ誰でも入れるという噂の、いわゆるヤンキー高校。サッカー部は素人レベルだった。当然、東岡第三ならわけなく勝てる相手だった。通常なら二軍でも三軍でもかんたんに勝てる相手。
だが、試合が始まり、東岡第三はどうしたわけか出だしでいきなり躓く。通常なら当たり前に出来ることが出来ない。ボールがうまく回らないどころか、さらにボールをかんたん奪われ、藤沢にあわやというシュートまで打たれてしまった。通常ならシュートを打たせることすらない相手だ。選手たちはそのことにショックを受け、そのことがさらに選手たちを萎縮させる。
一度ちぐはぐに回り始めた歯車は狂いが狂いを生んでいく。何をやっても、それがパスミスや連係ミスに繋がっていく。やることなすことすべてが裏目裏目になっていってしまう。
ここからは負けたら終わり。一発勝負の日々だ。どんな相手にも取りこぼしは許されない。そのことが東岡第三の選手たちを知らず知らずのうちに萎縮させていた。
そんな東岡第三は、時間が経っても攻めあぐねる。なんとか体勢を立て直し、本来の力を発揮して完全なワンサイドゲームまでもっていき、相手ゴール前でシュートの雨あられとボコボコに攻めるのだが、なぜか点だけが入らない。やはり一度狂った歯車はなかなか元に戻らない。
こういう時、監督やコーチが、選手のメンタルを気遣い、巧みな言葉やユーモアでコントロールしたりするものだが、そんなことをする、そんなことのできる楢井ではない。いつものように、その大きく突き出たビールっ腹を抱え、ベンチに偉そうにふんぞり返って試合を見ているだけだった。それに東岡第三にコーチはいない。完全な楢井の独裁だった。
「何やってんだよ」
ベンチでくすぶる日明は、藤沢相手にふがいない先輩たちに苛立っていた。この日、以前楢井に意見をし、怒りを買っていた日明は、まだ試合に使ってもらえないでいた。
「普段威張ってる癖に、肝心なとこではヘタレなんだよな。まったく」
日明は毒づく。
「おいっ、聞こえるぞ」
隣りの隆史が、小声で注意する。すぐ近くには他の先輩連中も座っている。
「聞こえるように言ってんだよ」
日明は全然動じない。さらに声を大きくしてまで言う。
「クソッ、何やってんだよ」
日明は足を小刻みにゆすり、苛立ちをあらわにする。
結局、そのまま藤沢相手に、前半無得点で終わってしまった。ベンチに戻ってきた選手たちの間に、なんとも嫌な空気が流れる。普段なら十対0でも勝てる相手だった。
「お前ら何やってんだ」
ハーフタイム、楢井が怒鳴る。ただでさえ緊張し萎縮している選手をさらに萎縮させる愚を平気で侵す楢井だった。それをベンチから日明が睨みつけるように見ている。チームの空気は最悪だった。
後半が始まり十五分が経っても、東岡第三は点が取れない。蟻の群れのようにゴール前に群がる相手選手にシュートコースがふさがれ、シュートを打っても打っても、はじき返され点が入らない。さらに、ここまで格上の東岡第三を無失点に押さえているという自信が、藤沢の選手たちを乗せてしまっている。東岡第三の攻撃は完全に行き詰っていた。 楢井も落ち着いてふんぞり返っていられなくなった。
「日明っ」
後半二十分を過ぎて、堪らず楢井がついに日明を呼んだ。やはり、楢井は日明を使った。
ついにピッチに日明が入った。そして、すぐにその日明の下にボールが回って来た。日明はピッチに入って、そのファーストタッチでいきなりペナルティエリアの外から、思いっきりシュートを放った。それは入りこそしなかったが、密集する相手選手の群れの間をすり抜け、ゴールポスト下を掠めていく。あわやという弾道だった。観衆からは「おーっ」という声が漏れる。
流れは悪い。だが、そんなことを、まったく日明は意に介さない。日明の辞書には緊張とかプレッシャーとかいう文字はなかった。日明の中には自信と確信しかなかった。自分がやれるという。
それは、日明が入ってまだ数分も経っていない、ピッチに入ってからまだ三回目のボールタッチの時だった。右サイドでボールを受けた日明は、そのままドリブルを始め、相手選手の密集するゴール前に単独で切り込んで行く。ペナルティエリア内は、ドリブルのできる密度ではなかった。誰もが無謀だと思った。相手選手たちはドン引きし、ゴール前を徹底的に固めている。しかし、日明はまったく怯むことなくそのまま行く。誰もがすぐにボールをひっかけられ、ボールを奪われるに違いないと思った。しかし、日明はスルスルとボールと共にその密集を縫って行ってしまう。ありえないボールさばきと、タッチ、動き、リズムだった。
「おーっ」
今まで動きのない試合で、退屈そうに試合を見ていた周囲の部員や観衆が前のめりに腰を浮かせる。
日明はそのまま一人で密集の中を突き進んで行く。日明の不思議なリズムのドリブルに、相手選手は足を出せそうで出せない。ボールに触れそうで触れない。取れそうで取れない。相手選手たちは戸惑い動揺する。そして、密集していることが逆に選手たちの動きに制限を与えてしまう。そんな相手選手たちの動きの間隙を突き、日明はそのまま、あれよあれよという間に、ペナルティエリア中央に向かって切り込んでいってしまう。
「行くぞ」
誰かが声を上げた。確かにそのままシュートまで行ってしまいそうだった。日明は何人抜いただろうか。人がいる分、一人一人が力を抜き、油断していたこともあるだろう、相手はほぼ素人に近いレベルだったこともあるだろう、しかし、ありえない数の人数を日明は、密集の中で、細かいタッチとリズムと動きで抜き去り、置き去りにしていた。
だが、そうは言ってもペナルティエリアに密集する相手選手たちはまだまだいた。とても、シュートを打てる状況になかった。
しかし、日明がペナルティエリア中央まで来た時だった。相手選手たちの戸惑いとちょっとした連係ミスで、ほんの一瞬、ゴールまでの隙間と時間が出来た。それは本当に一瞬の隙だった。それは日明の鋭い感覚でしか知覚出来ないレベルのものだったかもしれない。日明はそれを見逃さなかった。日明はさすがにここまで密集の中を無理矢理にドリブルしてきて体勢を崩していたが、だが、その状態ながらも、その一瞬の隙を逃さずに、すかさず足を振り上げずに今できる唯一のキック、トゥキックでシュートを放った。
「・・・」
ディフェンダーの股を抜き、意外なリズムとタイミングに相手のゴールキーパーは動くことも出来なかった。ボールは力なくではあったが、ゴールに入っていた。相手選手だけでなく味方の選手、ベンチ、観衆全員が時が止まったみたいに、茫然とそのゴールの中に転がるボールを見つめていた。
「おおーっ」
そして、遅れて、観衆からどよめきに似た歓声が上がる。それは今目の前で起こった信じられない光景を、遅れて徐々に現実として認識すると同時に、大きくなっていった。
「うをぉ~」
日明が、ベンチに向かって、おどけるように大げさに両手を大きく突き上げるように上げた。普段、日明に対してあまりいい顔をしていない先輩や楢井も、これにはもう感嘆するしかない。
「おおおっ」
他の部員や観衆も、興奮し、拳を突き出して声を上げる。
日明一人が、敵の大群の中を一騎で切り裂き駆け抜ける戦国時代の豪傑のように、試合全体の悪い流れをたった一人で切り裂いた。
この一点で十分だった。そこからはもう、何かの憑き物が落ちたみたいに一気に東岡第三の一方的な展開になっていった。いままでの不調が嘘のように次々ゴールが入る。相手も二点、三点と決められるうちに、今まで張り詰めていた気持ちもやる気も切れてしまった。もともとヤンキー高校。その辺のやる気の切れるのも早かった。そこからはもう堰を切ったように、東岡第三のゴールの入れたい放題になった。
終わってみれば、試合は九対〇という、圧倒的完勝だった。
あらためて日明の存在のすごさを見せつける試合になった。日明を日頃から生意気と思っている先輩たちも日明を認めざる負えなかった。そして、楢井も・・。
「俺を使うのは当然として、なんでお前を使わねぇんだよ。あいつは」
だが、その日の帰り道。日明はイラついていた。
「相手は弱ええんだからさ。育てるって意味でも隆史使えよな。ほんとあいつは使えねぇな」
日明は不満を隣りの隆史にぶちまける。
「まあ、なんか考えがあったんじゃねぇのか」
「ねえよ、あいつにそんな殊勝な考えがある訳ねぇだろ」
「そうか。はははっ」
それは隆史も思って笑った。
「ていうか、あいつが一番要らねぇんだよ」
日明は怒りをあらわにする。
「こんなんで全国行けんのかよ。あんな藤沢相手にてこずって・・」
日明は日明なりに、サッカー部のことを憂い、考えていた。それが苛立ちとなって口に出る。やはり日明にとって全国高校サッカー選手権大会は特別な大会だった。
「・・・」
隆史もそれが分かっていた。だから、何も言わず黙って日明の話を隣りで聞いた。
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