第2話 屋上にて

 練習終わりの軽めのジョギングを、総勢七十人程の部員が、話を弾ませながら走っていく。厳しい練習から解放された、この時間はみんな妙に気分が高揚し、陽気で明るい。

 そんな中、同じようにみんなと走っていた純のところに、百瀬が背後から近寄ってきた。

「小倉」

 純が振り向く。百瀬はそのまま純に並ぶように走った。

「先輩がもっとまじめに走れってさ」

 百瀬は、視線を地面に落としながら、言い難そうに純に言った。

「・・・」

 純が百瀬を見る。百瀬も、純が言いたいことを全て分っているといった申し訳なさそうな目で純を見返す。

 純は一つ小さなため息をついた。純にはその意味が分かっていた。決して自分が他の部員より怠けているわけではない。いやむしろ、他の部員よりも一生懸命がんばっている自負はあった。それに今は、練習の終わった後の軽いジョギング。それは理不尽な話だった。

「・・・」

 純は黙って、そのまま走り続けた。部活終わりの薄闇が、その見た目以上に濃く、世界を覆っていた。


「やっぱここか」

 休み時間、教室を覗いても、トイレを覗いてもいない日明を探し、隆史は学校の屋上の扉を開けた。隆史の予想通り、日明はその一角で大の字で豪快に昼寝をしていた。

「おう」

 隆史が近寄ると日明が薄目を開け、眠そうに隆史を見上げた。

「また、さぼりか」

 隆史が日明を見下ろす。

「休息だね」

「それをさぼりって言うんだよ」

「もう、めっちゃ眠みいんだよ」

 日明はだるそうに上体を起こすと、両腕を大きく伸ばし、大きなあくびをした。

「こんな日に、あんな狭い暗い部屋でじっとなんかしてられっかよ」

 この日は天気も良く、穏やかな陽気だった。

「おいっ、タバコはやめろよ」

 日明の脇に、吸い殻が何本か転がっているのを見つけ、隆史がきつく言った。

「大丈夫だよ」

「いくらお前が頑丈だからって、そんなことしてるといつか体壊れるぞ。体のケアは若いうちからだな」

「大丈夫だよ。もう、お前は一々真面目なんだよ。そこがお前の悪いところだ」

 日明はうっとうしそうに、眉間に皺を寄せる。

「いや、いいとこだろ。というか・・」

「お前は心配し過ぎなんだよ。そんなんじゃ長生きしないよ」

「それにお前特待生だろ、問題起こしたら、即退学だぞ」

「大丈夫だよ。それは並の特待生の話だろ。俺は特別な特待生なんだよ」

「お前のその自信は一体どこから出て来るんだよ」

 隆史は呆れる。まあ、最初から言って分かる人間ではないとは分かっているのだが、隆史はそれでもいつも日明に小言を言ってしまう。だが、その横で、早速日明は新たな煙草に火をつけている。

「寝覚めの一服。これがうまいんだ」

 眉間にしわを寄せる隆史に、日明は上手そうに煙を吐くと、笑顔で言った。

「ほらっ」

 さすがに諦めた隆史が、カバンから一本のビデオテープを取り出し、日明に差し出した。

「おっ、AVか」

「バカっ。ダイヤモンドサッカーだよ。録画しといてやったぞ」

「おおっ、サンキュー」

 日明は目を輝かせ、すぐに手を伸ばし、隆史の差し出したビデオテープを受け取った。

「ドルトムントとブレーメン」

 隆史が言う。

「前半?」

「ああ」

「後半は来週か」

「ああ」

 隆史は、返事を返しながら日明の隣りに座った。この当時、日本で海外のサッカーを見ることは、かなり難しいことだった。週に一回深夜にやっている、ダイヤモンドサッカーはその中でも貴重な番組だった。今では信じられないが、海外のプロリーグの試合を、一週一時間、前半と後半に分けて放送していた。

 その時、校舎の北側の野球場からカキーンという金属バットでボールを打つ音が響いた。

「まったく、また野球だぜ」

 日明は途端に眉間に皺を寄せた。

「あんなもんのどこが面白いんだか、まったく訳分かんねぇよ」

 日明はタバコを吸いながら悪態をつく。

「ボールを木の棒で打ったからなんなんだよ。まったく」

 日明は、屋上から見える野球場を見下ろす。そこでは、体育の授業で野球が行われていた。

「日本は終わってんな。野球、野球、野球、野球ばっか。野球だらけ。テレビ見ても野球。新聞見ても野球。ラジオつけても野球。漫画も野球。アニメも野球。部活も野球。めざせ甲子園って。知らねぇよ。甲子園ってどこだよ」

「兵庫県だな」

 隆史が笑いながら言った。

「知らねぇよ。どこの国だよ」

「はははっ、日本だよ」

「勝手にその筋の人たちだけで目指してろよ。知らねぇよ。まったく。ほんと嫌になんぜ。日本は」

「まあ、確かにな。この国じゃ、野球以外のスポーツなんてほとんど影が薄いからな」

「影が薄いどころじゃねぇよ。無いに等しいぜ。海外じゃ。サッカーはめっちゃくちゃメジャーで人気なのに」

「まあな」

「日本は遅れてる。滅茶苦茶遅れてるよ。まったく」

 日明は、再び横になって曲げたひじの上に頭を乗せ、タバコを吸う。

「昔、小学生の時さ、少年野球に駆り出されてさ」

 日明が不機嫌そうにぼそりと言った。

「そんなことがあったのか」

 隆史が驚く。

「ああ、俺の運動神経見て、何とか野球チームに入れようとしたんだ。親父の知り合いでさ、断り切れなくて一回だけ試合に行ったんだよ。そしたらさ、ピッチャーとキャッチャーの二人が監督とヘッドコーチの息子。しかも二人が交代でピッチャーとキャッチャーやってんだぜ」

「はははっ、露骨だな」

「まったく嫌んなるぜ。露骨過ぎるだろ」

「強かったのか」

「強かったけどさ。でも、田舎の少年野球だぜ。他のチームなんてみんな寄せ集めのお遊びみたいなチームなのに、コーチが甲子園行ったとかなんとかいう人でさ、そこのチームだけ大人が本気で指導しちゃっててさ。そりゃ強いんだろって」

「はははっ、なるほど。それでどうしたんだよ」

「確かホームラン何本か打って、それっきりだよ。絶対入れってうるさかったけどな。ぜってぇやだよあんなの」

「はははっ」

 心底、嫌そうに顔をゆがめる日明に、隆史は笑った。

「俺の黒歴史だよ。あんな訳の分からんぶっとい木の棒なんか握っちまった自分が憎いよ」

「はははっ」

「まったくよぉ、なんだよ、あの野球のユニーホーム。真夏に重ね着だぜ。しかもスポーツでベルトだぜ、あぶねぇだろ金属。しかもなんで靴下二重履きなんだよ。しかも、上の奴なんて、かかととつま先ねぇんだぜ。意味分かんねぇよ。なんだよ。あれ」

「はははっ、確かに、そう言えばそうだな。あれなんなんだろうな。はははっ」

 隆史は笑った。

「ユニホーム着るだけでめっちゃ時間かかるしよぉ。もう、やる前から嫌んなるぜ。まったく何もかもクソだよ。野球なんて」

「俺も野球はあんま好きじゃないけどな」

「ああ?あんまり?」

 日明は顔を上げ、隆史を睨みつけるように見た。

「ほんと嫌いなんだな。お前」

「ああ、考えるだけで虫唾が走るよ。蕁麻疹出るぜ」

 日明は全身を掻きむしる仕草をした。

「はははっ、そこまでか」

「俺はぜってぇ。海外行くぜ」

 隆史が日明を見る。

「あっ?」

 突然、突拍子もないことを言い出す日明を隆史は驚いて見返す。

「俺は、こんな野球バカばっかの日本を出て、海外でサッカーのプロになる」

「夢がでかいな」

 隆史はそんな日明を見て笑った。

「俺はマジだぜ」

 日明は笑う隆史を鋭く睨む。

「ははははっ、分かった。分かった」

「ぜってぇなるぜ。俺は」

 日明は子どもみたいにムキになって言った。

「分かったよ」

「ほんとだぜ」

「ああ、分かった。分かった」

 笑う隆史だったが、もしかしたらこいつなら本当になれるかもしれないなと、心の中ではふと思った。

「マジだからな」

「ああ、分かったよ。はははっ」

 でも、子どもっぽい日明のその物言いに隆史はつい笑ってしまうのだった。

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