第一章7 『黒影の爪②』
テスイアの街の中心にある、大きな大きな建物、フェアリス公爵邸のとある一室。椅子に座った少女の真っ白な美しい髪を梳かしているメイド服を着た使用人と、椅子に座って本を読む一人の少女がいた。
「くしゅっ!」
「お嬢様、どう致しましたか?」
「……なんでもないわ」
少女はなんでか小さくくしゃみをするが、特に気にすることもなく読書を再開する。静寂の中、ゆったりとした時間が流れ、かちかちと時計の針が進む音が妙に大きく感じる。
「お嬢様、終わりました。如何でしょう?」
「えぇ、大丈夫よ。いつもありがとう、ミーシャ」
少女は自らの髪をさらっと払いながら、ミーシャと呼ばれた使用人に感謝の言葉を伝える。少女が立ち上がり、部屋から出ようとドアの方へ歩いていく。
脚や腕の美しい白い肌についた細かな傷を見て、ミーシャは少し悲しそうな表情でその少女に声をかける。
「お嬢様……」
「ん?どうしたの?」
声をかけられた少女は、ミーシャの方をパッと振り向く。
「なによ。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
「い、いえ、その……。やっぱり、私はお嬢様が軍に入ると言うのは反対です……。それも、特殊防衛軍なんて……」
ミーシャは自分の意見を言いづらいのか、口籠もりながらなんとか自分の気持ちを口にする。
「なに?私じゃ力不足だって言いたいの?特殊防衛軍なんて入れないって」
そんなミーシャの言葉と、萎縮する様子を見て、少女は赤い目を細め、不機嫌そうにそう言う。
王国軍特殊防衛軍。それは、王国軍の中でも選りすぐりの精鋭達が集う軍隊。平時は訓練と共に冒険者活動をしながら、戦争などの有事の際には遊撃部隊として戦場を駆け回る、いわば王国軍の花形。
給与も地位も他の軍の兵士とは一線を画し、貴族と同等に扱われたり、叙爵されることも少なくない。
「ち、違います!そうではなくて、いくらお嬢様のように才能があるとは言え、やはり危険では……」
「危険でもやるしかないのよ。貴族の娘なんてそんなもん。家を継げない以上、政略結婚するか、軍に入って地位を確立するか。私は政略結婚なんてごめんだし、幸い戦闘の才能はあるもの。軍に行く以外の選択肢はないわ」
少女はどこか諦めたような表情でそう言った。貴族の娘は政略結婚の駒として使われるのが普通だが、この少女の卓越した才能により、軍に行くことが許されたのだという。
「ですが、やはり冒険者は危険です!……私は、お嬢様が傷付くのを見たくありません……」
しゅんとした表情で、自らの心情を吐露するミーシャ。
「……はぁ。ミーシャ、こっちに来なさい」
「……?」
ミーシャは、言われたようにトコトコと少女の方へ歩いていく。少女の正面まで来て立ち止まると、少女は両手を上げ、ミーシャの頬を―――
「ふぇ」
ぷに、とつまみ、そのままぷにぷにと触り続ける。
「いい?ミーシャ。前にも言ったけど、特殊防衛軍に入るには、冒険者として腕を磨いておく必要があるの。それに、組織を重視する他の軍隊と違って、特殊防衛軍は個の力を重視してる。個の力を伸ばすには冒険者がぴったりなのよ」
「で、でひゅが、やはひひへんしゅぎまひゅ」
頬をつままれ、思うように喋ることができないミーシャ。それでも少女には『ですが、やはり危険すぎます』と言ったという事は伝わったようだ。
「大丈夫よ、こうしていつもミーシャに癒してもらってるもの。疲れなんて吹っ飛んでっちゃうわ。だから、ミーシャ。あんたが応援してくれる限り私は死なないわ。私も怪我しないように気をつけるから、心配しないでちょうだい」
そう言い終わると、少女はパッとミーシャの頬から手を離す。ミーシャは自分の頬をさすりながら口を開く。
「その言い方はずるいです……。分かりました、私もお嬢様のことを改めて応援させて頂きます。ですが、ご主人様とのお約束は守ってくださいね」
「守ってるわよ。『実力より一つ下のランクに留まること』。全く、お父様もお父様で過保護すぎるのよ。あんたと同じね」
「うぅ……」
ミーシャには、お嬢様が綺麗すぎるからです、とは恥ずかしくて言えなかった。
「……あ、昼間のあいつ、どうなってるのかしら」
ふと、少女は思い出す。門の外で剣の素振りをしていた時のことを。あの時あの場所に放置してきた少年のことを。いつもならば夕方、日が暮れる頃、屋敷の窓から見える公園でトレーニングをしている少年を。
「今日は公園に来てなかったみたいだけど、まだ門の外にいるのかしら……。大丈夫かな……」
多少の罪悪感は抱いているのか、少女はぽつりと心配の言葉を口にする。
「……って言うかあいつ、生意気だわ。ムカツク、私を誰だと思ってるのよ」
少女は再びドアの方へ歩みを進め、歩きながら呟く。その呟きにミーシャが反応し、言葉を返す。
「フェアリス公爵家次女、エルシア・フェアリス様です」
「違うわ、そっちじゃなくて」
「……?」
ミーシャは少し考えてから、その少女、エルシアの言いたい事に「あっ」と言って気がつき、こう言った。
「初日にレートAのモンスターを討伐し、たった一日でBランクまで駆け上がった超新星。"白雪姫"エルシア・フェアリス様です」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「―――うぉ!クソ!邪魔くせぇ!」
アルカは下からのウングィスの攻撃を、横に大きく飛んで回避すると、怒りの言葉を口にする。月明かりが、アルカの背中を淡く照らす。
ウングィスの核が地中にあると踏んだアルカは、とにかく穴を掘り続けていた。周囲がデコボコして動きづらくなるくらいには地面を掘ったはずなのだが、いかんせんウングィスの攻撃を回避しなければいけないため、一箇所にとどまれず深い穴が掘れない。穴というよりも、凹みといった方が近い。
唯一の良い点といえば、夜目が慣れてきたという事だろうか。アルカは初めよりも明らかにはっきりとウングィスの姿を捉えられるようになり、攻撃もかする程度しかくらっていない。
「あー、痛ぇ……」
しかしながら、初めに食らった二発の攻撃によるダメージは、徐々にアルカの体力を蝕んでいく。右腹部からは激しい出血と、熱さにも似た痛み。左腕からは動くたびに刺されるような鋭い痛みが突き刺さる。
「つーか、本当に地中にあんのか?まさか馬鹿みたいに掘ってただけってことは……」
あり得る。
地中にあると考えたのも、先ほどまでのイモガエル探しに引っ張られた為であり、アルカは真実を知らない。アルカが一番可能性が高いと思っただけの、あくまでも予測なのである。
「クソ」
学のないアルカが、精一杯の知識と経験を活かして辿り着いた予測。しかしそれは、今回に限っては凶だったと言わざるを得ない。地中にあるという予測は立てられたとは言え、襲われながら地面を掘れるはずなどないのだが、アルカはそこまで考えることが出来なかった。
地中にあるという予測を立てて満足し、どう実行するかに頭を使わず、がむしゃらに掘り続けた。結果、出血で減っていく体力をさらに消耗するだけになってしまった。慣れないことはするものではない。
「どうすっかなぁ」
核を壊せばモンスターは死ぬ。だがそれは、核さえあれば生きられるということではない。勿論、核以外の身体に致死ダメージを与えることが出来れば、モンスターとて死んでいく。
しかしアルカは、ウングィスの身体が捉えられないため反撃が不可能と考え、核を探すことばかり考えていた。反撃しようとした時には既に攻撃される寸前、こちらから攻撃しようにも闇に紛れてどこにいるのかさえ分からない。
「あーもう、面倒くせぇ。使いたくねぇけど仕方ねぇ」
ならば。
アルカが取る行動は一つに限られた。
「さっさと出てこいクソモンスター!てめぇの攻撃と俺の攻撃、どっちが耐えられるか、我慢勝負しようぜ!」
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
命をかけて、捨て身の覚悟を持って敵に向かい合い、この窮地を脱しようということ。肉を切らせて骨を断つ、まさにそれを実践しようとしているのだ。
核を見つけることは諦めた。夜目に慣れたとは言え、こちらから攻撃するのも不可能。反撃しようにも先に敵の攻撃を食らってしまう。ならば、敵の攻撃を耐えてから攻撃してやれば良いのだ。
恐怖を感じないアルカにはお誂え向きの作戦。加えて既に、痛みの感覚は麻痺している。脳内麻薬がドバドバと流れ出し、アルカの痛みを興奮へ変える。もはやもう一撃喰らったところで大した痛みは感じないだろう。
無論、この脳筋作戦には沢山の穴がある。最も大きな問題点は三つ。
今までの流れから言えば、ウングィスの攻撃をくらえば間違いなくアルカは吹き飛ぶ。吹き飛ばされて仕舞えば、殴ることも蹴ることもできない。
それに、次の一撃で意識を失って仕舞えば反撃どころではない。意識を失うどころか、即死する可能性すらある。
この二つを奇跡的に乗り越えた先にある、最大の問題点。ウングィスを一撃で仕留めなければならない、ということ。
「一撃で」
それらを瞬時に理解したアルカは、だからこそ、自らの言葉で自らを奮い立たせる。
「―――ぶっ殺すッ!」
アルカは脚を前後に広げるスタンスを取り、右手を正面に突き出す。動かすことのできない左腕がぶらぶらと力なく揺れる。
一撃で、この技で決める。その静かな気迫が空気を震わせ、地面の小石や砂がかたかたと踊り始める。
どこからウングィスが現れるか分からない。周囲は未だ闇に包まれている。敵は、どこからでも現れ得る。
だがアルカは、右手を正面に構え、視線はその先に固定し、動かそうともしない。
根拠はない。確信もしていない。ただ、アルカの勘が、本能が、敵は正面に現れると訴えかけていた。
背後に現れたらどうしよう、だとか、そんな不安は不思議と無かった。ただ考えていなかっただけかも知れないが、アルカは確かに、正面の一点に集中している。
「スゥゥゥゥゥ…………」
アルカは静かに、全身から無駄な力みを排除し、体内の空気を外へ押し出す。静寂さが支配する暗闇の中で、その吐息の音もまた、静寂に呑まれていく。
右手も、視線も、全てを正面に集中させているアルカ。もし、背後にでも現れて仕舞えば、アルカとてどうすることもできない。正面に出てくることを祈るしかない。
奇跡というものは、気紛れに人間の元へ現れ、気紛れに立ち去っていく。人間は、奇跡がいつやってくるのかも分からなければ、自分で起こすことなど尚更出来るはずがない。奇跡を願うほどやって来ないし、願ってもない時に奇跡が起こったりする。
だが、現実は得てしてうまくいかないものだ。願った通りに現実が進むのならば、今頃アルカは最強になっているはずなのだ。現実はいつも、アルカに牙を剥き、惨憺たる結末を運んでくるのだ。都合の良い現実など、起こり得ない。起こるはずがない。
だから―――。
「―――ぶっ殺す」
奇跡は、気紛れにアルカの正面に現れた。
事実は小説よりも奇なり。
時に、神という存在が意図的に起こしたのではないかと思いたくなるような、そんな奇跡が人の身には起こり得る。
アルカの背中に降り注ぐ淡い月光が、奇跡をもたらしたのだ。
アルカの瞳が、はっきりと敵の存在を捉える。黒い影、闇で出来た身体。その身体の構造がどうなっているのかも気になるところだが、今は敵が目の前にいる、アルカにとってはその事実が全て。
何かが迫り来る時、人間の脳は限界を超えて高速回転し、コマ送りのような映像になったり、スローモーションに見えたりする。アルカもまた、徐々に迫り来る黒い爪を、ハッキリと視界に映す。
ウングィスが現れ、攻撃態勢に移る一連の動作は、アルカの認識の内側にはあったが、アルカの反応できる範囲の外側だった。
だから、事前に迎撃態勢を整え、奇跡のように正面に敵が現れたにもかかわらず、ウングィスが攻撃態勢に入った時、ようやくアルカの身体は動き出す。
極限の集中力。不要な感覚は一切を排除し、音も、匂いも、痛みも、もはやアルカは感じない。
前に出している右足を捻るようにして更に踏み込む。予備動作もなく踏み込んだにも関わらず、地面がずん、という音を立てて揺れる。
それによって生まれた、地面からの反発力を、足の指先、足首、膝から骨盤へと無駄なく伝達。そのエネルギーと共に、体の中を流れるウリルもまた、伝達していく。
迫り来る黒い爪を無理やり意識の外へ排除して、骨盤から背骨へ、背骨から鎖骨へ、さらにその先の肩甲骨へとエネルギーを伝える。無駄な力みが取れ、弛緩した身体を、エネルギーだけが効率よく伝わっていく。
迫り来る黒い爪が、アルカの身体に触れるまで、もう拳ひとつ分の距離もない。
だが、何も問題ない。アルカは肩甲骨へと流したそのエネルギーとウリルを肩へと伝える。筋肉は弛緩したまま、肩に集中する莫大なエネルギーを、腕を螺旋状に回転させながら、肘から手首、掌へと導く。
アルカの身体に黒い爪が触れ、アルカの掌がウングィスの身体に触れたその瞬間。
アルカは放つ。敵を一撃で屠る必殺技を―――。
「―――
まるで螺旋状に回転する太い矢のように、紅く輝く稲妻が放たれ、雷光が闇を呑み込んだ。
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