第一章2 『無翼のオラシオン②』


 この場にいる誰もが、固唾を飲んでその一挙手一投足に傾注する。その視線に込められるのは、驚きと憧れと尊敬と、張り詰められた緊張。


 たった一人で軍を滅ぼすと言われている男が目の前にいる事、その事実だけで皆が慎重になる理由には十分過ぎる。伝説に最も近い人間、ヒトを超越した者。

 世界政府が定めた冒険者ランク。その頂点のS3ランクにはそういう人間しかなる事ができない。


「……俺ぁただこいつに話聞こうとしてるだけだ。関係ねぇだろ」


「馬鹿、相手はあの"雷剣"だぞ……」

「早く謝れよ……」

「何やってんだあいつ……」

「"王国最強の剣士"だぞ!?やめてくれよ……」


 アルカの返答に周囲の冒険者達が騒がしくなる。

 だがアルカにとって、そんなものはまるで関係無かった。初めて生で見るS3ランク冒険者に驚き、憧れはすれど、そこに尊敬、増してや緊張など一切無かった。


 恐怖。それは人間が自らの存在を揺るがす存在に出会ったときに感じるもの。自らでは処決出来ない何かと遭遇した時やそれを想像したときの、絶望に似た感情。


 人間は経験から学ぶ生き物である。逆に言えば殆どの場合、経験からでしか物事を判断できない。だから、その経験に無い未知の存在と対峙した時、人間は本能に全てを委ねてしまう。


 小さい子供が大きな身体の男を初めて見たとき、その得体の知れない人物に対しまず抱くのは恐怖だ。だが、子供は男と触れ合う間に経験を積み、その経験からその人物に危険がないことを学ぶ。


 子どもに限ったことではない。往々にして人間とは初対面では恐怖を抱くものだ。

 未知なるものと対峙した時の恐怖、其れが緊張の正体である。


 だがアルカはそもそも、恐怖というものをもはや感じない。これが普通の家庭で育ったならば、冒険者とは言えそうはならなかっただろう。


 恐怖とは、感情とは、慣れるに従って次第に薄れていくものである。似たような経験をすれば、次第にそこに対する感情は弱いものになっていく。


 逆に言えば、幼い頃たった一度だけ感じた感情、経験した記憶は大人になっても残ることが多い。子供の頃の記憶が思い出として、恐怖がトラウマとして鮮烈に脳裏に焼き付いているのもそのせいである。


 だがもしも、小さい頃から何度も強い恐怖に晒されていたらどうなるだろうか。トラウマになるだろうか。勿論、初めは二度と御免だと思うだろう。

 しかしいずれは、それを当然のものとして、当たり前の日常として享受する。その当たり前という感情も、子供の頃の物の方が強く残るのだ。


 恐怖で無くとも同じことが言える。そこに交際したての男女が居たとしよう。初めはその非日常に喜びを感じるだろうが、次第に薄れ、当たり前へと変わっていく。大人でもこの様に感情が変化していくのだから、子供の感情の変化はそれ以上の物である。


 記憶にある限り、スラムで毎日死の味を味わってきたアルカ。スラムから出て冒険者になってもそれは変わらず。自らの存在を脅かす外的な恐怖など最早感じなくなっていて当然だろう。


 ただ、ただ一つアルカに問題があるとすれば、劣等感であろう。努力は報われず、誰にも必要とされず、そうやって生きてきたアルカは、自然と人と比べる癖がついてしまっていた。


 丁寧な口調で接してくれる、アルカの過ちを正してくれるこの男を踏みにじる様に悪態をつく。


「そうかな?僕には彼女が嫌がっている様に見えたけど」


「……知らねぇよ」


 そんな事分かってんだよ、と心の中で呟く。


 関係の無い第三者の介入に腹立たしい気持ちになりながらも、それは心の中で留めておく。仮にも最高ランクの冒険者、無闇に喧嘩を売るほど愚かでは無い。


 だから、せめてもの八つ当たりとして、自分が少しでも惨めに見られない様に、ちっぽけでボロボロなプライドを守る為に、自分を強く見せようと乱暴な口調は崩さない。


 それに、"白雪姫"に関しては、無視されている時点で嫌がられている事など想像できた。それでもしつこく話しかけるのはアルカの悪い癖だが。


「……」


 観衆の注目を集めた一つのテーブルで、ほぼ無言を貫いていた"白雪姫"が立ち上がる。いつの間にか紅茶を飲み干していた様で、カップを残して歩き始める。


「おい!待て"白雪―――」


「少年」


 アルカの呼び掛けで数歩で歩みを止める"白雪姫"だったが、その声は途中でルクスによって遮られてしまう。


 明らかに今までとは異質な、冷たい声。その目にははっきりと、侮蔑の色を感じる。かつてスラムに居た時によく感じた視線。罵声と共に嫌というほど浴びせられたその目と同じ物を、アルカは感じ、思わず黙ってしまう。


「……あんたの往生際が悪い所、好きじゃないわ。だけど私は嫌なんて一言も言ってない。それと―――」


 アルカ達に背を向けたまま"白雪姫"が話し出す。

 たしかに嫌だとははっきり言っていたわけではない。興味が無いという発言、そして無視していたという態度からは誰がどう見ても嫌がっていた様にしか見えないのだが。


 すると、"白雪姫"はアルカとルクスの方へ振り返る。仮面で表情こそ見えないが、その声色からは怒っている事は容易に想像し得る。


「くだらない正義感で行動する男って大っ嫌いなの。女性には敬意を?ふざけないで。女を下に見てる証拠よ」


 ルクスに対して一歩も引かない態度。ともすれば傲慢とも言えてしまう、その毅然とした振る舞いは、"白雪姫"の信念を、言葉を、より鮮明に伝える。


「だが女性は守るべき―――」


「言い訳?"王国最強の剣士"が聞いて呆れるわ。見苦しい」


 ルクスが言い掛けた言葉。それはとても正しくて、危険な程に間違っている。

 ルクスにとっては女性は守るべき対象なのだろう。きっとそういう環境で育てられ、それが正しいと信じている。

 だが"白雪姫"にとってそれは許しがたい侮辱であり、悪であった。


 お互いの価値観に矛盾が生じただけであって、どちらが正しいかは分からない。時代や場所、人によってその価値観の正しさは変動する。


 とは言え、守るべきもの、庇護の対象とは、当然だが庇護者よりも弱いものである。ルクスが庇護者、"白雪姫"、すなわち女性が被庇護者なのだとしたら、そこには上下の力関係がある事が前提である。


 男が女を守る。一見正しい様に見える言葉だが、本質的には女性を下に見ている事に違いはない。本人にそのつもりが無くとも、受け取る側からして見ればそう感じるのも無理はない。


 ルクスもそれを理解したのだろう。守られる事を喜ぶ女性も多いだろうが、それを嫌がる女性も多く存在する。少なくとも目の前にいる"白雪姫"は後者に該当し、ルクスは不快な気分にさせてしまった。


「……そうか、そう、だな。すまない」


 だからまずすべきは自分の非を素直に認める事、心から謝罪をする事。ルクスはそう考え、実行した。


 アルカはそんな二人の会話を見て、怒っている"白雪姫"にこれ以上話しかけるのは逆効果だと言うことに、漸く気がついた。


 人間とは当事者になると途端に周りが見えなくなるもので、今までしつこく話しかけていたアルカだが、"白雪姫"の態度を客観的に見る事ができ冷静さを取り戻す。


 勿論、他の冒険者達の前で無視された為に引くに引けなくなっていたと言うのもあったのだが。それもルクスの登場でどうでも良くなった。


 "白雪姫"に一蹴された二人の男たちは、ギルドから去って行くその女を黙って見送った。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「だからぁ!ついて来んなって!」


 "白雪姫"を見送り、少ししてギルドから帰路に着いたアルカ。と言っても帰るのは家では無く宿屋なのだが。

 冒険者ギルドとは都市の中心にある屋敷を挟んで反対側にある、安めの宿。歩き慣れた道、街並み。だがいつもの帰宅とは状況が違う。


「どうしてだい?余り自慢したいわけじゃないけど、僕は少し他人よりも腕が立つ。君は強くなりたいんだろう?僕なら教えられる事はあると思うよ。それにさっきはあの女性を怒らせてしまった。会話の場を奪ってしまってすまない」


「いらねえっつってんだろ!お前みてぇな天才サマの話なんか聞いたところで参考になんねぇ!それと!お前の顔!上から目線な話し方!全部気に入らねぇ!"白雪姫"のこたぁどうでもいい!とにかく早く帰れ!」


 これは本心。アルカは、自分に才能と言うものが全く無いと思っている。強いて言うならば身体能力が良いくらいだが、それも人の域を出ない。


 目の前にいる、恐らく才能の塊であるだろう男。感覚で全て理解出来てしまう様な人間の教鞭など受ける価値がないと、受けても参考にすらならないと、そう判断している。


 努力は報われるなど詭弁に過ぎない。確かに報われる努力だってある。だが、努力は報われて漸く才能に追いつけるのだ。報われて漸く才能と並ぶ事が許される。だから、努力は報われるなんて詭弁である。


 アルカの努力は未だ報われない。自分でも努力が足りないのでは、そう思ってしまうほど報われない。


 勿論、後半のルクス全否定はただの八つ当たりである。アルカの顔立ちは決して悪いわけでは無いが、キツい目つき、牙の様な歯、そして傷だらけの肌。美しいと評するには程遠い。


 対してルクス。大きな輝く瞳、艶のある柔らかそうな唇、すっと通った鼻筋、きめ細やかで傷一つない肌。それはそれは御伽話の王子様の様な美しさ。


 全てを持っている、まさに完璧超人と言っても過言では無い男に対して、金も強さも地位も名誉も無いアルカ。そこに一切の妬み嫉みが無いと言えば真っ赤な嘘になる。


 ルクスは謝罪の言葉さえも口にした。だがアルカからしてみれば、あの場で間違っていたのは自分であった。口に出しこそしないが、頭では理解している。


 その自分を止めてくれたルクスが、そのせいで"白雪姫"に馬鹿にされてしまい、その上多数の人間にその瞬間を見られてしまった。


 寧ろ謝るべきはアルカの方である。それでもちっぽけなプライドの為に謝れない自分に比べ、そんな事は気にしていないかの様に凛と振る舞い、さらには余裕を持って謝罪を口に出来るルクスの姿に、酷く惨めな気分になる。気に入らないとは完全な八つ当たりである。


「さっきも言われたが、僕は決して君たちを下になど見ていないよ。ただ、事実として、僕より強い人を見つけるのは大変だと言う事は理解している」


 と、そんなアルカの八つ当たりに微妙そうな表情で反応するルクス。決して下に見ているわけでは無いのだろう。ただ、自分の実力をしっかり理解して、その実力に見合った言動をしているに過ぎない。


「それに君、魔法が使えるんじゃないかい?」


「だから!それがなんなんだよ!何度も言ってんだろ!お前には関係ねぇ!俺ぁ今からトレーニングすんだよ!邪魔すんなら帰れ!」


 アルカの日課であるトレーニング。それは冒険者としての仕事を終えてから日が沈むまでの時間、宿への帰り道にある、公爵家の屋敷の側にある公園で行われる。

 無論、他の空き時間にも鍛錬はするが、アルカが一番重きを置いているのはこの時間のトレーニングだ。


 そしてまさに今、その目的地である公園に到着したのだ。アルカとしては、一刻も早くトレーニングを始めたいという心境である。


 だがそんなアルカを傍目に、ルクスはひとり「ふむ」と頷き、


「やっぱりか。だとしたら尚更、このまま放って置く訳にはいかない。少しでも強く、戦力になって貰わないといけない。それに、一人の人間として、純粋に君の様な才能を腐らせたく無いんだ」


「……だから強くなる為に努力してんだろうがよ」


 才能がある。ルクスに言われたその言葉に対してアルカが抱いたのは、嬉しい気持ちと、それ以上に信じられないという猜疑心。

 そんな複雑な感情を押し込めて、アルカは淡々と答える。


「本当に君には才能がある。少し前まで新人教習も担当していたから、見る目は培われてるはずだ」


 新人教習、アルカも冒険者になりたての頃に受けた記憶がある。冒険者になるのに資格や制限はない。強いて言えば指名手配されていないことくらいだ。


 しかし条件は存在する。ギルドに入会後1週間、新人教習を受けなければならないのだ。

 そこで学ぶのは、依頼の受け方から基礎的な戦闘技術、モンスターや植物に関する基礎事項などである。


 少なくとも、新人の気持ちが、実力がない者の事が理解出来ない人間に務まる事ではない。アルカが思っているより、ルクスは感覚派ではない様だ。


「それに、君は一つ勘違いをしている」


「んだよ」


「悪いが君に拒否権はない。これはギルドからの指示なんだ」


「……」


 これまでの会話が前提からひっくり返る様なルクスの一言に唖然としたアルカは、「最初に言えよ!」と心の中でツッコミを入れることしか出来なかった。

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