アベルとの生活が始まって、最初の日の夜。私は彼が好物だと聞いていたシチューを作っていました。

 幸いにもキッチンはしっかりしているし、薪の本数も十分過ぎる程残っていました。

「後は煮込むだけ……っと。後は主食にパンを出して、副菜に何か炒めて――」

「良い匂いがするね、シチューかな?」

 料理に気を取られていた私の背後から、アベルの声が聞こえてきました。

「うわぁっ!」驚いた私は、飛び跳ねるようにしながら彼から一歩距離を取りました。

「あははっ!。君は本当に驚かし甲斐があるね」

「アベル……。目が見えてないんだから、歩いたりしたら危険よ?」

 思わず腰に手を当ててお説教モードに入りそうだった私は、なんとか冷静さを取り戻し、彼にベットの上まで行くよう言いました。

 しかし彼は私の言う事を聞かず、見えない目でジッと私を見つめていました。

「な、なに?」

「いやぁ、折角だしベットまでデートでもと……」

「デートなら明日すれば良いじゃない。今は火を使ってるんだから」

「それにさ、僕は目が見えないからベットの場所も分からないし」

 そう言って彼は手を差し出してきました。……つまりベットまで手を繋いでエスコートしてくれって、そういう事なのでしょう。

 ……言い訳は考えてあるとはいえ、冷や汗が止まりません。ですが今彼の手を取らなければ、私が偽物だとバレてしまう……。

 覚悟を決めた私は、深呼吸をしてから彼の手を取りました。

「さっきも言ったけど、火を使ってるから直ぐに戻るわよ。良い?」

「もちろん。所でさ、前みたいに君の思いが聞こえてこないんだけど……?」

 やはり聞いてきましたか。仕方ありません、あまり気持ちの良い言い訳ではありませんが、予定通りの言葉で難を凌ぐとしましょう。

「それはきっと、病気の所為よ。私はずっと変わらない、私のままだもの」

「…………」

 うーん、しっかり考えたつもりでしたが、流石に嘘だと疑いますか……。どう切り返しましょう?。

 そんな事を考えていると、アベルは「そっか、残念だなー」と納得してくれた様に言いました。なんとかなったみたいです……良かった。

 その後、何事も無くアベルをベットの上に送り届けた私は、無事に料理を作り終え、何事も無く他愛無い話をしながら夕食を食べ終わりました。

「さてとっ!」

 食器を洗い終わった私は、ベットの上に彼を寝かせると「一回家に戻るわね」と言い残して、家を後にしました。


 しかし実際は家に戻るのではなく、クローカスへの近況報告をしに行ったのです。これも依頼の1つだったりします。

 集会場の前に行くと、彼女は大きくなったお腹を撫でながら既に私を待っていました。

 そして私の存在に気付いた彼女は、表面上は申し訳なさそうに、だけど内心では嬉しそうにしながら「彼、どうでした?」と聞いてきました。

「……少しヒヤッとはしましたが、彼はまだ私がクローカスであると思ってるみたいです」

 私がそう告げると、表面上の申し訳なさそうな表情も消えて「そうっ!元気そうで良かったわ!」と喜んでいました。

「…………」

「エレナさん。出来れば彼を散歩に連れて行ってほしいの」

「えぇ……そのつもりです。それでは、長い事彼の傍を離れてると疑われるかもしれないので、私はこれで……」

 軽くお辞儀をした私は、少し苛立ちながら早歩きで彼女の元を去りました。


「ただいまー」

 アベルの家に戻って来た私は、再びクローカスになりきって彼に接しました。

「おかえり。もう少し話をしたら、今日は寝ようか?」

「そうね。でもその前に、お風呂に入るわ……アベルの体も洗ってあげましょうか?」

 服を脱いでタオルとシャンプーと石鹸を持った私は、彼に尋ねました。別に裸を見られる事を恥ずかしいと思った事は1度も無いので、人前で脱ぐ事に抵抗は無かったりします。

 アベルは少し考える素振りを見せた後に「それじゃあ、お願いしようかな」と

言って立ち上がるのでした。

 その後、彼の服を脱がせて先に自分の頭と顔と体を洗い終わった後に、彼の事を洗い始めました。

 頭は自分で洗えると言っていたので、私は彼の背中を石鹸で泡を作った手で洗ってあげました。

 男性とは思えない程に綺麗で華奢な体つきに驚かされた私でしたが、背中を洗い終わり、腕を洗ってる時に「あぁ、彼も男性なんですね」と思える肉つきを見て感心してしまいました。

「さて、それじゃあ正面を洗うわよ?」

「うん、お願い」

 私は彼に声を掛けると、正面に回り込んで大きな胸板に手を当てがいました。

 頑張って大きく動き続ける心音が、私の手に伝わって来ます。でも、その鼓動ももうじき止まってしまうかと思うと……何だかやるせない気持ちが込み上げてきます。

「…………」

「クローカス?どうしたの?」

 思わず手を止めてしまった私を心配する様に、アベルが問い掛けてきます。

「……ごめんなさい、何でもないわ」

 そう言いながら私は、彼の事を抱きしめました。

 この温かさが、何も言わずに抱き返して来る優しさが、彼と言う存在が消えてしまう事がどうしようもなく悲しくなった私は、無意識に彼の事を力一杯抱きしめていました。

 ……アベルを、このまま死なせたくない。私が抱いたこの思い、それはきっと誰も望まない事なのかもしれません。それに、間違い無く依頼外の行動になります。それでも彼の生きれる可能性があるなら、私はその可能性を掴み取ろうと、胸に誓うのでした。



 体を洗い終えた私達は木組みで作られた浴槽にお湯を張り、お互いに背中を預け合いながら温まると、タオルで体を拭いて寝間着に着替えてから、家の前に椅子を置いて夜風を浴びていました。

「それにしてもクローカス、少し細くなったんじゃないか?」

「そうかしら?変わらないと思うけど……」

「久しぶりだったからかな……君の体が少し小さく感じたよ」

「……そう」

 確かに、私の体格はクローカスより少し小さいです。ですがパッと見では分からない程の誤差だったので気付かれる事は無いと思っていたのですが……。

「しかしアレだな。君も女の子だから、肌が柔らかかったよ。それに胸も大きくなったんじゃないか?」

「やだ、スケベ!」

 私の手を握りながら、サラッと彼がセクハラじみた事を言ってきました。素の反応が出てしまったのですが、平気ですよね……?。

「…………」

「…………」

 暫くの沈黙が、私達を包みました。

「……ふふっ」

「……あははっ」

 別に悪い雰囲気になった訳ではありません。お互いに何となく黙っていただけなのでした。

 それからも私達は、本当にどうでも良い様な事を話して笑い合いながら、それでいて有意義と思える時間を過ごしていきました。


 さて、ひとしきり笑い合った私達は、再び夜風を浴びながら空に浮かぶ三日月を眺めていました。

 ……最初は、ただただアベルの命が終わるまでの間、寄り添うだけのつもりでしたが、気が付けば彼の事を本気で想っている自分が居る事に気付き、今でも私は私自身に驚いています。

 彼と出会ってまだ初日だというのに、私はどうして彼にここまで惹かれているのでしょう……?。

「ねぇ、アベル?」私は彼の腕に頭をもたれ掛けさせながら、声を掛けました。

「どうしたの?」

「私、いつまで貴方の傍に居られるのかな……?」

「……僕が死ぬまで、だろ?」彼はそう言うと、私の肩を優しく抱きました。

 確かにその通りです。私への依頼も彼を看取る事。ですが今の感情のまま彼と共に居たら、きっと私はクローカスを演じきれなくなり、彼が生きている間に逃げ出してしまうかもしれません。

 ……感情移入が過ぎるのが、私の悪い所ですね。会って間もない人に惹かれるなんて、絶対にありえないじゃないですか。

 私は自分の気持ちを振り払う様に抱きしめられた手から離れると、椅子から立ち上がり「そろそろ戻りましょうか」と告げるのでした。


 そして同じベットに潜り込んだ私達は、明日の予定を話し合いながら、アベルが寝息を立てるのを待ってから寝ようとしました。

 明日は彼とデートで、近場の森を歩いた後に、森を抜けた先にある湖で昼食を取り、水遊びを楽しんでから帰宅……そんな予定になっています。

(思わずボロが出ない様に気を付けないとですね……。明日も頑張りましょう!。)

 小さくガッツポーズを取った私は、静かに目を閉じました。

 しかし「明日の昼食は何にしましょう?」とか「水遊びと言っても、私は水着持って無いのですが……」とか「そもそも森を歩いてる最中、彼をしっかりとエスコートできるのでしょうか?」とか色々と考えていたら、寝付くまでに時間が掛かってしまうのでした。

 そして、寝不足のまま次の日の朝を迎えてしまう私なのでした……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る