白朝顔の花一時
かぷっと
第1話
進級する度に書かされる自己紹介カードを思いつきで埋めていた私が、変わってしまったのは中学時代の夏のことだった。
縦一文になった目覚まし時計を止めて、あの日の私は日課の水遣りのため庭へ出た。
いくら暑さの厳しい夏とはいえ、早朝であれば少しは涼しいものだ。その日の朝はやや肌寒いくらいで、おまけに霧も出ていた。
青白いモヤが薄らと立ち込める中、いつものように蛇口を捻る。ジョボボボ、と勢い良くじょうろを叩く水音が、ひっそりとした朝の空気を切り裂いた。適量まで溜まったらじょうろは脇に置いておき、ホースに付け替える。
鶏頭、千日草、タチアオイ、金魚草、サルスベリ。日が昇りきらない中でも色鮮やかな花々へ、一つ一つ丁寧に水遣りをしていく。花弁に掛からないように注いだ水を、乾いた土が美味しそうに吸い込んでいく。花々は冷たい水をたっぷり受けて、日々美しく花開き、そして散ってゆく。
「やあ、綺麗な庭だね」
ふいに背後から男の声がした。男は庭の中に立ち、サルスベリの木を仰いでいた。幹を撫でる手が白くしなやかで、ツル植物のような印象を与える男だった。
「君が世話をしているのかい」
はい、と言葉を返しながら、私は失礼にならない程度に男を眺めた。この村落は大層な田舎で、家の者以外が庭に立ち入るのは珍しいことではなかった。それでも、この男のことは見たことが無い。
二十前後の若い男だ。たっぷりとした白シャツ、細身な薄色のジーンズに、革の突っ掛けという出立ち。おそらく余所者だが、一体何をしにきたのだろう。
黙り込む私に男は気にした様子もなく、庭を巡っている。咲き誇る花の一つ一つに笑みを溢し、優しく触れ、小さな声で何か二、三言呟いた。それは今まで訪れた見物客とはまるで違う、不思議な光景だった。男がただ風変わりというだけではなく、なにやら秘密の儀式を垣間見たような感じであった。
ゆっくりと歩き回っていた男は急に、足を止め、ジッと一点に視線を注いだ。
そこには先ほど水遣りを終えたばかりの、朝顔の鉢植えがポツンと置いてあった。真っ白で、色もなければ模様もない、小さな朝顔だった。
そんな花を、男はいつまでも熱心に見つめているのが、私はなんだか恥ずかしかった。
「地味ですよね、それ。紫の種を買ったはずなのに何故か色が着かなかったんです」
思わず言い訳のような言葉が私の口を突いたが、男は何も言わずに白い朝顔を覗いていた。逃げ出したくなるような長い時が流れ、ようやく男は口を開いた。
「君は、植物の世話が上手だ」
こちらに向けられた人の良さそうな顔には、柔らかい笑みが滲んでいた。
「朝顔の蔓が、非常に丁寧に巻き付けられている。君が手助けしてやったんだろう」
さらに朝顔の葉の大きさや美しさについて、男は次々と褒めた。その言葉尻には熱が入っている。私はただ、母に言いつけられた通りにしているだけだ。そしてそれは、私の人生そのものでもあった。
「植物の世話に、上手い下手があるんですか」
もちろんある! と男はやや憤慨したように声を荒げる。
「日当たりや水の量、病気なんかにも気を配らなければならない。植物の世話の本質は『観察』だ。植物の世話が上手いということは、植物のことをよく見ているということだ」
この朝顔を見れば分かるさ、と男は口元を緩め、白い花弁に触れた。
それから、この男は時折この庭を訪れるようになった。じょうろに水を溜め終わる頃合いになるとやって来る。
私が水遣りをするのを、いつもサルスベリの木にもたれ、飽きもせずに眺めた。ひと段落すると、取り留めのない会話をポツリポツリと交わす。庭の花々の様子や、手入れの仕方、天候の変化など内容はいつも決まり切っていたが、それで十分だった。
私はいつの間にか彼を信頼しきり、男は歳の離れた兄弟のような存在となった。彼は植物にとても詳しく、専門書にも載ってないようなことを沢山話してくれた。彼の助言を貰って花々の世話をするのは楽しかった。
また男は家の庭を飽きずに何度も見物した。花の一つ一つに立ち止まり、その花と男の二人だけの交流をする。
そして決まって、白い朝顔の前に長らく立ち尽くした。随分この朝顔に惚れ込んでいるようだ。花弁に手を添える様子などは、まるで淑女をエスコートするようですらあった。私は縁側に腰掛けながら、それを微笑ましく眺めていた。そんなやり取りが、数週間繰り返されただろうか。
ある朝、私が寝坊した時のことであった。いつも通り庭に降りると、既に男が訪れているのが見えた。
男は、朝顔の鉢植えの前に膝をついていた。その白いかんばせをラッパのような花弁に埋めているようだ。私には、彼がその小さな鉢植えごと朝顔を包み込んでいるように見えた。
私の視線に気がついた男は照れ臭さそうにヘラリと笑い、おはよう、と声をかけてくる。そのテラテラと濡れた薄い唇に、クリーム色の朝顔の花粉が張り付いているのが分かる。既に高く上がった太陽がジリジリと、離れて立った私達の輪郭を焼き出した。
なに事もなかったかのように、つつがなく日課は行われた。目に見えぬ何かを壊さないように、お互いに細心の注意を払って。
微かな緊張が残ったままの別れ際に、男は意を決したように話し始めた。海は近くに無いはずなのに、ツンと、どこか懐かしい潮のような香りがしていた。
「あの朝顔、僕にくれないかな」
なんだ、そんなことか。私は安堵の溜息を吐き、良いですよ、とニッコリ笑って見せた。
「あげてしまう前に綺麗に剪定したいので、また今度いらっしゃった時で構いませんか」
彼はなんと答えたっけ。あの日を境に、男が庭に来ることはパタリと無くなった。
あげると約束した朝顔が大きな花を咲かせるように剪定しながら、私は待ち続けた。切っても切っても伸び続ける蔓の先を、バチンバチンと毎日切り落とした。白い花が落ちては咲きまた落ち、ついに花をつけなくなるまで。
そこでようやく、男にもう会えることは無くなったのだと悟った。あんなにも大きく豊かだった葉は、いつの間にか黄色く皺くちゃになっていた。
四十になった私は、田舎の植物園の園長をしている。あの夏、私が朝顔の鉢植えを抱えて待っていたあの村の植物園で、今年も白朝顔を剪定している。
白朝顔の花一時 かぷっと @mojikaki
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