第1話 仕事

 自転車に乗りながらついさっきした少年との会話を思い返す。


「家から何かなくなっていませんでした?」


 どういう意味だろうか。

 家から何かなくなる…?

 比喩か。何か別に言いたいことがあった…?

 いや、あんな小さな子供がそんな回りくどいことはしないだろう。そもそも何の意味があるのか。


 コンビニに寄っておにぎりを三つと缶コーヒーを買う。めちゃくちゃな食い合わせだが、これがコンビニでのルーティンになっている。

 時間帯がいつも同じなので店員も同じだ。レジではもう何も言う必要がない。支払いはキャッシュレスでポイントカードは持っていなくて、レシートはいらないが袋がいることは言わなくてもわかってくれている。

 

 コンビニを出て、クロスバイクにまたがる。

 会社は九時に始業だ。私はいつも八時五十分くらいに着くようにしている。時間にあまり細かい会社ではないので、それで十分だ。嫌味を言ってくる上司もいない。業界柄ある程度の自由が認められているのかもしれない。私が勤めている会社は地方の小さな出版社だ。

 業務内容は営業兼ライターだ。雑誌に数ページの枠をもらい、その枠を埋める飲食店等を自分でリサーチする。見つけたらそのお店に問い合わせて取材に行き、記事にする。最初から最後まで任されていると言えば聞こえがいいが、実際は人手不足で自分ですべてやるしかないだけだ。


 会社に着いた。自分のデスクに背負っていたかばんを置き、缶コーヒーを取り出す。赤木大輔と書かれた付箋を貼り、共用の冷蔵庫に入れる。付箋をつけずに入れると勝手に飲む先輩がいるのだ。冗談のつもりでやっているのだろうが、ただただ迷惑だ。後輩とのコミュニケーションの取り方を完全に間違っていると思うのだが、いたずらをして嬉しそうにしている顔を見ると、指摘するのも躊躇われる。社会人でも幼稚な人はいつまでも幼稚だ。今朝の少年の表情を思い出した。


 さっそくスケジュールをチェックする。

 今日は午後から事前にアポを取っていた鉄板焼き屋に取材に行くことになっていた。その鉄板焼き屋には私は何度も行ったことがあり、つまり行きつけで、あまり乗り気ではなかった店主を説得する形で今回の取材が実現した。なのでいつも以上に気合が入っている。


 取材までの時間はデスクワークにあてる。

 まずは以前取材に行った定食屋の記事を推敲することにした。上司に見せる前にそれを二回。一度で通ることはまずないので、結局少なくとも4、5回は繰り返すことになる。その後にさらにお店側にも見せ、許可が下りたらようやく記事にすることができる。

 あまり時間をかけ過ぎてしまうとお店の雰囲気や味を忘れてしまうので、なるべくスピーディにするように心がけている。記事にも鮮度があるのだ。


 並行してメールのチェックもする。

 私は一つの物事に集中するのが苦手だ。だから何かの作業をするときは決まってもう一つ別の作業も行うようにしている。中途半端になりそうなものだが、かえってそうしたほうが集中できて能率良く仕事を進めることができるのだ。

 何件かメールを返した。はっきり言って中身はほとんどないのだが、この業界は繋がりが非常に大事なので、こういったアフターフォローは欠かせない。

 この仕事を初めて人脈の幅がとても広がった。特に飲食店の知り合いが増え、お誘いをいただくことも多くなった。結果、外食が増え、おかげで太った。それがきっかけでバスから自転車通勤に変えたのだ。

 

 午前の業務を終え、昼食のおにぎりを食べた。缶コーヒーも飲んで眠気を飛ばす。

 待ち合わせは午後二時。その前にカメラマンをピックアップする。いつも頼んでいるフリーのカメラマンだ。

 記事に載せる写真は飲食店にとっては肝要になる。なので素人ではなく契約しているカメラマンに取ってもらっている。小さな会社だがこういった点はしっかりとしていて、取材先からも信用を得ている。


 社用車で会社を出た。

 基本的に仕事でしか乗らないが、運転は嫌いではない。ただそれには条件がある。一人ドライブ限定だということだ。人を乗せて走るのは好きではない。鼻歌でも歌いながら運転したいし、助手席に人がいると気を使ってしまう。

「はあ…」

 ため息をついた。一人ドライブの時間はわずかに五分で終わってしまった。

 カメラマンが待ち合わせ場所に立っている。車に気が付いて大袈裟に手を振りだした。

 このカメラマンがまた、なかなか個性的な人間なのだ。


 車はまた走り出す。

 ピックアップしたカメラマンは名前を富樫璃華という。画数の多い名前だ。

 20代前半と思しき小柄な女性で、よくしゃべる。カメラマンという職業の人に対して、なんとなく職人肌で無口なイメージを持っていたので、初対面のときは面食らった。カメラについて熱くいろいろと語ってくれたが、もうそのほとんどを覚えていない。ただカメラマンになった動機はとても印象的だったのでよく覚えている。面白い人だなと思った。


 彼女は大学生のときにチアリーダー部に所属していたようだ。高校生のときからしていたらしく、その当時はカメラとは無縁だった。

 しかし部活の練習中に膝に大怪我を負ってしまい、引退することになった。彼女は今でもドンジョイと呼ばれる装具を膝につけていることがある。もうはずしてもいいらしいのだが、つけていたほうが安心すると言っていた。膝が壊れたときの気持ちの悪い感覚をまだ覚えていて、装具をつけていないと怖くなることがあるらしい。


 怪我を理由に引退した彼女は、それでもチアリーダー部は辞めなかった。マネージャーとして残ることにしたのだ。


 そこでカメラと出会った。

 

 マネージャーとなった彼女の仕事はパフォーマンスをする仲間を写真に収めることだった。

 一緒に頑張ってきた仲間を裏方として撮るのは、悔しさもあり決断に大きな勇気が必要だっただろう。しかしその話をする彼女は非常にあっけらかんとしていて、今となっては怪我をして良かったとまで言って笑っていた。


 彼女はすぐに写真にはまった。

 特に面白かったのが、人の意外な一面を撮れたときだという。一瞬しか現れない表情を逃さずに撮れたときは被写体に勝った気になるらしい。カメラは負けず嫌いな私の性格に合っていると楽しそうに話していた。


 それからは人以外にもいろいろなものを撮るようになった。

 景色や料理を撮るために旅行にも頻繁に行くようになった。その分、大学の授業はさぼりがちになった。

 そして大学在学中からカメラマンとして本格的に動き始め、そのままそれが職業になり、今に至る。


「今日はなんのお店でしたっけ?」

 助手席で髪をまとめながら璃華が聞いてきた。

「鉄板焼きだよ。海鮮が中心の」

「えー、やったあ」

 狭い車内でガッツポーズを見せる。「私この仕事のときはいつも朝抜いてるんですから」

 ですから、と言われても返事に困る。

「赤木さんの仕事って好き嫌いがあったら困りますよね」

「そうなんだよ。実は結構あるんだけどね」

「えー、どうするんですか。取材先で嫌いなの出てきたら」

「もちろん食べるよ。仕事だから」

 私は忠実な人間なのだ。

 カーナビの指示に従ってハンドルを回す。

「おえー、とかって吐いちゃったりして」

「意外と食べれちゃうんだよ、それが。嫌いなものってしばらく食べてないものが多いでしょ。味覚が変わっててさ、案外食べれちゃうんだよね」

「大人になったんですねえ」

 璃華はなぜかしみじみ言う。

「でも確かに仕事だと普段無理なことでもできちゃうことってありますよね」

「でしょ?」

 珍しく意見が一致する。

「前に結婚式のカメラマンをしたんですけど、式中にゴキブリが出たんですよ。私どうしたと思います?」

「潰した」

「そうなんですよ。自分でもびっくり。もし家で出たら大慌てで逃げ回るのに、なぜかあのときはすごく冷静で、普通に潰したんですよね。真顔で。もう唖然」

 ゴキブリは唖然どころではない。

「ホテルの人からめちゃくちゃ感謝されたんですよ。まだ誰も気づいてなかったんで。だって、ホテルの格が落ちますからね。式の最中にゴキブリが出たなんて知られたら」

 相変わらずよくしゃべる。

「しかもそれがきっかけでそのホテルと契約したんですよ。すごくないですか? ウエディングカメラマン。結婚式って出るだけで楽しいですよねえ。ゴキブリサンキューって感じです」

 ゴキブリに感謝する女はこの世で彼女だけだろう。

 話をしているとあっという間に時間は過ぎる。目的地の鉄板焼き屋に着いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

課題は泥棒 三矢 @sanfpurple

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る