第五章 2

あらぬ方向に筆が向いてしまった。

ときの勢いなので、ご海容を願い上げる。

元に戻りたい。

少年誌は、しばらくやらないでいた。

私の周囲の編集者たちも、

「もう、牛さんは、少年誌は書けないんじゃないか」

という思いを抱いている者が、殆んどであった。

少年誌というのは、神経も体力も、精神力も、それだけ消耗するものなのである。

私の場合は、原稿の高額さからも、これまでの実績からも、書く以上は、一つの雑誌の“柱”を書かなければならないという責務のようなものを負わされていた。

それは、当然のことであった。

幸いなことに、青年誌では、“柱”を書けていた。

しかし、少年誌で、堂々と柱を書いていてこそ、「オレは、牛次郎だ」と胸を張れるのである。

そんなときに、少年チャンピオンのA編集長が、

「書かないですか。引退には早すぎますよ」

と言ってきてくれた。

(よし!)

と思った。

これで駄目だったら、少年誌から

(足を洗おう)

と覚悟を決めて、仕事に取り掛った。

「牛次郎は、こんなジャンルも書くのか、という作品にしたかった。

プラモデルとプロレスを合体した作品を手がけた。

そんな作品はない。

タイトルは「プラレス3四郎」とした。

作品は、スタート直後から、順調なすべり出しを見せてくれた。

読者がノッてくれると、書く方も、その波に乗れるものだったのである。

漫画は神矢みのるさんだった。

彼の描くキャラも、作品にピッタリとフィットしていた。

書いていて、久しぶりに楽しくなっていった。

少年誌には、独特の熱気があった。

けれども、もう、豊玉にいたときのような、あれは狂気だと思うのだが、仕事 はできない。

少年誌は、週刊誌一本で充分であった。

収入的には、青年誌も複数誌連載していたので、充分に補えた。

「プラレス3四郎」を始めた後、半年位たってから、日刊ゲンダイから、珍しい形式の仕事の話が舞い込んで来た。

毎日の連載で、夕刊(タブロイド版)一面を使って、漫画をやってくれというのであった。

サラリーマンが、仕事帰りに、一日の疲れをいやすような、肩のこらないものが狙いだ、 というのである。

こんな仕事は、業界初であった。

「笑えて、少しエッチな題材にしよう」

というので誕生したのが、「やる気まんまん」という新聞一面漫画の初誕生であった。

(一週間もったら上出来だろう)

と思って、軽い気持で始めた。

無責任作品の代表作だ。

ところが、連載が、エンエンと続いた。十数年は続いたのではあるまいか。

元々が軽い気持ちで始めた作品である。

大構想があって始めたものではないのである。

ところが終る気配はない。

すでにネタは切れているのである。

こんなに、その日の締切まで、便秘を強引に出したような作品は、他にない。

それが、やっと終わった。

作品のことを忘れた。ついこの間、日刊ゲンダイの社長が来て、あの名物作品をもう一度やりたいと言ってきた。

私は、まさか!...である。

社長曰く、

「原案の許可とタイトルの許可をいただきたい。書くのは若い人が書きます」

というのである。

折角、こんな、伊豆の山奥まで、社長自らが来てくれたのである。

「いいですよ」

と言ったが、どんな風になっているのか、見てもいない。

以前の社長のKさんが、

「あの作品は、発明だよと言ってくれた」

そのKさんも、故人になったと聞いている。

その頃の私の心の中に、漠然とだが、ある一つの考えが、浮んできていた。

「一つの分野は、十年なのだろうな」

分野とは、漫画原作者という意味であった。

「サブやん」で三年、「味平」で五年。「プラレス」で何年いくのか。

ここまでで、十年をオーバーするけれども、おおむね、十年だ。

「プラレス3四郎」は、編集長が代替わりしたことで、作品の扱いが、冷遇を受けるようになってきた。

人気至上主義の少年漫画界にあって、一つだけ例外があった。

編集長の交代であった。

新任の編集長は、どうしても、自分のカラーを出したくなるものだ。

次々と新連載をぶつけてくる。

その度に、「プラレス」を後に退けていくのである。

こういうのは、最悪の編集長であった。

「プラレス」人気はあるのに、なんとしても、自分が出した作品を強引に、柱に持っていきたいのであった。

そんな、雑誌内の暗闘にも嫌気が差していた。

しかし、連載は要望があるうちはやろう。

「それがプロだろう」

と漫画の神矢みのるさんとも、そのように話し合った記憶もあった。

そして、連載は、予定通りに終了した。

終わらない連載というのは、ないのであるから、これで良いと思った。

それと同時に、私は、次の十年の為の準備と短い作品に取りかかっていた。

角川書店の、「野性時代」という小説雑誌の編集長のWさんと知りあったのが、切っ掛けとなった。

短編小説を野性時代に、毎月発表していったのであった。

二年越しで、「野性時代」の新人文学賞を受賞したのであった。

この受賞で、小説の世界に、のれんを掛けたつもりであった。

そして、祥伝社で、月刊のようにして、下ろし小説の単行本を次々と出していった。

小説といえども、人気がなくて、売れない本ばかり書いていたら、お払い箱になってしまうのは、目に見えていた。

当時は、官能小説の全盛時代であった。

官能小説専門の雑誌があった程であった。

そういった雑誌には、短篇小説をシリーズ化して書いていった。

また、漫画原作の注文もあったので、これも断る理由はなかったので、注文のある限りは書いた。

両方の世界に足が掛かっていた。

なにしろ、日刊ゲンダイの「やる気まんまん」の連載は、まだまだ続いていたので、独特のライトな官能小説を書く作家というイメージがついてしまった。

(この小説の世界も、十年だろうな)

と思っていた。

この頃は、次の世界を探すために、色々な冒険をした。

九鬼プロで、AV監督をやったり、スコラ社から、私の撮影で、ヘアーヌード写真集も出版した。

自分でも、

(オレは一体、何をやっているんだ)

と思わないではなかったが、来る仕事を全て、断らないで、引き受けていたら、そのようになってしまったのである。

その時に、スコラ社から、

「『般若心経』を書いてみないか」

という話が舞い込んできたのである。


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