第四章 5
たまさか、その時に、新宿のムーランルージュで演奏していた仲間が、同窓会を開いた。
珍しい例である。
私も出席した。
みんな、まだ音楽にたずさわっていたが、私と、三番バンドネオンの「O」さんと、リーダーの「N」さんが、仕事を変えていた。
みんな、私の転身を知っていて、
「牛ちゃんは凄いな」
と舌を巻いていたので、照れ臭かった。
しかし、嫌な気分ではなかった。
一番、(らしいな)という転身をしていたのは、リーダーの「N」さんであった。
不動産の宅建主任の資格を取って、不動産会社をやっていたのである。
会社といっても、一人だけの会社であった。
そして、自社物件を建てるところだというのである。
練馬の豊玉だというのである。
(あれ、場所的には、丁度いいけどな)
と思って、価格を訊いた。
限りなく二千万円に近い、一千万円台であったように記憶している。
「そんなお金はないなあ」
「いや。四百万円あれば良いんだよ。それが頭金で、後はローンでいいんだよ」
「そんな難しいこと、オレには出来ないよ。それに四百万があるかどうか、お母さんに訊いてみないと判らないし...それに、アパートっていってたけど、設計の変更は出来るの?」
「ああ、いまならね。ここに電話くれる」
と名刺をくれた。
家に帰ってから、お母さんに、
「オレんちに、四百万円、あるか?」
「あるよ。その十倍位あるよ」
「そ? ...そんなには要らないよ。四百万円でいいんだ。頭金だよ。ローンの...それで家が買える。Nさんが、不動産屋になったんだ」
「お父さん、今、自分で、月にいくら稼いでいるのか知ってるの?・・・月に一千万以上だよ」
「そんなに働いているのかあ」
私の頭の中には、作品のことしかなかった。
およそ、表にはでない。
たまに家族で、田無の方にできた、大きなファミリーレストランに、行くぐらいである。
“すかいらーく”みたいなものであった。
とことん、貧乏が身に染みついているのか、贅沢の仕方が判らないのである。
私が預金をしている銀行に相談をしたら、
「これだけ資金があるんですから、ローンは止めなさい。ローンだと、倍のお金を払うことになるんですよ。現金にしなさい。その友達の不動屋さんには、銀行(うち)の担当者が、改めて交渉いたしますよ。なんだったら、もっと良い物件を探させますよ」
というので、現金で買うことにして、交渉や、登記などという面倒なことを全て、まかせることにした。
すると、結果的には、三割も安くなったのである。
「Nの奴。こっちが知らないのを良いことに、ふっかけたんだな」
「それに、ローンだと、二千万円のものが、完済したときには、四千万円払うことになるんですって」
夫婦で一緒に首を振った。
豊玉に移ってから一年位で、「釘師サブやん」が終了して、次は、少年ジャンプで、 「包丁人味平」を連載することになった。
雑誌を移ることで、マがジンのMさんに、なんだか申し訳ないような気がした。
「包丁人味平」も、ビック錠とのコンビであった。
「包丁人味平」は、「釘師サブやん」のときのように、最初から人気は出なかった。
それどころか、「十回で止よう」という話まで出たのである。
(どうせ止めるのだったら、メチャクチャやってやれ)
というので、キャベツの線切り合戦に、話を切り変えた。
対決シーンの連続である。
その途端に、読者が一斉に、食いついてきたのであった。
(やっぱり、漫画には、絶対に対決が必要なんだ。そして、ライバルが必要なんだ。キャラクターだよ。魅力のあるキャラクターの存在こそが、主人公をイキイキとさせるんだ)
と確信した。
少年誌には全誌に、「なにが良かったか」係があって、豪華な懸賞品を用意して、アンケートのハガキを集計しているのである。
これを毎週、行っているのであった。
テレビの視聴と全く同じであった。
その結果で、人気のない作品は切られていくのであった。
そこに、情実などというものは一切ない。
アンケートハガキの積上げられた高さだけが、全てであった。
長く続いている作品というのは、毎週々々、その高さを維持しているのである。
そうした人気作品の群れの中で、雑誌の柱と呼ばれる作品は、最低でも三位以上を取り続けなければならないのであった。
ジャンプは、他の雑誌と異なって、人気作品の作家とは、専属契約を結んでしまうのである。
専属料は、千万単位であった。
私も専属作家契約を結ばされた。
しかし、少年雑誌だけの契約、という条件をつけた。
その頃は、コミックス全盛の時代で、コミックスダラーと呼ばれた。
所謂、青年コミックスというのが、雨後の筍状態で、発行されていたのである。
そうした、青年雑誌は、別にしてほしいといったのである。
集英社では、青年コミックは発行していなかったのである。
後に、ヤングジャンプというのが、発行されるが、コミックスのメジャーは、少年誌であった。
後に、小学館が、ビックコミックスシリーズを発行して、青年誌のステイタスを上げていったが、出版大手の、新潮社、文春なども、コミックスを出したかったのであるが、先ず、たかが漫画という、上から目線が、社内にあったことと、コミックスに対するノウハウが、なかったのである。
新潮社は、漫画雑誌を発行するために、わざわざ、吉祥寺に子会社を造ったりして、コミックスダラーに挑戦したし、文春は、日陰者扱いで、「漫画?“ビンゴ”」という中途半端な雑誌を出して、それで終わった。
いずれにしても、講談社(音羽)、小学館(一ツ橋)のような、腰のすわったコミックスへの対応をしてこなかったのである。
ジャンプの集英社は、小学館の子社会なので、音羽対一ツ橋という呼ばれ方をしていた。
私は、丁度、コミックスの戦国時代にいたのである。
私は、漫画原作者として、梶原一騎さん(故人)、小池一夫さん(故人)と、いつも、三人一緒で、マスコミに、登場させられていた。
梶原、小池、牛次郎と語呂もよかったのかもしれない。
梶原さんが、この世界の開拓者のような存在で、「巨人の星」「あしたのジョー」で、少年雑誌界に君臨してきた。
対して、小池さんは、「子連れ狼」「御用牙」で、青年誌の世界で活躍した。
私は、「釘師サブやん」「包丁人味平」で、少年誌で仕事をさせてもらいながら「鯨魂」(週刊サンデー)、「くっとろい奴」(漫画ゴラク)と青年誌でも書いていた。
なんとなく、作品の質で、住み分けが出来ていた。
自分でも、現在となると、
(なんで、あんなに書けたんだ)
と思う。
豊玉にいた頃であったと思うが、月間で、十三種類(十三本ではない)の作品 を書いていた。
コピー機も、ファックスもない時代である。
二十畳位いはあった居間は、完全に喫茶店であり、碁会所であった。
原稿が出来た順に、編集者が、消えていく。
私は、そこから廊下一つ隔てた、八畳の和室の和机で執筆していた。
全作品に締切りがあるのである。
若い新入社員の女性の編集者が、突然、私の部屋に入ってきて、泣き出して、
「原稿もらわないと、わたしクビになります。お願いだから、わたしのを先に書いて下さい...」
とやりだしたのである。
すると、すぐに、別の編集者が来て、
「泣き落としは駄目。順番があるんだからさ」
と連れ出していった。
食事は、お母さんの作った王子丼で、片手で丼を持って、右手にはペンを持っていた。
間違えて、丼の中に、ペンを入れたとことがあった。
さらに、半分、寝ながら原稿を書いていたことがあった。
不思議なことに、ちゃんと文章になっていたのには、自分でも驚いた。
そんな状態でも、ヒット作になるのである。
あれは、なんだったのであろう。
体重が、激痩せで、四十八キロになった。
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