第三章 4
「いくらなんでも無茶だよ。確かに、オレは色々なことをやって来たけど、生まれてから、この方、楽器というのは、一度も触ったことさえない。立ちん棒で良いという、お父さんの気持ちは、まことにありがたいけどね。第一、楽器がないよ」
海岸にあった“常春”という、南国の雰囲気のある喫茶店で会って、私は、そう言った。
「そうよねえ。牛ちゃんが、そう思うのも、無理ないわ。音楽って、特殊すぎるものねえ」
とカオちゃんが、大きく頷いた。
「それより、真理ちゃんのうちが持っている長屋が一軒、空いたっていうのを借りようと思って...」
「え?」
「一緒に棲まないか。オレ、こんな風だろう。結婚式も、挙げられないから、上手くプロポーズも出来ないけど」
「良いよ、そんなの。皆んなが、知ってるもの。お父ちゃんも、知ってたよ」
「え。なんていってた」
「ベースが牛ちゃんになれば、全部、身内になるから、やりいいって...」
「身内って言ってくれたの」
「良かったあ。じゃあ、正式な結婚じゃないけど、同棲だね」
「あたしね。籍は入れてないから、結婚じゃないけど、同棲したことがあるの。子供も出来たんだけど、生まれる前に別れて、子供は生まれたら、お父ちゃんが『情が移る前に』といって、男の家に連れて行ってくれたから、又、独身になって、今、牛ちやんと逢っている。歳も三才も上だよ。それでも、良いの?」
「三歳上の姉さん女房は、鉄(カネ)の草鞋を履いて探せっていうじゃないか」 ,
「一つ上の、じゃない?」
「そうか。どっちでも良いよ。全部、ケイコちゃんから聞いているよ」
「お喋り...」
「なのかな? オレは、今のカオちゃんが大好だよ」
「嬉しい。わたしも、今の牛ちゃんが大好きだよ」
「ホッペタに、ヤーさん印の傷があってもかい?」
「だって、ヤクザじゃないじゃない」
「そうだけど、丸裸で、逆さにしても、一円も出ないよ。箸、茶わんから、揃えないとね。で、これ、オレの全財産なの。五十万円貯めたんだ。これ渡しておくね。少しづつ揃えようよ。無理しないで、贅沢はさせられないけど、一歩一歩、前に進もうよ...」
「うん...うん...」
とカオちゃんが頷いた。
その頬に、涙が伝わっているのが、たまらなく可愛かった。
誰もいなかったら、その涙をすべて、すべて、吸い尽くしてあげたかった。
人を好きになるというのは、こんなに胸を締めつけられるものだと思った。
気が付いたら、私の目尻からも、涙が溢れ出ていた。
人と人が、繋がりあうということは、実に、
(神秘的なものなのである)
と思っている。
それでなくても、私は、キッチンが倒産した以上、宿舎もなくなるのである。真理ちゃんの長屋の一軒を借りるより、他はなかったのである。
私とカオちゃんは、世帯を持った。
古い部屋をペンキや壁を貼って、どうにか、住めるようにした。
布団を二組買って、押し入れに仕舞った。使うのはいつも、一組であった。
食器入れも、一つ買った。家具らしいのは、それだけだった。
それと、小さなちゃぶ台を買った。
鍋釜など、台所用品を買って、ようやく家らしくなった。
これだけで、三十万が消えたが、残りは貯金した。
本当に、 貧しいながらも、二人だけで造った、新居であった。
新居の資本は、「牛ちゃんが、シッカリと、貯金をしていたのよ。それを使ったの」とカオちゃんが、ケイコちゃんに言った。
「本当に真面目な子なんだね」
と感心して頷いた。
子供は、つくらなかった。
そのカオちゃん(のちに、“おかあん”と呼ぶようになるが)と、実に、六十年に及ぶ、夫婦生活をするように成るのだが、そのスタートは、真理ちゃんちの長屋の一室からである。
二人の部屋が出来上がって、ケイコちゃんの店に行って見ると、
「嘘だろ」
というものが、ドーンと置かれてあった。
お父ちゃんが、三島の楽器屋から買って、担いできたというベースであった。
新品である。
お父ちゃんも店に居た。
「来たか。牛!...入門用の教則本も、ケースに入っている。音をチューニングしておいたから、ドレミファの位置から、覚えるんだな。一週間後から、仕事だぞ。ステージに、四人で上がるぞ」
と言った。
お母さんも、笑っている。
「大変だ。こんな大きなの。牛ちゃん、弾けるかねえ」
ケイコちゃんが、驚いた声を挙げた。
私は、絶句の他はなかった。
カウンターに、立っている訳ではない。ステージに立つのである。
ステージというのは、そこにいる客が観るための場所である。
私は、ただただ、
「...」
呆然としていた。
部屋に持って帰るといっても、持つのも初めてである。
「カオ。手伝って、運んでやれ」
と、バンドリーダーの“お父ちゃん”が、笑いながら言った。
客の芸者衆が、これに驚いて、
「え?牛ちゃんが弾くの?嘘でしょ」
とシゲシゲと大きな楽器を見つめた。
これが、私の、次の人生である。
音楽家のスタートだったのである。
私の人生は、ある日、突然、否定のしようもなくやってくる。
一週間後、私は、バンドのユニホームを着て、ステージに立っていた。
「ともかく、リズムだけは合せて、音程は、気にするな」
とピアノと、ドラムの間に立たされた。
ベースの弦を弾じいていると、先ず、指の皮がむけてくる。
痛いのを通り越して、脳が悲鳴を上げる。
ワンステージ終えると、バンソーコを指に巻きつけた。
この痛さとの戦いは、一週間以上は続いた。
お父ちゃんの新人の育成法は、先ず本番にたせることであった。
二人の義弟も、そうだったのである。二人とも同世代であった。
ドラムスが長男で、次男がテナーサックスであった。
ドラムスが、ベースをカバーするために、バスドラを大きく鳴らしてくれた。
デビューの日は、心配でならなかったのであろう。
ケイコちゃんと、“カホル”(と呼ぶようになっていた)が、駆けつけてきた。
客の視線を引きつけるために、何曲も歌を唄ってくれた。
“オヤジ”(と呼ぶようになっていた)のスパルタ訓練法は、まさしく実践主義であった。
人差指と中指が痛くなくなって、足のかかのようになってくると、フォービートのジャズを演奏する。
一人づつの演奏であるベースソロもやらせたのである。
私は、ともかく、汗だくになって、滅茶苦茶に音を鳴らした。
部屋に帰ってから、私は、カホルに、
「凄えオヤジだよ。楽器を持って一ヶ月目だっていうのに、ベースソロだぜ。呑べえなのが、たまにキズだけど、普通、こういう教育法はしねえだろうな」
カホルは、心配で、毎晩のように、ヴォーカルできていた。
「でも、サマになってきたよ」
「他人ごとにいうなよ。こっちは、もう、夢中でやるしかないんだからさ」
「じゃあ、ご褒美」
と私の股間に顔を埋めてきた。
なんだか、誤魔化されたような気になったが、ひと山越えたような気持になった。
毎日、昼間からホテルに行って、レッスンをした。
ピアノの音に合せて、音程を取る練習をしていたのだ。
私の練習熱心に合わせて、義弟二人も、二時間以上も前からきて、それぞれに、練習するようになってきた。
そのためか、バンドのアンサンブルが、メキメキと上達していった。
新婚なのだが、それどころではなくなっていた。
「月給分の音にならないと、いけないだろ」
ケイコちゃんの店と、ホテルは、そんなに遠くなかったので、練習の合間に立ち寄った。
同じホテルに入っている芸妓さんから、
「驚いたわ。牛ちゃん、本当に上手くなっているんだもん」
と言われて、とても嬉しくなった。
「必死ですから」
と私は、照れながら答えた。
カホルが、髪を結いながら、「プッ」と笑った。
「笑うなよ」
「そうよ、笑ったら悪いよ」
芸妓さんが言った。
「ごめんなさい」
カオルが詫びたが、鏡に映っている顔が、笑っていた。
幸せそうな顔に、映っていた。
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