第三章 2

小さな街のキッチンで働くようになった。

チーフとストーブ前と、デシャップ兼皿洗いがいた。

そこに、コック見習いで、私が入ったのである。

どう考えても人員オーバーであった。

デシャップの御手洗(みたらい)が、私に奇妙な話をしてきた。

「牛ちゃん」

ここでも、そう呼ばれた。

「どうして、お前が、この調理場に入ってきたのか知ってるか?」

「え?何か事情があるんですか?」

「無ければ、人員オーバーの調理場に、見習いを入れるか」

「...」

「マスターがな。株をやって、凹んだんだよ。で、『B』のママから、金を借りたらしい。高利でな。『B』のママには、お山の若い衆がしっかり付いている。ミカジメ料も、他の店よりも多く出しているらしいよ」

十軒や二十軒に、ダマで貸しているらしいとのことであった。

「わたしの、年の離れた弟がいてね。手に職をつけたいといって、コックがいいといってるの。見習いで雇ってくれないかしら。無理にとはいわないわ。借 したお金を返してともいわない。でも、月々返してくれる分が、三ヶ月分たまってるの。もう少しお金を足して、キッチン、居ぬきで買いとってもいいんだけど。そうすれば、わたしがオーナーで、代わりに弟がマスターになれるわよね。弟は真面目だから、すぐにマスター業覚えるわ」

と言われて、泣きが入ったらしい。

しかたなく、ホールの女の子を辞めさせて、ボーイからスタートさせたのであった。

これぐらいのやり手でなかったら、女手一つで、糸川に「B」は持てなかったであろう。

初子は、頭のキレる女であった。

私は、「そういうことか」と思った。

借金を踏み倒されないために、私を見張り役につけたのであろう。

(それなら、それでいい。初子ママの代りに、見張ってやろう)

チーフもストーブ前も、初子ママの弟といっても、左頬の“ヤーさん印”の傷だけで、ビビッていた。

この傷にビビらない客が、常連でいた。

姉妹であった。

話し込んでいるうちに、姉さんとは七つ位、歳上であったが、妹の方は、三っつか四っつ歳上であった。

そのうち、妹の方が、突然、

「牛ちゃんて、熱海新聞に載(で)ていたわよね。一人で九人相手に喧嘩して、左の頬を切られて、お腹も刺された。そうでしょう。バカな奴が居るもんだ。九人もいたら、普通は逃げるだろう。東京の鳥越のXX組の若い連中と仲が良かったらしい。直ぐに、鳥越から二十人ぐらい乗りこんできたらしいわね。組に関系した奴はいないかって探したらしいわ。一人もいなかったって。いたら、XX組って名門だから、大変なことになったって。一時は、XX組の鉄砲玉じゃないかって、大騒ぎだったらしいわよ。まだ、熱海に居たんだ...」

「すいません。いくところがないもんで...」

「ジョージがいっていた人でしょ。よっぽど怖い人だと思ってたら、こんな可愛い坊やだったの。ジョージに教えてやろう」

ジョージは、後で知ったのだが、姉さんの恋人で、稲川の組員であった。

「あんた、牛ちゃんといったっけ。いくつなの?」

「十九です。もうじき二十才(ハタチ)になりますけど...そんなに変ですか?」

「変じゃないわよ。可愛いのに、凄いことやるから、驚いてんのよ。ねえ、カオちゃん」

姉の方は、ケイコと言った。

妹の方は、カホ(オ)ルであった。

私の下の妹が、薫(カオル)であったので、またしても、偶然の一致であった。

二人とも、美容師であった。

両方とも、正式には結婚していなかった。

美容院が終わると、姉妹で、つるんで食事や酒場にいっているらしい。

マスターとも顔なじみであった。

その日は、「また来るわ」と言って、帰っていった。

私は、二人に、相当、気に入られたらしかった。

週に、二、三度も来るようになった。

その様子に、マスターも、

「相当、気に入られたようだね。今までは、月に二、三度だったんだけどねえ...あの二人は、美人姉妹で、熱海でも有名だよ。いろんな店のオーナーや、ママさんと懇意だしね。芸者さんや置屋のおかみさんも、沢山知り合いなんだ。お母さんが、日本髪を結っているから、嫌でも、美容院は一流どころの芸者が、髪を結いに来るんだよ」

と情報を教えてくれた。

キッチンの客の入りは、悪い方ではないのに、経営が上手くいっていないのは、マスターの株の趣味のせいであった。

株であける穴は、売買するたびに大きくなっていくようであった。

そのたびに、初子ママから資金を借りているようであった。


この頃には、カクテルが作れるようになっていた。

いつもカクテルブックを持っていて、混ぜる酒の種類を覚えるようにしていた。

ジンフィズ、バイオレットフィズ、ミリオンダラーといったモノは、カクテルブックを見ないでも、作れるようになっていた。

キッチンの一角に、バーがあって、そちらの係りもやらされていたのである。バーには、四人位が座れるようになっていたのである。

姉妹が来ると、そのカウンターの椅子に座るようになっていた。

私は、初子ママの言葉が、耳の底に残っていて、時間があると、皿を洗ったり、玉ネギの皮をむいたり、イモサラ(イモのサラダ)の、ゆでたジャガイモの皮をむいたり、キャベツを千切りにしたコールスローを作ったりと、キッチン の下ごしらえを率先してやるようにしていた。

チーフも、ストーブ前も、デシャップも、私の正体を姉妹の口から聞いて、

(ヤバイ奴だ...)

と思ったらしくて、私のやることには、一切文句をつけなかった。

肉の掃除の仕方から、フライパンの振り方も教えてくれた。

客には、お山の連中も、たまには来た。

私の顔を覚えている、者が、随分居て、

「なんだ。こんなところで働いていたのか。それより、事務所に来て、行儀でも習った方が、利口だぞ」

などというものだから、調理場にいる連中は、ますますビビってしまった。

それで、仕事を進んで、色々と教えてくれたので、言われたことは、吸い取り紙のように、覚えていった。それで、メキメキ料理の腕を上げていった。

面白いもので、後年、私がコミックスの原作者になったとき、「包丁人味平」という作品を描いた。そのときに、東京の練馬の方で、キッチン“ブルドック”という店を開いたが、そのときの経験とが、合さって、全てが、作品に活かされることになったのである。

お山の連中には、一切、逆らわなかった。

「ありがとうございます」

と丁寧に、堅気の口調で答えていた。

「しかし、牛ちゃんて呼ばれているらしいけど、あんな、人のやらねえことをやっておいて、キッチンの店員をマジにやってるんだからなあ。判んねえ坊やだよ」

「自分でも、バカなことをしたと思ってますから...かんべんして下さい」

と常に、下手にでていた。

その様子を、姉妹が来ていて、疑っと見ていた。

“お山”と呼んでいるのは、事務所が、街の山の手の方にあるところから、いつしか、そう呼ぶようになっていたのであった。


「連中が帰った後で、姉の方が小さな声で、

「ねえ。牛ちゃんは、本当に堅気で通す気なの?...」

と訊いてきた。

「勿論です。今のボクの姿、ヤクザに見えますか? 嫌いなんです。ヤクザは...絶対にやりませんよ」

「でも、その顔の傷、絶対にヤクザって見られるよ」

「判ってます。だから、人一倍、真面目にやるしかないんです」

「面白いね、牛ちゃんて。ヤクザにも、堅気さんにも、可愛がられるんだ。本当は何が好きなの?」

「ケイコさん。本当のこといって良いですか...」

「うん、言って」

「勉強がしたいんです。ボク、学校出てないですから」

「ええっ?」

ケイコさんが驚いた声を上げた.

「真面目なんだねえ...」

「真面目なのよ...チャンスがなかっただけなんじゃない」

妹のカホルさんが、普通の声で言った。

その言葉を補足するように、

「仕事も真面目ですよ。懸命に仕事を覚えようとしていますよ」

マスターが言ってくれた。

「乱暴な振舞いは、一切しませんよ」

マスターが、さらに取りなすように、いってくれた。

「自分の時間の時は、なにしてるの?」

珍しく、カホルさんが、訊いてきた。

「本を読んでます。古本ですけどね」

「どんな本?」

「乱読です。手当たり次第」

「そう...」

カホルさんが、珍しく、私のことをマジマジと見た。

その日は、カホルさんと友人の真理さんと三人で来ていた。

すでに閉店に近い時間であった。

「ねぇ、マスター。店が終ったら、牛ちゃん借りていい? ちょっと連れて行きたくなっちゃった」

とケイコさんが言った。

「いいですよ。閉店後の掃除は、みんながいますから」

マスターが許可するように答えた。

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