第二章 5

ここまで、自分の人生をここまで克明に、正直に振り返った。

普通、自分の事を執筆すると、どこか、擽ったくなるものであるが、私の場合は、エピソードが沢山ある上に、余りにも波乱に満ちたものだったので、あれよあれよという間に、十代の終わりまで来てしまった。

少し馬鹿正直に、書きすぎてしまったかなと思っている。

書きなれているせいか、フィクションの方が、気が楽なところがある。

「ああ、私は私小説家には、向いていないな」と心の中では思っている。

ど外れた、大フィクションの方が、筆が進むのである。

しかし、ここまで書いてしまったものは、行くしかないのである。


頬を切られてからも、暫くの間は、熱海に滞在した。

喫茶でボンヤリとコーヒーを飲んだりしていると、いきなり伝票を持って行って、ニヤりと笑う人がいる。

たいていの人が、その筋の人であった。

熱海では、その筋の人と言えば、稲川会の人であった。

「うちの兄貴は、面倒見のいい、情のある人だぜ。一度、遊びにきなよ」

と、何度も誘いをかけられた。

しかし、私は、何としてもヤクザにだけは、なる気はなかった。

左頬に、クッキリと刃物(ヤッパ)傷があってもである。

私のことは、熱海新聞にも載ってしまったので、多くの人に知られてしまった。

熱海は、小さな街である。人口四万人程の街なのだ。

私のことは、すぐに噂になって、広がった。


街の、とあるバーを訪ねて、「経験はないのですが、バーテン見習で、使ってくれませんでしょうか?」

と、扉を押したのであった。

私の左頬の傷を見て、

「ああ、一人で九人を相手にしたっていう」

「恥ずかしいですから、それは言わないでください」

「そう。でも、その傷があったら、この先、 カタギで渡っていくのは、大変よ」

「はい、判っています。ですから、少しでも静かに仕事に精を出していきたいと思っているんです。ママさん...駄目ですか、ママさん...」

「なにも、好き好んで苦労を買うことじゃないの。お山に行ったら、歓迎してくれるわよ」

地元の人が“お山”というときは、稲川会のことを指した。

「いえ、ヤクザにはなりたくないんです」

「決心は固そうね。うちのじゃあバーテンといったって、ビールの栓抜きくらいだからね。それより、用心棒と付け馬が主な仕事かな。ますは、浴衣の柄を覚えることね。それで、ホテルは判るのよ。ホテルに着いても、玄関で待ってちゃだめね。かごぬけするのがいるから、部屋まで付いていって、ちゃんと集金すること。あんたの顔なら、お客もちゃんと払うわ。住むところと、食事は心配しなくていいから。あっ、それから、店の二階で良いことした分は、サービス料って書いてあるから承知してね」

と採用が決まった。


土地では、糸川と呼んでいる、旧売春街であった。

現在(その頃の現在であるが)、店の二階が、そういう施設になっていて、以前と同じ形の営業が、主商品なのであった。

店では、牛込の“牛”から牛ちゃんと呼ばれた。

因みに、その昔の吉原に、「牛太郎」いう男衆(おとこし)がいた。

「妓夫(ぎゅう)太郎」と書くのだという説もある。

私は、次男坊だったので、「牛次郎」とした。

それが私の筆名(ペンネーム)になったのである。


取りあえず、住居と食事の心配がなくなった。

先ず、市內地図を見て、旅館、ホテルの場所を頭に叩き込んだ。


しかし、私の人生はつくづく、流転の人生であった。

くり返しになって恐縮だが、生きるの中に三苦ある。

「生老病」の三苦である。

本当に、生きるのにアップアップしている。

先の希望もない。

これが、生苦だろう。

喰うことと、寝ることに、いっぱい、いっぱいのこうした中、「貧、ジン、痴」の三毒が“煩悩”を生みだす。

生苦の中に、老苦と病苦が産まれる。

性欲も、貧であるかもしれない。

邪まな性であるなら“貪”である。

だが、私には性の経験はない。

童貞である。最近はチェリーボーイという。


店には、ママさんは外して十名のホステスがいる。

天女である。

「住む所を見ておくかい」

とママに言われて、二階に上がっていった。

まだ明るいのに、黙々と“仕事”をしているものがいた。

二階の廊下の突き当りに、梯子が掛かっていた。

階段と梯子の中間のような感じであった。

そこに、広々としたスペースがあった。

屋根裏には違いないのだが、私にしたら、デラックスなスペースであった。

私は、貧、ジン、痴の三業、三悪を一つにした、最悪の“心毒の海”を無目的に渡っていたのであろう。

だから、希望もないのだ。

ひたすら、生きることだけで、精いっぱいであった。

だから、仕事の目的もない。

人生のトンネルを這い廻っている。暗闇だ。立って歩くのは危ない。

トンネルのどこに、ぶち当たるか判らないからである。


現在だってそうだろう。

私の十代のときに、生き写しのような人生を送っている若者は沢山いる。

渋谷のセンター街の道路で、車座になって座り込んでいる若者たち。

批判するのは簡単だ。誰にでもできる。

テレビのコメンテーターが、誰にでも出来るようにである。

しかし、恐らく、彼ら若者たちは、今夜、帰るところも、寝るところも、ないのである。

誰が宿舎を提供するのか。

一食の食事を、食べさせてくれるのか。

テレビのワイド番組で、善人のような、教科書に書いてあるようなことをしたり顔で述べる輩には、到底、彼ら若者の気持は判るまい。

たった今、“心毒の海”で溺れているのである。

芥川の“蜘蛛の糸”のような、天空から“糸”は、たれてこない。

仮に、“心毒の海”に、一枚の舟板が、浮いていたとしても、運の良い奴しか掴まれない。

しかし、私は、ネットカフェで泊っている者にも、同情はしない。

この間、テレビで部分的にしか観ていないが、石原慎太郎氏の次男の良純さんが、

「オヤジの名前だけで、仕事が来る訳じゃないですか。待っていたんじゃだめですよ。やることは、沢山あるんですよ。事務所の人と一緒に、番組のプロデューサーの所を廻りましたよ。あいさつにね。それで仕事を貰えるんです」

と言っていた。

「本音だな」と思った。「良いことを言う」とも思った。

私は、石原慎太郎氏のファンだった。

勿論、「太陽の季節」の小説を読んだし、映画も観た。

小説の方が、映画の何倍も良かった。

「ファンキー・ジャンプ」は、ジャズの各楽器の音色が聴えてくるようであった。

「完全なる遊戯」は、日本で、初めての、本格“ハードボイルド”作品であったろう。

ただ、読み方を間違えると、危険である。

まさに、“完全”に“遊戯”なのである。

後に起った、コンコリート詰め殺人事件が、ふっと脳裏をよぎったが、作品と、事件は、まったく似て非なるものであった。

この作品も、日活で、映画化されたが、小説が無残に打ちこわされていた。

元々、あんなハードボイルド作品の真意をくんで、映画化出来るとは思わなかったが、見事に的中して、作者には失礼だし、作品の品が落ちる。

ファンタスティックなまでに、透明な、ハードボイルドな作品なのである。

後年、彼は、政治の世界に転身されたが、そちらの世界に、私は興味がない。

話があらぬ、余談に向いてしまったが、元々、これといった構成を立てての原稿ではない。

思いつくままに筆を進めている。

八十才の老人のわがままと思って、お許し願いたい。


十代の頃は、いつ死んでもいいと思って、バタフライ・ナイフをお守りに、捨てバチに生きてきたのに、肝心なときに、ナイフを忘れて、逆に、左頬をハスられて、“ヤーさん印”を付けられてしまった。

しかし、その傷のお陰で、バー「B」のバーテンダーに、やとわれたのである。

それにしても、八十才まで生きるとは、思わなかった。

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