第二章 4

もう、十五才になっていた。

自分の身を守ってくれるのは、たった一本のバタフライ・ナイフだった。

他人に使ったことは、一度もない。

しかし、常に、ポケットから取り出して、二本のサヤが、そのまま柄になるのを練習していた。

邦題「暴力教室(ブラックボート・ジャングル)」という映画がヒットしていたので、町屋の映画館で観た。一人だった。

なに気なく、京成で日暮里に出て、国鉄(まだJRではなかった)に乗り換えて、御徒町に出た。

駅から鳥越の方に、ブラブラ歩いていた。

すると、二十代のらしい若者が近付いてきた。

らしいというのはチンピラらしいの意である。

こういうときには、気をつけなくてはならないことがあった。

二人だけだと思ったら、大間違いなのである。

さりげない形で、数名の仲間が、散っているのであった。

二人は、囮にすぎないのである。

私には、金品をたかられても、金はなかったし、彼らが“ケーチャン”と呼んでいる腕時計しか付けていなかった。

彼らが、更に近づいて来る。

(来たな...)

と、気負いもせずに思った。

「坊や。何しに来たの?見ない顔だね」

「日暮里だからね。たまには違う街も散歩したいじゃない」

「散歩賃だす気はしない?」

「金なんか、どこにもないよ。日暮里って言ったら、貧乏の代表じゃん」

「さっきから、ポケットに手を入れているけど。何持ってるの?」

「よく見るやつだよ」

「出してみなよ」

「いいよ」

と言って、バタフライ・ナイフをいつもの練習通りに、自分で言うのも変だけれども、手練の早業で取り出した。

一瞬、彼らも沈黙したが、

「いい捌き方だな...」

と褒めておいてから、

「でも、その道具、刺せないよ。こういうのでなくちゃ」

上衣に隠して、白鞘のドスを少し抜いて見せた。

「と...凄いね 本物、初めて見た」

「お前、面白い奴だな」

「オレらぐらいの歳じゃあ、メリケン(指にはめて使う鉄製の喧嘩道具)もないの。ステ(素手)喧嘩(ゴロ)だから、そんな恐ろしいもの持ってたら、組の人と思われちゃうよ。だから、バタフライぐらいで、丁度いいんだよ。まだ、一度も使ったことないけどね」

「日暮里じゃあ、ちょっと遠いけど。組は、坂部組だよなあ。鳥越はXX(知っていても、現存するので、執筆は無理である)だよ。知ってるか?」

「名前はね。有名だもん」

「お前、大当に面白いな。ダチ(友達)になるか? オレたちも、たまには日暮里に行きてえじゃん」

「ガラの悪い街ですよ」

「そうか。オレは石田、こっちは松川。鳥越に来たら、顔見せなよ。で、いくつだ」

「十五っスよ」

「中坊か...「

「ええ。面白くないッスよ。片親だしね」

「オフクロさんか?」

「オヤジ、ス...二人暮らし...」

「フーム。親孝行しろよ」

らしい連中に、お説教されて、無罪放免であった。

この頃、日暮里の家を売って、根岸の間借になった。

私たちは六畳間であったが、隣りに、東大の助教授が住んでいた。

少し、足が不自由であった。

経済の助教授であったが、

「私がやってきた学問をやっては、駄目だよ。本を読みなさい。どれを読んでもいいよ」

と文庫の山を見てくれた。

薄い本を借りた。『共産党宣言』であった。

その文言を学校の社会の時間に、頭から丸暗記していたのを大きな声で唱えた。

「怪物が歩いている。ヨーロッパを共産主義という怪物が歩いている」と唱えたら、島田先生が青い顔になって、

「牛込!止めなさい!」

と叱られた。

「今唱えたのが、何だか知っているのか?」

「はい。共産党宣言です」

「誰に習った」

「薄い文庫を借りただけです」

「誰に?」

「東大の先生です。隣りの部屋に住んでいます」

「駄目だ。その東大の先生から本を借りるのも止めなさい」

島田先生は本当に驚いたようであった。

その経緯を東大の先生に言って、社会科の先生に叱られたと伝えた。

東大の先生は、大笑いして、

「な。言っただろ。私がやっている学問をやっては駄目なんだ。いったことが、判って良かった。もう本は貸さないよ」

と微笑していった。

私にはよい人だったのに。


年齢とともに、グレ出した。

鳥越にも遊びにいった。

皆んなが、「坊や」「坊主」と可愛がってくれた。

背中の刺青も見せてくれた。

それを見て、

「凄い!-」

感心した。

「坊やにゃあ、また早いな」

と言われて、頭をポンと叩かれた。

こんな付きあいが、しばらく続いた。


後年、私が十九才になったときに、熱海で、九人を相手に一人で喧嘩をした。

理由は、私が白い皮ジャンを着ていたのが、生意気だとインネンをつけられて、熱海の海の防波堤に押し付けられて左類をハスられて、腹を刺された。

このことを電話で、鳥越に伝えた。

私は、組員でも、準構成員でもなかった。

組のマスコットみたいにして、可愛がられていたのである。

「なに、坊やが一人で、九人を相手にして喧嘩(ゴロ)まいて、相手は九人もいる上に、ヤッパで、ハスったのか!-」

これで、ダチたちが一気に頭にきて、仲間が大挙応援にきた。

当時、熱海は稲川会が、錦セイ会といっていた頃であったと思う。

その後、すぐに稲川会となった。

その力は、任侠界でも、大きな力になっていた。

従って、私と喧嘩した九人の中の一人でも、稲川会の者が入っていたら、とてもではないが、ややこしい話になってしまう。

ダチたちは、一人も組員になっている者はいなかった。

手分けして、九人を探しだした。

幸いに、稲川会の者は、一人もいなかった。

一人づつ、各個撃破していった。

犯罪者になるか、金銭で片を付けるしかなかった。

東京からは、倍の人数の友達がきていた。

九人の者たちは、身を縮める他はなかった。

金を払うのが嫌だというなら、頬をハスって、腹をさされるしかなかった。

私の左類の傷は、相当に大きくて目立った。

「この先、この若さで、この傷で、カタギで通せますかね」

殆んどが、金額の交渉になった。

ごねる両親がいると、

「弁護士の先生にきてもらおう。刑事事件にもできるんだから」

といって、電括をかけに行こうとした。

すると、その段階で、親が金を支払った。

九人分の金が入ると、結構な金額になった。

その金で、浅草に出て、一気に散財してしまった。

誰かが、

「金がなくなる前に、記念に腕時計の一個も買っておけよ」

と言った。

「セイコーでいいよ」

と私が言った。

私は、時計に興味がないのか、八十才になるまで、セイコーの安物の時計以外の時計を身に着けたことはない。

腕に巻いている時計で、その自分を判断するという考えは、私には一切ない。八十才になっても、それは一切変わらない。

悪銭身に付かずで、一気に遊びたいと思った。

セイコーの時計が、一個残った。

八十才になったら、左類の傷も、殆んど判らないまでに消えた。

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