第二章 3

父は眠っている。

私は、七輪で、飯を炊いていた。

「そうか二人なんだな...頑張れよ」

と励ましてくれて、島田先生は帰っていった

大の大人が、息子に飯を炊かせて、自分だけ眠っているということはありえない、と島田先生は敏感に察したのであろう。

その島田先生は、職員室で、私の顔を遠くから、穴の開くほど見つめていた。その視線は、私にも強く感じられた。

英語教師は私の言葉に、呆気に取られていたが、やがて正気に戻って、「仕方がない。家庭の事情もあるんだろう。教育って、お金が掛かるからな」と無感情に言って、「結局、就職ってことになるんだな」と頷いて、笑いながら言った。

「はい」

答えながら、英語教師の面を引っぱたいてやろうかと思った。

見かねたのか、島田先生が立ってきて、

「牛込クン。心配するな。高校は行けるよ」

と言って来た。

英語教師が、一瞬、ぎくっという顔になった。

「なんらかの救済方法があるはずです」

島田先生が、英語教師に言ってくれた。

「それよりも、おめでとう。良く難関を突破してくれたな」

島田先生が、満面笑みを浮かべて、祝ってくれた。

国語の先生と理科の先生も近いて来た。

国語の先生には、宿題の作文のときに、二百枚の小説を書いて、驚愕されたことがあった。

元寇の乱の下級の武士の苦悩を描いたものであった。

国語の先生も、理科の先生も女性であった。

理科では、「メンデルの法則」について、メンデリズムも、突然変異を解明できないかぎり、科学の到達点とは言えないであろう、という論文を書いて提出した。

その論文は、荒川区の区長賞を貰って、掲示板に張り出された。

それで、二人の先生とも、私に強い印象を抱いていてくれたのであろう。


どういう形で入学金が出たのか、私は全く知らなかった。

「入学おめでとう」

英語教師の代わりに、島田先生が来て、私の手を握ってくれた。

他人に、こんなに祝福されたのは、初めてのことであった。

しかし、通学出来ないものは出来なかった。

就職組で、中卒就職しておけば良かったのである。

今では、学徒援護会に頼って、その日暮しであった。

年に一度ぐらい家に帰った。

よりがもどった両親を含めて、八人暮らしといいたいところだが、祖母は亡くなっていた。それで両親のよりが戻った面があった。

離婚を母に勧めたのは、祖母だったのである。

真夜中にふと目覚めると、母が声を忍んでいるのが聞こえた。

全員、雑魚寝だったのである。

父も動きが奇妙であった。

それが夫婦の営みであるのをすぐに悟って、私は、寝ている振を続けた。

(良かった...)

と思ったが、私の股間までが、とんでもなく緊張してしまった。


翌日、また家を出た。

渋谷の美人喫茶に働きに行った。

いや、これはとんでもないところにきたと、初日からげんなりした。

「美人は、美人が商品なんだから、女性が歩いたりしているときの動きを絶対に邪魔しないでください。それと、美人に見惚れるような顔をするのも厳禁です。ボーイは、黒子に徹した雑用係です」

と就業前に、支配人から厳命された。

勿論、美人と私との私語など論外である。

支度部屋は別である。

ライトが沢山付いた鏡が、三面ある。ロッカーも付いている。

しかし、ボーイは、自分が寝ていた布の上で、制服に着がえる。

宿舎といったら聞こえがいいが、倉庫であった。

布団に密接して、グラニュー糖、コーヒー、ストロー、ジュースの大びん等々が、投げ込まれてある。

甘いものだらけなので、蟻が行列で這っているのである。

「ここで寝ろってか...」

屋根裏部屋なので、立つことも出来ない。

一晩で、蟻に喰われて、手、足、腹が、真ッ赤になった。

美人の支度部屋には、トイレが付いている。

あこがれの商品が、トイレに入るのを見たら、客はがっかりするであろう。

だから、支度部屋にトイレが付いているのである。

店が終ってから、美人の支度部屋の掃除をするのも、黒子の仕事である。

トイレも掃除をする。

きれいに使ってくれるなら良いのだが、美人の正体見たりである。

大便が便器の縁についていたり、女性特有の生理用品が汚物入れから、はみ出していたりで、「何が美人だ」と思いたくなる。

大衆浴場の人から、聞いたことがある。

頭髪、体毛、陰毛で流しの流れ口が詰まるのは、圧倒的に女風呂であるという。

それが身に染めて判った。

糞を拭いて、汚物を整理して、訳の判らない毛を拭い取るのである。

しみじみと、女が嫌いになりそうであった。

食事は、朝、昼の分でトースト二枚、夜はスパゲティー・ナポリタンが一皿で終わりである。

一日でやめたくなったが、一週間の契約である。

途中でやめたら、援護会の方に、クレームがいく。

それが、自分で自分の首を絞めることになるので、一週間、指を折って我慢した。

一週間経って店を出たときに思った。

「刑期を終えて、刑務所を出るのって、こんな気分かなあ」

求人ホールで、ジャリトラの 上乗り仲間に会った。

「美人さんの方はどうだったい?」

「いや、ジャリトラの方が、体はきつくても、精神的に楽だよ。なにが黒子ですからだよ」

「矢っ張り、そう思ったか。オレも前に行たんだよ」

「え?」

「何で一週間か知ってるか?」

「どういうことですか?」

「一週間が限界なの。それ以上は逃げ出すんだよ。で、一週間づつ、援護会に頼んでいるんだよ」

「そういうことか。納得がいきました」

「もっと凄いのがあるぞ。日当は良いけどな」

「なんですか」

「トルコ風呂の(後のソープランド)のボーイとな、ラブホテルの部屋の掃除だよ。いくら日当が良くても、行くもんじゃあないぞ。人生自体が、小汚く見えるようになっちまうよ」

「成程なあ」

「君は高校生だろ。大学三年のオレが言うんだ、間違いないよ。美人の方は、良い経験になるかなと思ったんだよ」

「ありがとうございます」

素直に頭を下げた。

「どうだ。気分直しに一丁、上乗り、行ってみるか」

「はい」

上乗りは、日当は良いのである。体は疲れるが、健康的であった。


が、その日、とんでもないものを目撃することになった。

男対男の、命がけの喧嘩である。

砂利を運ぶのは、殆んどが、道路工事の現場である。

理由や、原因は一切判らない。

二人の男が、真っ向から対峙していた。

双方の体から、殺気が充満していた。

一人はツルハシを上段に振りかざしている。

下り降ろしたら、相手は死か、致命傷を負うだろう。

しかし、もう一人は、バケツ状の器に、煮えたぎった、アスファルトに使うコールタールを下からぶち撒ける構えを見せている。

これを被ぶったら、単なる火傷ではすまない。

死ぬだろう。

二人の顔面は、火のように燃えている。

作業員同士の、何だかのぶつかり合いで、ここまでエスタレートしたのであろう。

すると、現場監督と覚しき人物が、マリのように駆け込んできた。

「や、やめてくれーッ!二人共、やるんだったら、オレを殺してからにしてくれ!な、話せば判る。やめてくれ、この通りだ」

監督が、その場で土下座した。

「どうする?」

ツルハシが聞いた。

「そちらが引くなら、オレも引く」

コールタールが答えた。

「一、 二の三で、道具を降ろしてくれ」

「判った」

「いいだろう」

「一...二...の三!」

監督の声で、二人が、同時に道具を地面に置いた。

他の二人が、ツルハシと、バケツ状のものを遠くに運んだ。

「いい根性しているな」

ツルハシが言った。

「あんたもだよ」

とコールタールが応じた。

「この歳で、こんなことをやってんだ。生きていても、たいした希はねえや」とツルハシが言った。

「お互いだなあ。オレは天涯孤独だ。死んでも泣いてくれる奴もいねえ...」

「監督。心配かけてすまねえ。もう、わだかまりはねえよ。む...砂利トラのお兄ちゃんたち、足がすくんだか?」

「...」

コクンと私が頷いた。

すると、

「どれ、砂利降ろし、手伝ってやるよ。兄弟、一緒にやろうや」

コールタールが言って、

「よし!」

とツルハシと、トラックの荷台に飛び乗った。

四人で、砂利を降ろした。

早かった。相手の二人は、プロだった。

砂利降ろしで、二人の気持も溶解していったようであった。

帰りの運転席は、三人とも無言であった。

「生きていても、たいした希はねえや」

ツルハシが言った一言が、私の胸にズシリと響いて、胸の奥に沈殿した。

すると、相棒が、心がひびいたように、

「希望か...」

と溜息のように呟いた。

この時期の私は、蟻地獄のような、這い上がりようのない、生活の只中に居た。

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