第二章 2
家を出た。
私が居ない方が、家族が丸くなれるのだ。
話は、七・八年飛んでいる。私は、高校一年であった。
殆ど通学していない。
都立上野高校であったが、学費が払えなかった。
中退というよりも、除籍処分になっているのではあるまいかと思う。
従って学歴は中卒ということになる。
高校入って、一番助かったのは、学校の生徒証であった。
これで、当時は九段にあった、学徒援護会に出入り出来たことであった。
寮があって、とてつもなく安い。
時には、無料(もぐり)で入り込んで泊まれたのである。
そして、職業紹介もしてくれた。
殆どは大学生であった。
高校生というのは、私以外で、会ったことはない。
食堂も安かったし、床屋もあった。
丸坊主であったので、超安値であった。
現在では、武道館の建っている辺りかもしれない。学徒援後会があったのは。
募集している、会社、職種、賃金などが、募集のあった順に張り出されるのだ。
採用は、 応募した順である。
従って、遅くたる程、割の良い仕事はなくなっていく。
それこそ、一日中、プラカードを持って、指定された場所に立っていればよいというのから、砂利トラックの上乗りというのがあって、これは体力的にきついので、誰もが避けたがった。
当時、トラックの荷台の横腹を開いて、角スコ(角スコップ)で、四トン車一杯分をニ人の上乗で、下ろすのである。
トラックの運転席には、三人乗れるのであるが、ドライバーは、絶対に荷下しはしない。
従って、二人でやることになるのである。
これをやると、翌日、体が使いものにならなくなる。
相方は、大学生である。私も大学生のふりをしてやる。
相方とは本当に仲が良くなる。
汗をかいた仲というのは、特別の仲になるようである。
職業紹介所のホールで会ったりすると「よおーッ!」と共に声を掛け合ったりする関係になる。
「何か良いのあるか?」
「ええ、今応募したんですけど、宿舎、食事付きで一週間でというのがありました。渋谷ですけど」
「ほう。で仕事は?」
「美人喫茶店のボーイです」
「美人というのにつられたな」
「そ、そんなことないっスよ。飯と宿舎付につられました」
「成程。行って来いよ」
と笑って背中を叩かれたりした。
正直いって、こんな、その日暮らしをやっていると、次第に、気持ちが荒んでくる。
学徒援後会仲間はできたが、友人の出来ようがなかった。
学校の方は、昼間学校から、定時制(夜間部)に移った。
生徒証がないと困るのである。
その頃の証明用の写真を現在でも持っているが、疲れた顔をしている。
痛々しい顔である。
「この顔で、精一杯生きてきたんだな」
と思わず、うめきたくなる。
しなくていい苦労は、しない方が良い。
子供の頃から、ずっと働きづめではないか。
「中学二年の担任の先生は良い人で、午後になると、私の名を呼んで「...仕事だろう。帰っていいぞ」と言ってくれた。
そうだ、島田先生と言って、社会の先生であった。
島田先生と対照的だったのが、三年の時の担任の教師で、今でも人間的に好きになれない。
三学期入ると、進学する高校と個人の名前を言う。
学力で、試験が合格(うか)るかどうか判断して、高校をあてはめていくのである。 私が通っていたのは、荒川区立第八中学校で、一級(クラス)七十人名で、K組まであった。七百七十人である。一学年だけの生徒数である。
まあ、正直に言って、ワルガキばかりの典型的な下町の学校である。
後に、生徒が多すぎると思ったのか、第十中というのが出来て、二校に割ったと聞いている。
当時は学区制で、八中は、第五学区に入った。高校の区画である。
当時は、都立で上野高校、私立でカイセイが難関とされていた。
その英語教師(名前も忘れた)が、名前を呼んでは、高校の名を告げていたが、私の名を呼んだあとで、
「ああ、お前は就職組だったな」
と、あからさまに、小馬鹿にしたように言った。
その言い方に、私の反抗心が、ムラムラと湧き上がって、瞬間的に、
「いえ、高校の試験受けます」
と答えていた。
「受けるって、どこを...」
「上野高校です」
余端に、英語教師が、笑い出した。
「そうか。上野高校か。いいだろう」
結果から記すと、七百七十人の生徒の中で、上野高校に合格したのは、たった三人であった。
何の因果か、三人中に、私が入ってしまった。
合格したあとで、私は職員室に行って、
「上野高校、取消します」
と大声でいった。
「就職します。入学金も払えませんから」
そこに、島田先生が居た。
穴のあく程、私の顔をみつめていた。
島田先生は二年生のときに、長期欠席して、仕事をしていた私の家に、心配をして、訪問してくれたことがあったのだ。
夕方であった。
その時に、私は、例によって、七輪で飯を炊いていた。
「ご家族は?」
「オヤジだけです」
「お父さんは?...」
「寝てます。胃腸が調子悪いみたいで、パンシロンを服(の)んで、時間があれば寝ています」
その時の私は、「博奕好きの、なまけものが」と思っていた。
しかし、私は父の四十才のときの子供であった。
従って、五十才を起えた年令になっていたのである。
そして、六十才で、癌で死んだ。
それは後に判ったことである。
その頃、胃癌の初期だったのであろう。
そんなことは、中二の私には、判るはずもなかった。
十年弱で、治療薬はパンシロンだけで、死んだ。
ただ、オヤジが、ただのと博奕好きのぐーたらではないと知ったことがある。
家の前に、小さな雑誌をやっている会社があって、仕事を依頼れたたのである。
オヤジは「仕事だ」といって歓んだ。
しかし、その仕事は、大八車に雑誌をうず高く積み上げて、それを上野の荷物の受け渡し場まで運ぶという、通常の人なら断る仕事であった。
上野駅の貨物の受け渡所は、山の上にあるの
だ。
そのためには、車坂といいたと思うのだが、急勾配の坂を上るのである。
これは馬でも無理」
と私は言った。
「見てろ。 とうちゃんの本当の力を見せてやる。人間、やって出来ないことはないんだぞ」
そのときのオヤジの顔は一生忘れられない。
心配なので、私も付いていった。
やがて、オヤジが大八車を引き出した。
上野の急勾配の坂までは平坦である。
しかし、通りすがる人は、たいてい、その荷物の量に驚いていた。
オヤジは、ぐいぐいと大八車を引張っていく。
馬かと思う程である。
私も新聞配達のときの紐を持って来ていた。
坂になったら、紐を大八車に結んで、引っ張るつもりであった。
やがて、「坂」にきた。
私も紐を大八車に掛けて、肩に紐を喰い込ませた。
「とうちゃん、いくぞ!」
「よーし!行くぞ...」
雑誌を山積みした大八車が、軋んで、坂を上り始めた。
少しでも下ったら、負けなのだ。そのまま転倒してしまう。
オヤジは一歩々々、大地を踏みしめるように、シッカリと上っていく。
私は、オヤジの足の動きに合せて、肩が千切れそうなまで引っ張った。
大八車は、少しでも力をゆるめると後退してしまう。
父子で、呼吸を合わせて上っていく。
一歩も退(さが)らなかった。
(あと少し...あと少し...)
すれ違った人は、誰もが驚いた。
(とうちゃん!あと少し...)
私も、けん命に足を踏みしめて、大八車を引いた。
紐がピーンと張っている。退(ひ)たらダメだ。
オヤジは、流れる汗を拭おうともせず、ひたすら、前に向って進んだ。
オヤジが軍隊で、特務兵曹長になった、その訳が判ったような気がした。
現在(いま)思えば、あの坂は、「父子の坂」であった。
「キー坊(とオヤジは私をそう呼んだ) ... あと少しだぞ。気を抜くな」
やがて、大八車は坂を上り切った。
後の道は、平坦である。
「うなぎを喰わせてやるぞ」
「うん」
私は、涙が出るほど嬉しかった。父子で坂を上り切ったことである。
(このことは忘れない)
と思った。
この時、すでに父は、胃癌の初期だったのである。
父は、私に、“何か”を残したかったのかも知れない。
父と子にだけ判る、なにかを。
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