第二章 1

私の小学生の頃は、すこしでも働いて家庭を助けるという少年が多かった。

職種は、牛乳配達か、新聞配達であった。

私は、まだ自転車に乗れなかったので、牛乳配達はできなかった。

それで、新聞配達を始めた。小三の頃であった。

私の配達区域は、根岸から、三河島まであって、一番区域が広かった。

配達するのは、三百部で、三百部の新聞を肩から掛け紐一本で、小脇に抱えて小走りに走って、配って行くのである。

歩いていたら、とうてい朝刊の時間に配り終わらない。

当時は、朝日も、毎日も、読売や他の新聞も、一つの新聞店で配っていたのである。

巡路帳というのがあって、出発前に、その作業をやらなくてはならない。

そうしないと、希望している新聞が、配れなくなってしまうのである。

この組入れを間違えたら、すぐに購読している家から、文句が入ることになってしまう。

三百部の新聞を紐一本で、小脇に抱えると、その重量は、大変なものである。石肩が痛くなる。

それでも、毎朝、夜が明けないうちから、新聞店を飛び出していく。

四時に出て、配り終わるのは七時頃になる。その間走りつづける。

現在の小学校の子供たちに、毎朝、この仕事をやれといったら、できるであろうか?

私たちは、やらないと、家にお金が入れられないので、やらない訳にはいかないのである。

確か、月に三千円ぐらいであったと思う。

五年生位のときには、もっと稼ぎの良い仕事はないかと思って、仕事を探し始めた。

日暮里の辺りは、城北工常業地帯で、小さな工場が密集していた。

私が仕事を探し当てたのは、「サクマのドロック」の缶を作っている工場であった。

ご主人も含めて、工員が四人しかいない、小さい工場であった。

最初は、雑用であったが、そのうちに「ケトバシ」呼ばれている人力のプレス機械を教えてもらって、ケトバシの係になった。

椅子といっても、木製の箱であったが、それに腰掛けて、足許のペタルのようなものを強く蹴ると、上からプレスの形が落ちてきて、機械の中に差込んだ鉄板に、穴を開けていくのであった。

その穴が、トロップの出し入れ口になっていくのであった。

奇妙なことに、四人の工員とも、いずれかの指が失かった。

裁断機か、電動のプレス機で、指を切断しているか、潰しているのであった。

鉄工所に勤めいたら、たいていは経験することであるらしかった。

「どんなに注意していても、ヤッちやっちゃうだよな」

と工員は笑っていった。

私も、ケトバシで、あやうく、指を落としそうになったが、爪だけで済んだ。

さすがに、私もハッとなって、

(こういうことか )

と理解した。

危険なことや、辛いことは、付きものである。

新聞配達のときでも、広い配達区域を小走りに走るのは、決して楽なことではなかった。

犬にも吠えられた。

工場にも、それなりの危険があった。

そして、その危険は、新聞配達の比ではなかったのである。

それだけ稼げる賃金も高くなるのであったから、当然であった。

私の職種は、雑用であった。

しかし、雑用と言われる職種の職域ぐらい、広いものはなかった。

仕事場內の片付や掃除から, ケトバシを踏むようなこと、更には、切断する前の鉄板を職人のところに「おい。板がないぞ」といわれる前に運ぶことなどもあって、コマネズミのように、動き廻らなくてはならなかった。

鉄板には、ドロップの写真や文字が、綺麗に印刷されてあった。

何個分かもが、一枚の板に印刷してあるので、それを裁断機で、一個分に、 先ず裁断しなければならなかった。

これは、難かしいのと、扱う機械が危険すぎるので、職人の仕事になった。

私の仕事は、その材料の板が途切れることがないように、常に職人の脇に、倉庫から運び出して、積んでおくことであった。

鉄板であった。

戸板の半分位の大きさであったから、十枚も重ねると相当に重かった。

しかも、印刷してあったから、滑りやすかった。

あるとき、一番上の板が滑って、私の手をカミソリで切るように切っていった。

当然、 手から血が吹いて、印刷してある板の上に、血しぶきが流れてしまった。

私は、甘いことに、職人から、「大丈夫か、赤チンを塗っておけ」という心配の声が掛かるのを期待していた。

しかし、頭の上から降ってきたのは、

「なにやってんだ!早く鉄板の血を拭け。血が付いたら、錆びて、オシャカになっちゃうぞ。血を拭いたら、おしろいの粉をきれいにたたいておけ」

という声であった。

私の手のことは、一切、ふれてはくれなかった。

私は、心の中に涙が溢れていたが、

(くそっ! 泣くもんか。これが仕事なんだ)

と強く思って、職人に言われた作業を行っていった。

小学五、六年生の頃のことである。

現在では、児童福社法か、どういう法律かは知らないが、小学生を鉄工場で働かせるのは、違法になるのであろうが、当時は、ごく普通のことであった。

職人が使かった、オシャカというのは、釈迦牟尼仏のことであるが、不良品を意味した。

お地蔵さまや阿弥陀さまを鋳造するのに、誤ってお釈迦さまの像を鋳造してしまったところから、つくり損ないや、不良品を「オシャカ」と言うようになった。

私の家は、私が小学校に入学する前に、父が帰ってきたが、母に言わせると、以前と、まるで人が変ってしまったというのである。

先ず、働かなくなった。

本当なら、外務省にいたのだから、勤め口は、どこかしら、ある筈なのに、勤めにも出ないで、一日中ブラブラして、競輪、競馬、パチンコ、マージャンと賭け事ばかりしていると、こぼしてばかりいた。

父は、初婚であったが、母は再婚で、姉と兄のニ人の子供を持っての結婚であった。

父にとっては、私は初めての実の子であった。

しかし、子供の時には、そんなことは判らずに育った。

姉は、現在は逝っている。

兄は、九州のどこかに居るはずだが、ニ十年以上、音信不通である。生死も不明である。

下の妹は死んでいる。

すぐ下の妹は健在であるが、年賀状が来るだけである。

父が勤務できなかった事情は、すでに述べ ている。

しかし、家族の誰も、そんなことは知たなかった。

とうとう、私が小学一年に入学する前に、離婚をしてしまった。

どういう話し合いがあったのか知らないが、私一人が、父について、他の四人は、母の方に付いて、別々の生活が始まった。

父と私の住んでいた家は、母たちが住んでいる家と同じ町内にあった。

辛かったのは、夕餉のときである。

祖母、母、兄、姉、妹二人の六人が食事をしている。

たまさか、私が母の家の前を通った。

すると、母が、

「お前は、渡辺の子だから、父さんに食べさせてもらいな。あんたの分のご飯はないよ」

と言われた。

食べたいとも思わなかった。

ただ、(何故だ)とは思った。

そして、

(私には、家族がいないのだ) 強く思った。

家に帰った。

誰もいない。

父はまた、賭博であろう。

暗い六畳程の部屋の中で、暗いままで大の字になっていた。

しばらくそうしていたが、やがて、むくりと起きあがって、土間に下り、七輪に火をおこしはじめた。

ヤカンをかけ、釜で米をといだ。

毎夜の行動である。

そのときに、はめ殺しの窓があったのだが、 そのガラス戸をコンコンと叩く音がした。

下の妹が、おにぎりを持ってきたのだ。

「これ、あたしの分だから...」

「だったら、お前が食べろ。今、炊いてるから、にいちゃんに、かまうな...」

「うん、判った」

妹が、おにぎりを置いて、帰っていった。

(俺には、家族はいないんだよ)

工場で巻いた包帯の手で、おにぎりを掴んだ。

おにぎりに、包帯の血がついた。

そのおにぎりを、炊いている、釜の中に放り込んだ。

残った沢庵と、塩をかけて飯をかき込んだ。

裸電球が一灯ともっているだけの部屋であった。

家具らしいものは、何もない。

それから九年が経ってから、父と母がよりをもどして、また結婚した。

私は、高校一年になっていた。

家族が戻った。

しかし、九年の空白は大きかった。

家族の輪の中で、私だけが、浮いていた。

小学校六年間、中学校三年間を離れていたのである。

話の輪に入っていけなかった。

私は、出来るだけ早く、家を出ることを考えていた。

いきなり、話が飛んだ感じであるが、工場の方は、手を切った日に、主人から、

「君はまだ幼くて、使いようがないので、明日から、来なくていいよ。これ今日までの分です」

と封筒に入った金をもらった。

手を切った分だけ、損をした気分になった。

帰ってきた父が、私の炊いた飯に、湯を掛けてかき込んでいた。

そして、私のズボンから、はみ出していた封筒を見つけて、「金か?」と聞いてきた。

「ああ、工場の日当。クビになったんで、今日までの分だよ」

「そうか。あのな、倍にして返すから、ちょっと貸してくれないか」

「なにするの、競馬かい」

「うん、明日は鉄板レースなんだ」

「...」

半分貸してやった。

どうせ、戻ってはこない金である。

普通に、生きているのが、切なくなる。

父は、悪い人ではないのだ。

情に、もろい人なのである。

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