第一章 4

私たちの家族は七人で、あい変わらず、父は不在であった。

家族のリーダーは祖母であった。

再び、戦災のことを述べるが、四囲は火炎の海であった。

逃げる場所も探せない。

浅草といっても広い。

現在は、千束町となっているが、元は光月町と言った。

吉原の大門から百メートル程のところで、吉原病院の斜め向いに家があった。

もろに、大空襲で焼失した。

「全員、足もとだけはシッカリとしたものにしなさい」

という祖母の命令で、私は、皮製の網上げの靴を履かされた。

ズボンの裾は靴の中に入れた。

それで家を脱出した。

すでに火炎は、四囲に迫っていた。

どこへ逃げたら良いのか。

誰にも判らなかった。

町内の人々は、三輪方面や、言問橋方面に逃げていた。

すると祖母が、六人に向って、

「ご先祖様が呼んでいる!この火をくぐり拔ければ助かるぞ!」

と呼んだ。この声は現在(いま)でも耳朶の底に、しっかりと残っている。

町内の人々が、

「バカッ!そっちは、一番燃えている最中だぞ!」

と口々に叫んだが、祖母は、

「手拭いを濡らして口をしばれ」

その後で防空頭巾の上から、用水樋の水をズブ濡れになる程、何杯もかぶった。

そして、躊躇している家族に向って、

「行くよ―――! 南無...」

と唱えて、一番初めに火炎の中に、体を突っ込むようにして、飛び込んで行ったのであった。

祖母一人を、火災で焼き殺させる訳にはいかない。

祖母に続いて、家族たちも、火炎の中に飛び込んでいった。

火炎の中で、はぐれないために、互いの手首を紐で縛り上げていた。

熱いなどというのを通り越していた。

これを灼熱地獄というのであろう。

不動明王の後背の炎も、これ程までに、熱くはあるまいなと思えた。

どれ程の時間を炎の中にいたのであろうか。

不思議なことに、炎の舌というのは、舌の先端は熱いのであるが、その根元というのは、思った以上に熱くはないのである。

やがて、火炎帯の外に出た。

外側から見ると、その一帯全てが炎の海のように映ずるのであるが、燃えているのは、帯状になっている部分だけだった。

帯状のところは、まだ燃料があるから燃えているのであって、その先は、すでに、全てが燃え尽きて、焼野原状態になっているのであった。

しかし、人間の危機心理では、まだ燃えていない街の方へと、足は向いていく。

そうなると、火炎は厭でも、燃料のある街に向っていくのである。

ともかくも家族七人は、無事に火炎の帯をくぐって、脱出してきた。

気が付くと、鶯谷方面に向っていた。

鶯谷の一角に、坂本いう街がある。

そこに、菩提寺である「正洞院」はあった。

全員が、ふと我にかえると、その正洞院の墓地の中に居た。

墓地は、石塔ばかりで、およそ燃料になるものはないのである。

住職一家は、疎開していて、寺には誰もいなかった。

そこで一夜を明かして、七人は、あてもなく焼け跡をさまよい歩いていた。

遠方には、まだ、地獄の炎が、燃え盛っているのが見えた。

しかし、火の海の中で、

「ご先祖が呼んでいる!」

と叫んで、火炎の中を突破させたものは、なんだったのであろう。

あれは、

(霊感なのか?)

だとしても、通常の霊感ではない、と八十歳になっても、あのときの祖母の“ひらめき”の謎は解けそうにない。

私には、おそらく、永遠に解けないであろう。

謎のままであった方が、幸いであるということもある。


小学校に入ってからのことである。

当時は、八才で小学校の一年生になった。

私のときから、最初に習う文字が「ひらがな」になった。

それまでは「カタカナ」だったので、カタカナをおぼえていたのだが、入学直前になって、「ひらがな」であると知らされて、大慌てで、ひらがなを覚えたのを記憶している。

学校の教員は、多くが、復員してきた兵隊が、元の職場である教員に戻ってくることが多かった。

その中の、一人の男性の先生が、東京大空襲の話をしてくれたことがあった。

「東京大空襲は、十文字作戦とう皆殺し(ジェノサイド)作戦をとったんだよ」

と、話しだした。

「東京の建物は、殆んどが木造建築で、木材と、竹と紙、障子だな。つまり、燃えやすいもので出来ているというのを低空で偵察機を何度も飛ばして、写真を撮って、研究したんだね」

そのことは、五才であった私にも判っていた。

しかし、十文字作戦というのは初めて聞いた。

まして、それが、 皆殺し作戦であるなどというのは、驚愕すべきことであった。

「先生。空襲を受けて逃げ迷っていたのは、兵隊さんではなくて、女子供と爺ちゃん、婆ちゃんばかりだったんですよ」

生徒一人が怒ったように言った。

そうだ、非戦闘員ばかりだったんだ。それを皆殺しにする。ジェノサイドというんだけれどな。兵隊は、みんなとうに避難しているんだ。本土決戦に備えるといって、温存してたんだな」

「そんなこと、出来る訳がない」

と、私も手を挙げて言った。そして、

「隊長って、馬鹿か?」

と、座りながら言った。

「先生も、そう思うぞ。アメリカは、焼夷弾を落下する前に、油を飛行機でまいたんだ。黒い雨がふっただろ。あれは廃油を混ぜていたからなんだよ」

「そうしたら、燃えやすくなる」

「東京に、先ず円陣にまいたんだ。そうすれば円の中の者は、円の外に、逃られなくなるだろう。その円の中を十文字に、油をまいて、焼夷弾で燃やしていったんだ。そうしたら、四分の一しか、外に出られなくなる...つまり、皆殺しだ。しかも、非戦闘員と判ってたんだ。この作戦を指揮した将校は、ロクでもねえ奴だ。弱いものいじめの鬼だな。何の手柄にもならない」

(成程。そうやって、避難民を追いつめていったのか)

「戦争なんて、やるものではない」

と話の終わりに、先生は、そういった。

生徒たちも、大きく頷いた。

先生は、更に世界地図を見せて、アメリカと日本の大きさを比較した。

「こんな大きな国と戦って、勝てる訳がないんだ。 戦争を始めた奴が馬鹿だぞ」

と教えてくれた。

確かに、戦争をするには、するだけの理由はあったであろう。

しかし、何も全面戦争をすることはないではないか。

途中で、 和解をする方法があったのではないか、と現在の私は思った。

武官、特に陸軍は、世界というものが、丸々見えていないのではないかと思った。

現在のヨーロッパには、それだけの力はないが、大航海時代のヨーロッパは、他国と思いっきり競争して、武力で、分捕り、植民地にしていった。

そのツケが、ヨーロッパ各地に広がっている。

移民がそれである。

属国としてきた、発展途上国の人々が、旧宗主国に移るのは、ごく自然であろう。

一応、受入れている。

誰にも止められない。

その残滓(ざんし)が、現在もアメリカで、大きな人種問題として、世情を騒がせている。

その欧米に負けじと、日本も背伸びをして、大陸への進出を企画して、その戦線は拡 大して、ビルマ(現ミャンマー)やニューギニアなどの南洋に伸長していったのである。

その拡大の仕方は、日本本土の規模からしたら、もはや、狂気であるとしか思えない。

大東亜共栄圏(一帯一路)の発想と、どこが、異なるのであろうか。夢想である。

この話を進めると、この原稿で意図していることとは、別の世界に行ってしまいそうなので、筆を止める。

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