第一章 1
“はじめに”で早々と本文で書くべきようなことを書いてしまったので、かき出しの気分ではなくなっている。
先に、東京大空襲を記している。
そこで、圧倒的に落下されたのは、爆弾ではなく焼夷弾であると記憶している。
当時、五才であった私の知恵ではない。
逃げまどう、周囲の大人たちが、叫び、怯えて口にした言葉を五才なりに承知していたものである。
一方的な米国の首都攻撃であった。
守備兵はいない、といって過言ではなかった。
制空権は完全にアメリカ軍(連合軍と称していが、被災民は、誰もがアメリカ軍と認識していて、「アメ公」とののしっていたのを私の耳が憶えている) に奪われていた。
たった一度だけ、日本の戦闘機が、一機でアメリカの双胴のロッキードに果敢に立ち向かっていったことがあった。
逃げまどっていた被災者たちが、燃え盛る火炎の中で、殆どの人たちが立ち止まって、天空を見上げた。
「日の丸だ!胴体に日の丸が描かれているぞ!」
誰かが感動に打ち震えた大声で叫んだ。
男性の声であったと記憶している。
残念ながら、五才である。私の記憶が、余りにも断片的なのは、どうかご容赦願いたい。思いついた順に書き記している。
逃げているのは祖母、母、長女、長男、次男の私、妹で次女、さらに三女の合計七人の家族であった。
第一回目の空襲のときであった。
なぜか、父はいなかった。
父は四十五才であったから、“お国”の仕事に駆り出されたのであろう。
軍隊は海軍で、「特務兵曹長」で除隊をして、外務省に、隊長の推薦で入省した。
上海総領事館に、現在思うと、武官だったのではなかと想像するのだが、重光葵外務大臣とのスナップ写真があった。
そのときは、父は夏物の麻のスーツを着ていた。
父は、英語と中国語(父は支那語と言っていた)は堪能であった。
上海にいたときは、常にモーゼルという拳銃を持っていて、「陸王」という、
ハーレイのような、日本製の単車に乗って、中国の原野のような草原を走っていたらしい。
父は、上海時代の事は、殆ど話してくれなかった。
戦後になって、日暮里に住んでいたときに、成宮という人物が訪ねてきた。
そのときは、お互いに顔を見るなり、同時に 「生きていたか」という一言を発して、男同士で体をぶつけあうようにして、激しく抱き合っていた。
二人共嗚咽して、銅像のように微動もしなかった。
彼が戦友であったのか、上海時代の同僚であったのかも話してくれなかった。 成宮さんは、父を「渡辺」と呼んでいた。
私の姓は「牛込」であるが、母の姓である。
父には、母以外の“女性”はいない。正妻である。
家族の誰も、「渡辺」を名乗っていない。
ずっと謎であった。
その謎は、私が僧侶になって、とんでもないときに判明した。
その方の姓は、記す訳にはいかないので、A氏としておこう。
縁があって、その方の奥様の葬儀を執行した。
そのつながりで、法事をご自宅で行った。
A氏は相当に年配のお方で、人命救助で、勲章を授与されていた。
法事の後で、叙勲の話になってから、A氏が、横須賀の軍港に、長年お勤めになっていたことが判った。
「戦争中は大変でしたよ」
という、A氏の言葉が、切っ掛けになって、
「私の父も海軍でした」
とつながっていった。除隊後、上海領事館に勤務していたことを話した。
ついでのように、英語と中国語が得意であったことも話した。
「だとすると、特務機関だったかもしれませんな」
「スパイ...ですか?」
私は、長年抱いていた謎が解けていくような気がしていた。
そこで、私は、自分が、ずっと父の姓ではなく、母の姓を名乗ってきたことを告げた。
その瞬間にA氏は「あっ !」と、声を上げた。
「何んです?...」
「間違いありません。特務機関です。私は長年、港の仕事をしてきましたからね。税関もやってきました。お父さんが自分の姓を名乗らせなかったのは当然です。偉いお父さんだ」
とA氏が言った。
「どういうことですか?」
私には合点がいかなかった。
A氏が真顔で、噛んでふくめるように言った。
「若いあなたには判らなくて当然です。いいですか、あなたの父さんが、上海で特務機関をなさっていたように、日本にも、大勢のスパイが入り込んでいたんですよ。税関をやっていれば判ります。大使館、領事館職員は、戦争中であっても、税関をフリーパスなんです。その職員の大部分は、特務機関、スパイです。彼らは、自国、つまり、上海にいる、日本の特務機関員の姓名は、殆んど承知していますよ。そういう仕事をしているときに、家族を人質に取られたらどうなります?...」
「...」
私は返答に窮した。
「お父さんは、戦後、これといった役所に勤めなかったでしょう」
「え、 ええ...一度アメリカのキャンプから通訳依頼であったのですが...」
「即答で断わったでしょう」
「はい...」
「戦犯を恐れて、仕事ができなかったんですよ。お気の毒なことだ。誰も望んで特務機関になど入る者はいませんよ」
「...」
「お父さんの海軍での、除隊前の位をご存知ですか?」
「確かか、どうか判りませんが、特務兵曹長とか、言っていたような気がします」
「それだ。兵曹長の上は尉官なのですが、特務が付いたら、下士官の上りの位なんですよ。将校には出来ないし、隊長は頭が痛かったと思いますよ。言葉は悪いですが、怒らないでくださいよ」
「はい」
「牢名主みたいなものですね。新米の尉官何んて屁でもありませんよ。恐らく船の中のことなら何んでも知っていたでしょう。普通ではなれません」
「それでかなあ...隊長というのか、ほかの呼び方があったのか知りませんが、その人に推薦されて外務省に入省して、いきなり上海に行かされたそうです」
「出来ておりましたな。お父さんの除隊後の身のふり方...」
「そういうことでしたか。日本の家族のことを案じていたら、上海で思い切り仕事をすることは出来ない」
「ために、自分の子供たちや家族の苗字をお母さんの姓にしておいた。お父さんの愛情と深謀遠慮でしょうな」
そのためかどうか、空襲の時には父はいなかった。
大黒柱である父親がいないという家族は、空襲のときも、沢山いた。逆にいる方が、稀であった。
首都東京の大空襲で、被害にあっていたのは、老人, 子供、女たちが大半で、ピストル一丁持たない、完全な非戦闘員だったのである。
空襲以前で、あれだけ隊伍を組んで、凛々しく大道を、大威張りで、軍靴を響かせて、闊歩していた軍隊は、一体にどこに消えたのであろうか?
私の記憶では、空襲の最中には、ただ一人の兵隊にも出会ってはいない。どこに消えたのであろうか?
後に知ったことであるが、一説には、空襲があることを、一早く察知して、軍隊は逃亡したというのである。
敵前逃亡ではないか。
戦争の情報を、一番持っているのは、他でもない軍隊なのである。
それが、一番初めに逃亡するのである。
これでは、日本も負ける筈である。
戦争は、絶対にやってはいけない。
しかし、近隣の国が、喧嘩を売るように、危険きわまりない兵器武器を持って、無法を仕掛けてきたら、自分の国は、自分たちで、なんらかの方法で、自衛をしなければならなくなる。
けれども、戦争は、最悪でも、始めてしまったら、絶対に敗戦してはいけない。 勝てる目途がつくまでは、開戦してはならない。
今後の戦争は、経済力や、人口、工業力、技術力、外交力、インテリジェンス力等々、 全ての国力をかけての、総合戦であると思う。
一番良いのは、日本の軍事や総合的な国力が、敵対する国よりも強大であることを示して、相手の国の戦意を喪失させることである。
その最大の例が、アメリカの軍事力であろう。
しかし、そのアメリカでもテロには、手を焼いているし、ベトナム戦では、事実上、敗戦しているのである。
その敗戦の後遺症は、アメリカ程の大国にも、相当の痛手を与えているのである。
だから、戦争は、やらないのが一番なのである。
なのに、日本の敗戦から七十余年で、またぞろキナ臭いものが、日本の近海で起っている。
専守防衛は、積極防衛に傾きかけている。
人は、刀を持てば、斬ってみたくなる。ピストルを持てば、射ってみたくなるものなのである。
武力、軍事力を持てば、行使して見たくなるものなのである。
愚かだ。
仏教で言う「三毒」の大がかりなものが、戦争の原因である。
貪(むさぼり)、ジン(いかり)、痴 (おろかさ)が、特定の人々をつき動かすのである。
困ったことに、特定の人々には権力というオモチャがあった。
「貪」に起因する権力は、これまでに長続きした事のないものである。
個人も国も、永遠であったためしなどない。
不変など、ありえないのである。
諸行は無常だから面白いし、哀しいのである。
さしづめて、トランプさんと、習近平さん、金正恩さんに、学習してもらえれば、まことにありがたいのであるが、無理だろう。
全員が、地球が廻っているのは自分の力であると思っている人たちだからである。
権力の愚かさを知るのは、臨終の一歩手前の時でしかないからである。
それまでは、“阿修羅界”で闘諍を展開し続けるのである。
気の休まるひまはない。哀れなことだ。
ところで、たった一機で日の丸戦闘機が、敵機ロッキードに立ち向かっていた。
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