心毒の海を渡る

牛次郎

はじめに

耳朶の奥底に、地獄での、阿鼻叫喚さながらの様子が、渦を巻いていた。

しかし、その耳の所有者である私は、まだ五才であったから、地獄がどういう所かも理解していなかった。

ただ、ひたすらに、全身が氷ついてしまうほどに恐怖であった。

それは、そうだろう。

ジェラルミン色の怪鳥のようなB29の胴体から、終わりがないように焼夷弾が投下されてくるのだ。

大人たちは、全員が、「ビー公だ! ビー公だ!」と、気が ふれたように叫んでいた。

焼夷弾だけではなく、時折り、爆弾も投下された。

このことは、嘘ではない。

私自身が、その爆弾の爆風に、吹き飛ばされているのである。

そうした合い間に、アメリカの双胴の戦闘機であるロッキードが、低空でバルカン砲の機銃掃射を見舞ってきた。

あまりに低空なので、地上から、肉眼でパイロットの顔が、はっきりと見えた程であった。

私の周囲に居た人が、バタバタと倒れていった。

ロッキードから発射された弾丸が、背中から入ると、射入口は小さく、仮にこぶし大であったとしても、射出口である腹側は、内臓を全てぶちまけたように、噴出させられてしまうのである。

長じてから知ったことであるが、機銃の内側は、ライフル状(らせん状)に刻んであるために、一発一発の弾丸は、超スピードで回転をしてくるのだという。

そのために命中した弾丸が、被弾者の体内で、嵐のように回転して、全ての内臓をえぐり出して、勿 論、被弾者は即死状態で絶命するのだ、ということを承知した。

その状態を五才のときに、 散々目撃してきたのである。

運良く生存した。間が悪ければ、その状態で死んでいたのである。

しかも、周囲は、全て火の海であった。

生存していたこと自体が不思議であった。

しかも、ごていねいに二回も空襲を受けていた。

一度目は、浅草の光月町(現・千束)であった。

言問橋の上にいた人々は、全員焼死したし、隅田川に飛び込んだ人々も、敢えなく死んだ。

その頃、私の家は、浅草と日暮里の両方にあったので、日暮里に向かって逃げた。

幸い日暮里の家は焼け残っていたのである。

しかし、二回目の空襲では、その日暮里の家も、焼失してしまったので、京成電鉄のガード下に逃げて、どうにか、難を逃れた。

全員、炎で眼を焼かれて、眼がただれて、真赤に充血していた。

手拭いを、水で冷して、両目に当てるのだが、すぐに眼ヤニで、手拭いが、ベトベトになった。

炎の中を逃げるときに、目を閉じて逃げるという、という訳には、いかなかった。それで、眼を焼かれて、しまうのであった。

薬はなにも無かった。ひたすら、両眼を洗い、冷やす他はなかった。

私は、まだ五才であったので、理路整然とした記憶というものは、勿論、なかった。

しかし、断片的な記憶というものはあった。

それを切断されてしまった。

古い映画のフィルムを、おぼつかない動作でつなげていくように、記憶と記憶をつなげていくのであるが、尚も、自分でも判然としないものがあった。

手記やドキュメントの類なども読んで、切れた恐怖の糸を、つなげていくのであ るが、その糸の色は、常に紅蓮の炎色をしていた。

恐怖の感覚を強引なまでに押しつけてくるのである。

この文章を執筆している、現在も七十五年前の恐怖の光景が、まざまざと脳裏に浮んでいる。

だからであろうか、私は、これまでの、ものかき生活の中でも、東京大空襲のことは、ことさらに、執筆してこなかった。

嫌なのである。恐いのである。

この思いも、心の毒(心毒)の一つであるに違いない。

心毒は、誰にでもある。

その人の生いたちや経験などから、心毒は百人百色である。形状や質感も異なっているであろう。

『般若心経』に説かれている。

「眼耳鼻舌身意」 の六根や、「色声香味触法」の六境。

この両方を合わせた十二界も、人によっては異なってくる。

心毒も、誰もが持っているのだが、眼に見えないものである。

私は、四十代に入ってから、仏教に帰依して、出家得度をした。

現在は、伊豆高原の小さな山寺での住職になっている。禅寺である。

とてもではないが、山寺の収入だけでは生活できない。ものかきとの兼業である。

その仏教では、始祖である、釈迦牟尼仏陀の教えの根本的なものの中に、「四諦の法門」というのがある。

「諦」は、一般では、 諦めるという意味に取る。辞書にはそのように記されている。

しかし、仏教では、真実という意味あいで用いるのである。したがって、『四つの真実の法門』と受け取るのである。

その教えの根本は、「四苦」ということから始まる。

四苦というのは、ご存じの方も多いと思うのであるが、「生の苦」「老の苦」「病の苦」そして「死の苦」で、四苦となるのである。

仏陀の説かれたことであるから、圧倒的な真実である。

私は、随分と暗い教えだなと思ったが、真実である。

人間(とは限らないが)は、誕生して「生」であり、日常の生活が始まって、これも「生」である。

釈迦は、どちらの「生」を「生苦」と定義したのであろうか、という疑問を感じた。

誕生も苦なのか。

だとしたら、人間の存在自体を否定することになるが、と疑問に感じた。

私は、現在、八十才になるが、その疑問は、いまだに解けないでいる。

経典のどこにも、そのことに対する解答の文言は見られない。 自身で、深く考えよということであろう。

確かに誕生というのは、子供を産む母親に取っては、一大事業であり、命がけのエポックなことである。

出産の苦しみは、男性には、想像で大変だとは思っても、実感を共有することは、絶対にできない。

しかし、産声を聴き、赤ん坊を初めてその胸に抱いたときの感動は、絶対に「苦」ではあるまい、と思うのである。

私は、このことを「苦」であると、否定的に捉えることは、どうしても出来ない。

けれども、それ以後の「生きて行く」「生活」となると、「生苦」を認めない訳にはいかない。

形而上でも、形而下でも、苦悩は山程あるのである。

人間関係、経済的理由、仕事上のこと、運、不運のことと、挙げ始めたら、枚挙に遑がないことになってしまう。

そして、「老苦」「病苦」は、実は、人生の範疇に入ってしまうのではないかと、思うのである。

人生となると、その範囲は、きわめて広範で、誕生から、病床での臨終が入る訳で、命の終る一瞬までが入るのであろう。

だとしたら、釈迦の言う「老苦」「病苦」は「生活」の中に入って、「三苦」は、「一苦」に集約できるのではないかと思うのである。

病床で、医師が、「ご臨終です」と宣告するまでが「一苦」であり、臨終を境にして「死苦」となるのではあるまいか。

それに、“死”から先を「苦」とはしたくないという願望が、私にはある。

むしろ“死”以後を私は、「楽」と思いたいのである。

「一苦(三苦)一楽」と邪道かもしれないが、そうした願望が、私が望むところなのである。

こうしたことも、心毒の一つなのかもしれないが、私の心毒の中には、仏教の教科書通りにはならない部分が多々ある。

私の心が、焼け跡にたくさん落ちていた、折れ釘のように曲がっているのかもしれない。

仕方がないが、それが私の個性なのである。

齢八十になって、なお、心毒で迷っているのである。

冒頭で述べた、東京大空襲でのことは、私の原点や、原風景となって、そのビジョン(映像)は、決して消えることはなく、現在も私の脳や、肉体の一部になっている。

それ故に、八十才になるまで、筆先から先に出ることはなかったのである。

拙稿では、そのことも正直に触れていきたいと思っている。

決して暗いものにはしないつもりである。

ぜひおつきあいをと、伏して懇願する次第である。

異例に長い“はじめに”になってしまった。お許しを乞う。


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