第6話

 …は?

 そう口から飛び出る間もなく、何事もなかったかのように彼は歩き出す。

 遅れないように小走りでついて行きながらチラリと顔を覗き見るが、その表情は変わらない。

 聞き間違いだったのだろうか。


「離婚してください」

 夫はため息をつきながら新聞を放り投げ、

「またその話かよ」

 めんどくさそうに吐き捨てた。

 一番最初の子になる息子を生んで1年が過ぎた頃から、私は幾度となく同じことを言ってきた。

「私は本気です。離婚してください」

「うるせえ!なんで俺がてめえの言うこと聞かなきゃいけねえんだよ!」

 まるで会話にならないことを叫ぶと、夫は手当たり次第に物を投げ、ドアや壁を殴って暴れだす。

 まだ小さな息子に危害が及ばないように、夫が落ち着くまでの間、おぶって近所をさ迷い歩く。

 何も知らずに背中でぐっすり眠っている息子は、おんぶ紐がギリギリと肩に食い込んで腕が上がらないほど重く、熱い。

 喉が渇いた…お茶を飲みたい…。

 そう思って自動販売機にポケットの小銭を入れたものの、思うように腕が上がらず飲みたいお茶のボタンに手が届かない。

 たったひとつ、お茶を飲みたいという願いすら叶わないなんて。そのボタンを押すことすら私にはできないなんて。

 ひどく、惨めだ。


 記憶はそこで途切れている。

 そのあと、私はどうしたのだろう。あのお茶は飲めたのだろうか。


 左耳が聴こえないことに気が付いたのは、それから数日経ってからだった。

 強いストレスに曝されたことが原因だと、医師は言った。

 2年ほど治療を行ったが、完全には聴力が回復することはなく難聴が残った。

 今でも、男性の低い声は聞き取りにくい。


「…で、どれがいいと思います?」

 ずらりと並んだフレームを指差しながら彼が言う。

「あ、うん。これなんかどうかな」

 その中からひとつ選んで、彼に手渡した。

 渡された眼鏡をかけた彼が、恐る恐る鏡を覗き込む。

「きゃー!なにこれアタシじゃないみたいー!」

 まるで女子高生のような彼のリアクションに、思わず吹き出してしまった。

 なんだかほっとする。

「これはどう?」

「えー、こんなのかけたことない」

 次から次へとフレームを試しながら、きゃーきゃー声をあげて笑う。

 楽しい。

 買い物って、こんなに楽しかったっけ。


 出来上がりまで1時間ほどかかります。そう言われて私達はランチへと移動した。

 ランチタイムとはいえ平日は空いている。

 どうする?何食べたい?お肉がいいかな、でもお魚もいいよね。

 そんなことを言いながら、たくさんの飲食店が立ち並ぶフロアをぐるぐると歩く。

「あ、ねぇお寿司は?平日ランチなら安いかも」

「いいねー!お寿司にしよう」

 人気があるのか、店内は意外と混雑していた。

 すぐに座れるというカウンター席に案内され、並んで腰をおろす。

「どうしようかなー」

「迷っちゃうね」

 ランチメニューです、と店員に差し出されたそれを見ながら自然と顔が近付く。

 危険な感じはない。ただ、なんとなく気が咎めて少し離れた。

 彼に対して異性を感じないと言えば嘘になる。が、それ以上にまるで気の置けない女友達といるような、いや、もっと肉親に近い、妹といるような感覚だ。

 私に妹がいたら、こんな感じだろうか。

 こんなふうに買い物に行ったり、食事を楽しんだり、きっとかわいいだろうな。

 かわいい…


 私は彼に対して、いや男性に対して、その時はじめてかわいいという感情を抱いていた。







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