テーマ:先生 もし先生がいなかったら
「先生のおかげで命を救われました、って言われるけど、実はそんなことないんだよね」
医師になった友人はそう呟いた。同じベンチの隣に飄々と座っているこいつとは、小さい頃は一緒に虫を追いかけていた仲だった。なのにいつの間にか彼だけ私立中学に入り、気づけば先生と呼ばれる職に就いていた。
「何言ってんだよ、今まで何人もの命を救ってきたんだろ。お医者さんなんだから」
一方こっちは一日中プログラムの文字列と睨めっこ。コロナ禍の中、あらゆるシーンでリモートが叫ばれシステムエンジニアの仕事は急増した。医療関係者は感謝されても、我々が感謝されることなんてほとんどない。ぽつり、目の前の外灯がついた。もうそんな時間か、と夕日にまで取り残された気がして缶コーヒーのぬくもりに思わずしがみついた。
「そうか? でも考えてもみろよ、医者なんて年間一万人くらい誕生してるんだ、俺が助けなくてもきっと誰かが助けるよ。結局俺らは数ある代わりが利くピースの一つなんだよ」
そう言う彼は美人な奥さんをつかまえて、ただいま豪邸を建築中だ。典型的な勝ち組路線じゃないか、なんて考えているとすっかり冷たくなった秋風がぴゅうと通り抜けた。
「でも俺さ、医者になってから一回だけこの先生がいなかったら絶対に助からなかっただろうな、って思った患者さんがいるんだ」
急に真面目な顔をしたかと思うと、彼はその時の出来事を夢中で話し始めた。それは彼が集中治療室で働いていた時のこと。その日もそこは救急搬送された患者で賑わっていた。ただその日の患者はいつもと事情が違っていた。運ばれてきたのは三歳の女の子で病名は心筋炎。彼が言うには心臓の風邪だそうだ。風邪だから放っておいても一週間かそこらで勝手に治る、でもその間に心臓が止まってしまうことがあるため、人工心肺装置につなぐ必要がある。それで一週間凌げれば勝ち、出来なければ死亡、という最初の対応で運命が大きく分かれてしまう病気なのだそうだ。
その子は心肺停止で心臓マッサージをされながら運ばれてきた。助かる方法はたった一つ、人工心肺装置につなげるかどうかだった。しかし、ただでさえ小さい体に太い管を入れるのは至難の技だ、それも心臓マッサージで揺れている体にだ。彼が言うにはその状況はまるで荒地を走る車の中で、針穴に糸を通すようなものらしい。彼は心臓を押しながらも今目の前に横わたるその女の子はもう助からないだろうと考えていた、そんな時だった。
「入りました」
一緒に処置をしていたとある医師の声が響き渡った。それは太い管をいれるためのワイヤーが入った、ということでそれが入れば装置に繋げられるということを意味した。声の主はその時いた医師の中でも最も器用で有名なT先生だった。彼によると、あの状況でワイヤーを入れられるのはT先生だけだっただろうとのこと。結局その後、女の子は助かって今では小学校に通っている。
もしT先生があの場にいなかったら、女の子は死んでいたかもしれない。するとその後の彼女を取り巻く環境も大きく変わっていたはずだ。いずれ出会う結婚相手は奥さんと知り合うこともなくなり、子どもが出来るのだとしたら、その一家そして子孫すべてが無くなっていた、そう考えるとその影響は計り知れない。T先生はちぎれそうなか細い人生の糸をつなげたんだ、と彼は言った。
「へえ、やっぱ医者ってすげえな。俺なんかアルファベットばっかいじってると、これ何かの役に立ってんのかな、なんて考えるわ」
秋空の下、ベンチに体を預けてみるとそのまま空を仰いだ。星が出ていた、もうみんな家に帰る時間だった。
「あ、そういえばうちの病院の電子カルテ、お前んとこの会社の新しいシステムを入れたんだ。なかなか好評だぞ、サクサク動くって」
「え?」と返事をするや否や、彼のスマホが震えた。ああすぐ行くから、そんな返事をしてから、彼は立ち上がった。
「ちょっと呼ばれたから行ってくるわ」
相変わらず忙しいな、と声を掛けると彼が急に真面目な顔をして俺の肩に手を置いた。
「なんだよ、いきなり」
「俺たちにプログラムのことは良くわからん、だからこれからも頼むぜ、先生!」
そう言ってレクサスに乗り込むと、そのまま夜の闇へと消えていった。
わからないし、考えたこともない。でもひょっとしたら、自分の作った欠片がどこかで誰かの命を救うピースとなることも時にはあるのかも知れない。
空を見上げるとカシオペヤが輝いていた。一つ一つの星は気づいていなくても、結ばれることによって大きな意味を持つことだってきっとある。俺は残った缶コーヒーを飲み干すと、日が変わらないうちに終わらせなければならない仕事をしに、再び会社へ向かった。
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