もりひさ


 渚

                          三善早葵

                                              

 乗車するはずだった電車を見送っても、健也は駅のホームのベンチから離れられないでいた。

 突き抜けた風は止み、ベンチには軋むような暑さと蝉時雨が再び染み込んでいく。日除けというには小さすぎる錆びた屋根の奥で入道雲が湧き立つ。そしてその雲の側を飛行機が横切ろうとしていた。

 ついさっきまで健也は足早に電車に入って、自分にとっての最適な位置を確保する気でいた。しかし腰を上げようとした瞬間に学生鞄も制服も着ていない自分の身体の軽さに気付き、電車が通り過ぎるまで呆然とベンチに座っていたのだ。

 次の電車が来るまで健也は夏季講習の予定表を頭の中で確認しようとした。しかし肝心の今後の予定は何も覚えていなかった。なんとなく不安になり携帯を開けてみると、親がいらない気を利かせたのか、夏季講習の予定表や塾に関係する写真は全てファイルから削除されていた。

「せっかく久しぶりにお父さんの家行くんだし、二日くらい勉強のことを忘れて楽しんでくれば」

 母親がそう言ったのは昨日健也が荷造りをしていた時だった。その荷物の中にはこれでもかと問題集が詰め込まれていた。それを母親は懸念したのだ。

「普通はそんなこと、親が言わないよ」

 健也がそう言うと母親は「そうねえ」と惚けた返事をして、健也の荷具を強引に全て没収してしまったのだ。

 次の電車は各駅停車の旧型列車だった。健也はなんとなくそれに乗った。キュルキュルと音を立てるドアを見ながら、電光掲示板のない車両に響くアナウンスを待った。

「この列車は各駅停車白浜海岸行きです。途中車体が激しく揺れることがございますのでお立ちの方は手すりにお掴まりの上で十分にご注意ください」

車体が揺れるというアナウンスは通学時の快速にはない。健也は少しだけ、そのアナウンスの意味を考えた。しかし恐らく電車自体が古いからなのだろうと結論付けて、空っぽな座席を尻目に、窓際のついたてに背中を預けた。

 ここが健也のいつもの場所だった。この地域の列車はドアの開く方向がほとんど決まっている。だから健也はどんなラッシュ時でも、開く方とは逆側のドアに立つ。そうしていれば、どんなに人が来ても目的の駅まで動く必要はない。誰にも迷惑をかけず、日常で一番他人が自分に迫ってくるこの時間を、まるで幽霊かのようにやり過ごすことができる。

 車窓から見える景色はほとんど変化していなかった。携帯や本を見ようとして、下に視線を当てると、すぐに酔ってしまう。なので健也はいつも窓の外を見ている。やがていつも降りる駅を通過した電車は住宅地を抜け、海へ通じる山のトンネルに入った。

 健也の父の家は海風が吹き抜ける日本家屋だった。健也が生まれる前は母と父が一緒に住んでいたこともあったらしい。健也自身も幼少期から父の家に行ったことが何度かある。竹の仕切りを通り抜けて、縁側に染み込む微かな波の音を健也はぼんやりと思い出した。

「終点。白浜海岸です。お忘れ物ございませんようにご注意ください」

アナウンスとぎこちなく開いた扉が到着を告げた。駅に足を踏み入れると、全く知らない、遠い異国の空港にやって来たような気がした。

床は真新しいタイルに張り変わり、健也の最寄り駅とさほど変わらなかった屋根は、円形のドーム状になって日差しを遮っている。喉が渇いて、自販機でサイダーを買おうとすると、ビー玉入りのラムネサイダーが電子パネルの中にびっしりと並んでいた。

 駅の出口から振り返ってみると、終点はもうすでにかつての白浜海岸ではないように見える。健也はそこでラムネサイダーを開けて、少しだけ口につけた。唇から離して、中の液体を見る。中身はいつも学校に行く時に飲む缶のサイダーの味とさほど変わらない。そのはずなのに透明な瓶やビー玉がサイダーと溶け合って、不思議な香りがした。

 

––––––––––––––––––––––


 父の家にたどり着くのにはかなり時間がかかった。駅前はあんなにも栄えていたのに、一度駅から出るとバス停すらも見当たらない。一応携帯を使うという手段もあったが、いまさら母親のメールなどを見るのも億劫で、結局健也は歩いて行こうと決めたのだ。

 玄関口の門には毛筆体で厳しく父の一家の苗字が表記されている。昔は母親の苗字もここに掛けてあった。しかし離婚すると同時に父方の祖父によって取り払われ、木造りの門にはセールス、宗教勧誘お断りの文字が同じ大きさで印刷されていた。

「随分と久しぶりじゃないかね」

「ご無沙汰しております」

 健也を迎えるのはいつも祖母だった。玄関に入るとまず靴を扉の方向に揃えて置き、一礼をする。

 健也がいつも最初に通される部屋は家の中央にある大きな居間だった。そこはいつ何時に来ても食事が綺麗に並べられている。そして健也が来る頃には既に父も祖父も細長い食卓の奥の方に座っているのだった。

「よく来たな健也」

 父が笑顔を浮かべて健也を席へ促す。祖父は仏頂面を崩さないまま上座の座布団の上に正座して、顔だけを健也の方に向けていた。

「結構疲れたよ」と適当な返事をした時に健也は父の隣に座る人影に気付いた。そこには顔立ちの整った制服姿の華奢な女性が座っていた。身体全体が色白で、長い黒髪を後ろの方に束ねている。通学で電車に乗る時の健也とよく似ていて、その場では幽霊でありたいという雰囲気を浮かべていた。

 父は再婚したことを健也に報告した。相手は芸術家で父の隣に座っているのはその女性の連れ子なのだと紹介した。健也は適当に相槌を打って話を聞いていたが、それ以降は会話がうまく結びつかず、祖母は台所と居間を忙しく行き来して机に食事を補充し続け、祖父と彼女はずっと押し黙ったまま食事を口に運んでいた。

 父は懸命にその彼女の話や健也の受験の話を持ち出して、台所の祖母に幼少期の思い出話をさせようとしていた。しかし祖母は耳が遠く、何度聞いても「なあに」とぼやけた返事が来るだけだった。そして上座で刺身を口に運ぶ祖父と父の隣にいる彼女は何も聞こえてないのではと疑うほど、会話への干渉を拒絶していた。

 やがて静粛な食事が終わり、父は居間を外してどこかに消えた。それと同時に祖父もいなくなり、祖母が台所で皿を洗う音だけが居間に流れくるようになった。

「その服は中学校の制服? 」

 健也がそう尋ねたのは随分長い間が空いてからだった。

「そうです。今年から一年生です」

 彼女は薄い唇を小さく開いて答えた。しかしそれ以降は健也も父と同じようにそれらしい質問が思い浮かばない。

「サイダーを取ってきましょうか」

 彼女は健也の横に置かれた空っぽのラムネサイダーを見てそう言った。健也が頷くと彼女は台所から冷えた瓶とガラスのコップを二本持ってきた。

「お母さんは絵を描いているの? 」

「絵だけではありませんが、主だった仕事はそんな感じです」

「じゃあ君も絵を?」

 少し突っ込んだ質問をしたような気がして胸の鼓動が早くなる。

「ええ、母ほどではありませんが絵描きで仕事を貰える程度には」

 この部屋に限らず家のどこを見回しても、芸術家が住み着きそうなアトリエはないように見える。大量の紙や絵具を保管しておく場所があるようにも思えない。家に来る時に健也はこの家の外観を少しだけ見て回ったが、増築された気配などは全くなかった。

 彼女は慣れた手付きでコップにサイダーを注ぎ、健也の前に置いた。いつものサイダーとは少し違う味がする。

「絵は他のところで描いているのかな?」

「いえ、パレットさえあればどこでも描けます」

「パレットだけで?」

 彼女は頷く。そして理由を説明し始めた。

「私のパレットは少し特殊で、普通のものと違うんです」

「ということは扱いが難しいんだね」

「それは私以外にこのパレットを使う人がいないのでわからないです」

 どういうことなのだろう。健也はますます不思議に思って彼女に説明を求めた。彼女は別に嫌がるわけでもなく毅然と答えた。

「私のパレットは色々な魚の鱗からできているんです。それから筆はザトウクジラの髭で作っています。だから筆は一本しかないんです」

「すごい。絵を見てみたくなっちゃうよ」

 健也がそう言うと彼女は少し悲しそうに「ごめんなさい」と言って頭を下げた。「海水に筆を入れないと色が出ないんです。昨日描いたのだけれど、一度入れた色は夜になったら月明かりに照らして海に返してあげないといけないんです」

 彼女は少し俯いたが、すぐに顔を上げて「明日も描きに行くのでその時はお見せできると思います」と付け加えた。

 それで健也は彼女と明日午前中に海に行くことになった。夜、寝床に入る前に健也は冷蔵庫で今日出されたラムネサイダーを直接口につけて飲んだ。

 瓶を空にするまでの間に健也は彼女が使うパレットがどんなものなのか、どんな絵を描くのかと考えたけれど、実像は全く思い浮かばなかった。代わりに幼い頃に父に連れられて行った砂浜の景色だけが頭の中に浮かんだ。

 飲み干して、一つげっぷをするとやっぱりいつもと違う味がする。健也の身体の中で泡音を立てるサイダーから潮の匂いが微かにした。

 翌日の夜明けは、正に彼女とパレットのためにあるような海を用意してくれた。風はなく、海には僅かばかりの波しか浮かんでいなかった。

夜は街の方向へと追いやられ、空には明るさが溶け出している。世界が最も劇的に変わる時間が訪れようとしていた。しかしそんなことは気にも留めず彼女は筆をとった。

 青色に輝くパレットは漆や化学塗料で後付けされたものではなく、何よりもパレットの輝きの隙間に見える深い皺や傷が健也の予測を確かなものに変えていた。

 彼女が息を一つ、大きく吐く。そして海の方向へと進む。足に海水が浸ると彼女はゆっくりとザトウクジラの髭を海に下ろした。さあ、怖がらずに行っておいでと毛先の一本一本に丁寧に告げているように思えた。

朝日が登り海は一瞬、揺らめくように輝く。その光を全身に受けて、彼女の手は夜明けの空に最初の一筆を描き始めた。



 

 

 


 

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もりひさ @akirumisu

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