一章 名前のない喫茶店⑥



 小さな声で「大丈 夫だね」と呟くのが聞こえて顔を向けると、どこか憂いのある表情で微笑むラムさんと、近くにいる皐月くんの姿が視界に入る。何故か皐月くんは複雑そうに眉を下げていた。

 掛け時計から木琴の音で奏でたような軽快で可愛らしいメロディが鳴る。慌てて時

間を確認すると、ちょうど十八時になったところだった。


「あの、私そろそろ帰らないと。珈琲の値段って……」


 名残惜しいけれど、立ち上がってカバンからお財布を取り出す。喫茶店の珈琲っていくらくらいなのだろうか。そういえば、メニュー表を一切見ていなかった。


「お代はいらないよ」

「え、でもっ」


 さすがにそれは申し訳ないとうろたえる。そんな私に、マスターがゆっくりと首を横に振って朗らかな笑顔を向けてくれた。


「来てくれてありがとう。今日はとっても楽しかったよ」


 本当に払わなくていいのか迷ったけれど、ラムさんと黒さんも「マスターがいいって言っているんだからいいんだよ」と言ってくれたので、素直に甘えさせてもらうことにした。


「ショーコちゃん。また来たくなったら、いつでも来てね」


 黒さんが優しく微笑みかけてくれた。


「あたしはどっちだっていいよ。来たきゃ来な。来たくなきゃ来なければいい。だってこういうのは〝自己責任〟ってやつだろう」


 ラムさんの言った〝自己責任〟という言葉が、私の胸の奥にすっと入ってきた。流されるわけじゃなく、自分でまたここに来るのか決めろということだ。

 もうなんだっていいと投げやりだった私にとって、自分で考えて選ぶという行為は、とても尊いことのように思えた。たとえ、それが喫茶店に行くか行かないかという、人によってはただそれだけのことで? と笑ってしまうくらいのことだとしても。

 自分の意思でなにかを決めるということは、尊い。


「ありがとう。ごちそうさま! あの……美味しかった、すごく」


 お礼を告げるとマスターが唇をぐっと上げて、嬉しそうな笑みで頷いてくれた。


「こちらこそ、ありがとう」


 ここはなんて優しい空間なのだろう。初めて来たのに、もうこの喫茶店が好きになってしまっている。こんな風に誰かと話すのがすごく久々だったからかもしれない。

 乾いたベルの音を鳴らしてドアを開けると、夕焼け空が広がっていた。外に足を踏み出せば、昼間よりも少し冷たい風が前髪を攫った。咄嗟に手で押さえて、前髪を元の位置に戻す。すると、カランと背後で音が鳴った。


「待って」


 かけられた声に応えるように振り返る。ドアの前には皐月くんが立っていた。そしてなにか言いたげに口を開きかけては、閉じてしまう。


「……」

「どうしたの?」


 声をかけたはずの皐月くんが、黙ってじっと私を見つめているから、妙に緊張してきた。もしかしてまた文句を言われるのだろうか。


「さっきは、ごめん」

「え?」

「店の前で」


 迷っているなら帰れと言ったことに対して、謝罪してくれているみたいだ。


「自分だけが辛いわけじゃないのにな」


 それは、消えそうなくらいに小さな声だった。


「ここには来ても来なくてもいい。……でも」


 皐月くんの黒髪の隙間から見えるまっすぐな瞳。それがガラス玉のように澄んでいて、綺麗だ、とぼんやり思った。私は彼を見つめたまま言葉の続きを待つ。


「苦しくなったら、また来ればいい」

「え……」

「きっとあの人たちは、あんたの話をなんだって聞いてくれるから」


 皐月くんがこんなことを言ってくれるのは、意外な気がした。出会ったばかりで彼がどんな人なのか全然知らないけれど、また来ればいいと言ってもらえるとはさすがに思わなかった。だから、言葉に詰まってしまう。


「そういう人たちがここにいるってこと、忘れないで」

「私に来てほしくないんじゃなかったの?」


 皐月くんが目を伏せて、それはごめんと謝った。責めたつもりはなかったけれど、その様子が少し辛そうで、聞くべきことではなかったかもしれないと後悔した。


「さっき、楽しそうに笑ってたから。来るなって言ったの、間違えたって思った」

「じゃあ、また来てもいい?」


 嫌われているのかと思ったけれど、そういうわけではなかったのかもしれない。

 皐月くんは、頷いて返してくれる。


「あんたが、来たいって思うなら」

「うん。ありがとう」


 皐月くんにそう言ってもらえて安堵した。またこの場所に来よう。そして、あの珈琲を飲むのだ。そう考えるだけで、ほんの少しだけ心が軽くなる。


「だから……なよ」

「え? なに?」



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