一章 名前のない喫茶店⑤
「で、ショーコちゃんは〝なにか嫌なこと〟でもあったのかしら?」
「え?」
黒さんはこちらにちらりと視線を向けて、オレンジジュースの入ったグラスをゆっくりと口元へ運んでいる。
まるで見透かされているみたいだった。私が答えに困っていることに気づいた黒さんが、目を細めて小さく微笑む。
「ショーコちゃん、ずっと苦しそうな表情をしていたから。なにかあったのかなって思ったの」
「……そんな顔、してましたか」
「うん、なんかもう消えちゃいたいー! って顔をしていたわよ」
指摘されたことに目を丸くして、頬に手を添える。自分ではそんなつもりなかったけれど、感情がわかりやすく出てしまっていたみたいだ。
なにを考えているのかわからないと言われたことはあったけど、こんな風に考えている ことを言い当てられたのは初めてだった。
「否定しないんだ?」
ラムさんが少し意地悪な表情で片方の口角をつり上げる。
「本当に消えちゃいたかった?」
「そう、ですね。……そんなようなことを考えていたので」
「ふぅん」
特に否定する理由が思い浮かばない。思っていたことは本当で、別に今日会っただけのこの人たちの前で嘘を吐く必要性も感じない。けれど、大人にとっては私の悩みなんて、きっとちっぽけなことに見えるだろう。
「とりあえずさ、敬語禁止!」
「へ?」
なんの脈絡もなく敬語禁止を言い渡され、私は間の抜けた声を漏らしてしまった。
「ここにはさ、んなもん必要ないんだよ」
ラムさんの黒い瞳にライトの橙色が差し込み、揺らめいて見えた。それが吸い込まれそうなほど美しく、自身の考えをしっかりと持っている意志の強さを感じて、私は見惚れてしまう。
「捨てちまいな」
「え……」
「窮屈な檻に閉じこもっていたら息苦しいままだよ。思いっきり息吸って、楽をしようよ。そんでー、美味い酒呑めばハッピーになれるってぇ!」
とびっきりの明るい声と笑顔でラムさんが笑い出すと、ラムさんの隣にいる黒さんとグラスを拭いていた皐月くんが大きなため息を吐いた。
「大事なのは笑顔でいることと、ハッピーでいることだー! いえーい」
「ラムちゃん、零れるからグラス置いて!」
「あ、ちょっとー! 黒さん強引なんだけど!」
両手を上げて楽しそうにバンザイしているラムさんは、テレビとかで見るような酔っ払いそのものだった。まだ日も落ちていないのに、お酒を飲んで酔っ払っているラムさんは普段どんなことをしている人なのだろう。
「ショーコちゃん」
不意に、まるで慈しむように、大事に名前を呼ばれた気がした。
優しく包み込む声音に吸い寄せられるように私を呼んだ人物を見ると、メガネ越しに相手と視線が合った。
「消えたいと思うなら、消えたくない理由をつくればいい」
「理由?」
「そう」
丸メガネのおじいさん――マスターが、目尻にしわを寄せ、にっこりと微笑んで私の前にカップを置いてくれた。
「たとえば、珈琲を飲みたい……とかね」
カップの中に入った濃褐色の液体から、ゆらりと湯気が立ち上る。ほんのりと焦げたような、ほろ苦い匂いがした。
「え、あの、これ」
「どうぞ」
「……いただきます」
鼻を少し近づけて、香りを肺いっぱいに吸い込むと肩の力が抜けていく。こんな風に意識して珈琲の匂いを嗅いだのは久しぶりだ。
すぐ傍に白いミルクポットとガラス瓶に入った角砂糖が置かれる。ミルクポットに触れると、人肌くらいに温められていた。甘い珈琲は苦手なので、角砂糖は入れずにミルクを ほんの少しだけ垂らす。
濃褐色の液体の中に白が渦巻いていく。完全に混ざり合うのを待たず、私は珈琲に口をつけた。
「……美味しい」
「これじゃあ、理由になんてならないかな?」
そんなことない、と私は首を横に振った。
珈琲はマスターの笑顔みたいに温かくて、心が落ち着く優しい味がする。学校帰りによく寄っていたファミレスやファストフードの珈琲とはまったく違う。チョコレートのように風味が濃厚でまろやかで、少しずつ混ざっていく柔らかなミルクが、ほろ苦さを和らげていくようだ。体の奥にじんわりと染みわたるその味わいに、自然と口元が綻んだ。
「なんだ。笑えるじゃん」
「え?」
「ずっと暗い顔してたから笑えないのかと思った」
振り向くと、いつのまにか私の隣には皐月くんが立っていた。先ほどの冷たい態度のこともあり、つい身構えてしまう。どう返事をしたらいいか迷っていると、ラムさんが興奮気味に大きな声を上げた。
「〝ショーコは笑った顔の方が可愛いよ〟だって! やだもう、皐月ったら熱いねぇ」
「言ってない。ラムさん、耳もおかしいんじゃないの? 酒の飲みすぎ」
「そんなんじゃモテないぞー! どうせショーコにも、店の前でキツイこと言ったんじゃないのー?」
「それは……」
「ほら、やっぱりねー」
まるで子どもの口喧嘩みたいだ。私に対して冷たい態度で素っ気なかった皐月くんは、ラムさんの前では表情を崩してムキになって話している。それは仲がよくて気を許している存在だからこそだろう。
「ごめんね、ショーコちゃん」
「え?」
「いつもこんな感じなの。うるさいでしょう?」
手を合わせて謝ってくる黒さんに、私は首を横に振った。
「そんなこと……ない、よ」
敬語を抜いたぎこちない言葉使いに、黒さんはなにも言わずに微笑んでくれた。
うるさいというよりも、賑やかで眩しく感じる。自分が彼らとはまったく違う世界の人間に思えて、この場にいることに違和感を覚えた。
「皐月はその口の悪さを直さないと彼女の一人もできないよ! あたしが高校生のときはねぇ」
「はいはい、それ聞き飽きた」
「最後まで聞け!」
「うるさいうざい静かにして」
皐月くんとラムさんの関係を羨ましく思いながら眺めていると、波立っていた感情が凪いでいることに気づいた。
家や学校とは違って、ここには私を知る人がいない。気を張らなくてもいいから、心が休まるのかもしれない。
「もー、二人ともそのへんにしておきなさい。ショーコちゃんに笑われているわよ」
特に会話に混ざっているわけではない。だけど、この場所にいるだけで気持ちが落ち着く。心地がいい。ここには学校で痛いくらい感じる彼女たちの視線もない。
こんな風に笑うのなんて……いつぶりだろう。
ラムさんが私の頭をまるで壊れ物にでも触れるようにそっと撫でてくれた。
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