一章 名前のない喫茶店④


「可愛らしいお嬢さん、お名前は?」


 そう私に聞いてきたのは、カウンター席にいる二十代前半くらいの金髪の女の人だった。ホットパンツに胸元がざっくりと開いたTシャツ、といった露出の高い服装をしているため、目のやり場に少し困ってしまう。


「……吉田です」

「下の名前は?」

「祥子です」


 私が名前を答えると、女の人はほんのりと赤くなった頬に手のひらを重ね、とろんとした目つきで上から下まで舐めるように私を見てきた。


「へえ……そっかぁ。なるほどねぇ」


 ふんわりと巻かれた金色の髪は右側に寄せられ、露わになっている左耳にはゴールドチェーンのピアスが揺れている。先端についた 紫色の石がライトに反射してキラリと光った。

 自分にはない艶めかしさを感じて、心臓が大きく脈打ち緊張で手に汗を握る。仕草や視線がとても色っぽくて、同性なのにすごく魅力的に映った。


「ね、ショーコちゃん。あたしの隣においでよ」

「え? あの」

「ほら、来なって。ね?」


 いきなり下の名前で呼ばれたことにうろたえながらも、催促されたので言われるがまま彼女の隣に座る。


「あたしの飲み物飲むー?」

「えっと」

「てかさ、ショーコちゃん高校生?」

「はい。あの、高二です」

「うわー! まじか。生女子高生とか久々だよ。どっきどきだわ!」


 女の人は声を上げて豪快に笑い、私の肩に腕を回してグラスを目の前に置いてきた。

 結露しているグラスには、茶色の液体と丸い氷が入っている。

 麦茶にしては少し色が濃いように見えるけれど、ウーロン茶にしては薄い気がする。丸い氷は橙色のライトの光が差し込んで、キラキラと輝いて見えた。まるでガラス玉みたいだ。


「こら、ラムちゃん」

「あー……」


 横から伸びてきた手によってグラスが取り上げられると、女の人は気の抜けるような声を出した。


「もう! 未成年にお酒を薦めちゃダメでしょう!」


 私の肩に腕を回している女の人、ラムさんを叱ったのは、彼女の右側の席に座っていた女の人だった。

 目の前に置かれた飲み物がお酒だったとは知らず、あのまま飲まされていたらどうなっていたのだろうと少し不安を覚える。もしかすると、ラムさんって人は酔っ払っているのかもしれない。


「はあ、もー……黒さんは頭が固いなぁ。つっまんなーい」


 黒さんと呼ばれた細身の女性は名前の通り、内側に巻かれた短めの黒髪に黒ぶちのメガネ、真っ黒なワンピースを着ている。

 傍には先ほどおじいさんが出したオレンジ色の飲み物が入ったグラスが置いてあり、おそらくそれはオレンジジュースだろうと思った。


「固いとかじゃなくて、常識的にそういうことはダメなの。まったくもう」

「はいはぁい、べっつに本気じゃないっての。あたしだって大人なんだから~」

「どうだか。……ショーコちゃん、よね?」


 ふわりと表情を柔らかくして微笑んだ黒さんは、穏やかな口調で私に話しかけてくれた。ラムさんは色っぽいお姉さんって感じだけれど、黒さんはおおらかで面倒見のよさそうなお姉さんという印象だ。


「珈琲は好きかしら」

「えっと……はい」


 私が小さく頷くと、黒さんが丸メガネをかけたおじいさんに「マスター、彼女に珈琲を一杯」と頼んでくれた。マスターと呼ばれた丸メガネのおじいさんは、優しげな笑みを浮かべて頷くとカップを取り出した。

 そんなやり取りの間もずっと鋭い視線が突き刺さるので、おそるおそるそちらを向いてみると、案の定先ほどの男の子が私のことを睨みつけている。

 どうやら彼にとって私は気に入らない存在みたいだ。


「なんだよ、皐月! さっきからずっと熱い視線送っちゃって。ショーコちゃんに惚れたか?」

「はあ?」

「やっだー! どきどきしちゃう。青春だねぇ」


 どうやら彼の名前は皐月というらしく、ラムさんにからかわれると眉間にしわを寄せて舌打ちをした。


「うるさいうざい、酒飲みすぎて目ん玉腐ったんじゃない」

「うへー、まじで生意気」


 彼は私にだけでなく、他の人にも悪態をつくようだった。ラムさんたちが和ませてくれた柔らかな雰囲気で私の中の怒りが静まり、彼に対して言い返したかった文句が消えていく。


「この酔っ払い」

「なんだ、このガキ!」


 お互いを罵り合っていて会話は決して仲よさそうには聞こえないけれど、嫌っているようにも見えない。このふたりはこういう会話が通常なのかもしれない。

 少しだけ、彼らのような間柄が羨ましい。

 私が築いてきた人間関係は、些細なきっかけで簡単に崩れてしまった。他人とこんな言い合いなんてしたこともなく、いつも心のどこかで周囲の顔色を窺っていた。

 仲がよかった頃に買ったお揃いのキーホルダーも、今ではただ私の心を抉るだけのものになっている。彼女たちにとって私は、簡単に切り捨ててもいいような、使い捨てみたいな存在だったのだと痛感した。


「で、ショーコちゃんは〝なにか嫌なこと〟でもあったのかしら?」

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