一章 名前のない喫茶店③


 眉根を寄せて聞き返す。開口一番に名前を聞かれることなんてそうそうない。

 店員であれば、お店の前に立っていた人に対してまず『いらっしゃいませ』と言うのが自然なはずだ。それなのに私の方が失礼なことを言っているかのように、彼は不服そうな表情をしている。


「だから、名前。わかんないの?」


 何故刺々しい態度をとられているのか理解できなかった。すぐに答えなかった私への嫌味のつもりなのだろうか。どのような理由にせよ、こんな言い方をしてくるのはどうかと思う。


「吉田、です」


 困惑しつつも、正直に自分の名前を告げる。多少口元は引きつってしまったけれど、なるべく顔に出さないように心がけた。あまり揉めたくはない。

 すると、目の前の男の子は眉間にしわを深く刻んで、心底嫌そうに言葉を吐き出した。


「迷ってんなら帰れよ」


 言葉を返すよりも先に彼は店内に戻っていき、乾いたベルの音を鳴らして扉が閉まった。その場に取り残された私は、あまりに驚愕な出来事に開いた口が塞がらない。

 初対面の相手にあんな態度をとられたのは、生まれて初めてだ。

 戸惑ったものの、すぐに腹立たしさを覚える。自分の言動を思い返してみても、私が彼に対してなにか失礼なことをしたとは思えない。失礼なのはむしろ相手の方だ。

 おそらく店員である彼が、お客になるかもしれなかった私に向かってあんな言い方をするのは非常識で、不快感がこみ上げてくる。

 怒りがふつふつと湧き、お弁当箱が入った小さなトートバッグを強く握りしめる。先ほどまで入る気なんてまったくなかったのが嘘のように、私は錆びた丸いドアノブを回して扉を開けた。


 乾いたベルの音を響かせて店内に足を踏み入れると、そこには 橙 色の温かな世界が広がっていた。

 こじんまりとした店内の天井には、モザイクガラスでできたトルコランプがたくさんぶら下がっている。ランプの光は、天井や漆喰の壁を青や橙、緑などに彩り、美しい陰影を生み出していた。まるで万華鏡の中に入り込んだみたいだ。

 異国情緒溢れる空間に、思わず感嘆の声を漏らす。

 今までこんなにお洒落な喫茶店になど入ったことがなかった私にとって、ここは幻想的な空間で、すっかり見入ってしまった。


 ひとしきり眺めたところで、店内の視線が私に集まっていることに気づき、息を飲む。

 ダークブラウンのテーブルと椅子が四セットあり、カウンターには二人の女性が座っている。カウンターに囲まれた調理場には、先ほどの男の子と、丸メガネをかけたおじいさんがいた。


「いらっしゃい」


 私に優しく声をかけてくれた丸メガネのおじいさんは、白いシャツの上に黒のベストを着ている。オレンジ色の液体をグラスに注いでカウンターにいる女性に出していたので、ここの店員みたいだ。


「……来たんだ」


 先ほどの男の子が嫌そうに顔を歪ませて私を睨みつけた。すかさず店員のおじいさんに「こら、そういうことを言ってはいけないよ」と窘められている。やっぱり態度が悪い。


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