一章 名前のない喫茶店②
薄暗い水底に静かに沈んでいくように、誰にも気づかれずに姿をなくしてしまいたい。
このまま焼けつくアスファルトに、じわりと焦がすように溶けてもいい。どんな方法でも構わないから、この世界から「私」という存在を消してしまいたかった。
気づけば、私は大きな坂の前まで来ていた。
焼けつくような日差しを全身に浴びながら、家とは逆方向にある、普段はまず登ることのない坂に足を踏み入れる。
今日はまっすぐ家に帰る気分ではなくて、どこか遠くへ行ってみたかったのだ。
顔の輪郭を撫でるように垂れる汗を、ポケットから出したハンカチで拭う。少し登っただけで、もう息が上がって足が重たくなってきた。高校生になって、あまり全力を出したりはしなくなったから、すっかり運動不足になっている。
基本、みんなの口癖は〝面倒臭い〟だ。
一生懸命に頑張ることはかっこ悪い。そんな決めつけをして、必死になっている人を陰で笑っていた。
本当は、心のどこかで自分もなにかに必死になりたかったのに。
そうやって私も周りに合わせて浮かないことを意識して、適当にやり過ごすことを覚えてしまった。
スカートのポケットの中で携帯電話が振動し、心臓が大きく跳ねる。
短い振動はなにかの通知のはずだ。誰かからメッセージが届いたのかもしれない。不安と恐れと期待が入り混じった気持ちで、ポケットの中の携帯電話を取り出す。
「……っ」
ディスプレイに浮かび上がっている文字を見て、私は酷く落胆した。
〝アルバムが更新されました〟
その通知に心が締めつけられるように痛む。彼女たちの誰かから、もう連絡なんて来るはずがないことなんてわかっていたのに、傷つく自分が滑稽だった。
このアルバムのアプリは、まだみんなと仲がよかったときに登録したもので、そのままになっていたみたいだ。
彼女たちが更新するアルバムの中に、もう私はいない。当たり前だった友達の輪は、ちょっとしたことで簡単に壊れてしまう。
今のクラスに、私が友達と呼べる人は一人もいない。
友達がいなくなったことで、私の日常は瞬く間に変化した。バイトも部活もしていない私の生活の中心は教室だったため、休み時間も放課後も人と過ごすことがなくなり、初めて孤独というものを味わった。しかも、家の中でお母さんや新しいお父さんに抱いている疎外感とは違い、向けられる悪意に怯えて苦しむ日々。
こんな日々はいつまで続くのだろう。耐えていれば、彼女たちはいつか飽きてくれるのだろうか。
暗澹とした気持ちで坂を登りきると、平坦な道が姿を現す。
胸元まで伸びた黒髪が、緩やかに風に靡いてスカートが持ち上がった。けれど他に人の姿はないので、スカートを押さえることもせず、私はただ風を感じながら立ち尽くした。
心を落ち着かせるように目を閉じる。
坂道を登って体温の上がった身体が、少しだけ冷やされて力が抜けていく。――いっそのこと全部投げ出して、このまま楽になりたい……。
――カラン。
微かな音が聞こえた気がして目を開けると、視界の左側にアンティーク調のお店があった。登りきったときには気づかなかった。
外壁にはレンガが敷きつめられ、ダークブラウンの扉には〝open 〟と書かれたプレートがかけられている。そのすぐ隣にブラックボードが出ていて、白いチョークで『飲み物、ご自由にどうぞ』と書いてあった。
どうやらここは喫茶店のようだ。幼い頃からこの町に住んでいるけれど、坂の上に来る機会がほとんどなかったため、喫茶店がここにあることを今まで知らなかった。個人経営の小さなお店のように見えるけれど、店名がどこにも見当たらない。
店内の様子が見えないかと眺めていると、まるで私を迎えるかのように扉が開いて、「カラン」と乾いたベルの音が鳴った。
突然のことに思わず一歩後退る。中から現れた人物は私に気づくと、幽霊でも見たかのように顔色を青くし、目を大きく見開いたまま口元を引きつらせた。
私はどうしたらいいのかわからず、ただ相手の出方を窺いながら、じっと視線を合わせた。
短めの黒髪に、健康的な日に焼けた肌。はっきりとした目鼻立ちと、まっすぐな瞳からは意志の強さを感じる。私と同じくらいの年齢に見えるその少年を、どこかで見たことがあるような気がしたけれど、思い出せない。
白いシャツの上に黒いエプロンをつけた彼は、手に箒とちりとりを持っている。どうやらここで働いている人のようだ。
「あんた、名前は」
「え? 名前?」
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