青くて、溺れる
丸井とまと/ビーズログ文庫
一章 名前のない喫茶店①
帰りのホームルームが終わり、教室が一気に騒がしくなった。私は教科書とノートをカバンにしまおうとして机の中に手を入れる。
その瞬間、柔らかいなにかが指先に触れて、咄嗟に手を引いた。おそるおそる机の中を覗き込むと、歪な形をした手のひらくらいの大きさの物体を見つけた。不審に思いながらも、指先で摘んでそっと机の中から取り出す。
「――っ!」
悲鳴を上げそうになる声を飲み込んで、それを凝視した。
教室で下手に取り乱したくない。
激しく鼓動する心臓を落ち着かせようと深く息を吸い込む。けれど手の中にあるそれが見覚えのあるものだと気づいてしまい、膨れ上がった恐怖が蠕動していく。
その物体は、友人が好きだと言っていたうさぎのキャラクターのぬいぐるみで、私が誕生日にプレゼントしたものだ。けれど今私の手にあるぬいぐるみは、無残な姿になっている。
片耳が引き千切られ、腹部の生地も裂かれて綿が飛び出していた。顔は真っ赤なマジックかなにかで塗りつぶされている。変わり果てた姿にショックを受けるよりも先に、ぬいぐるみを切り裂くという行為ができてしまうことに慄然とした。
「ねえ、駅前のパフェ食べに行かない?」
「えー、また? 先週行ったじゃん」
「私も食べたい! 行こうよー!」
楽しげに放課後の予定を立てる女子三人の声に顔を上げた。
仲がよさそうに笑っている彼女たちと、手の中にあるぬいぐるみを見比べる。
犯人はわかっていた。このぬいぐるみをあげた子はあの中にいて、彼女たちは私を嫌っている。けれどここまでする必要があるのかと、私はぬいぐるみを握りしめた。
このままでは帰り道で一緒になってしまう。特に今は彼女たちとの接触を避けたい。
こんなことならさっさと帰ればよかった。
そう後悔しながら、私は彼女たちが先に教室を出るのを静かに待つことにした。
「最後の人は電気を消しておいてね」
先生の言葉に元気よく彼女たちが返事をする。最後になりそうだと私が席を立ち上がると、カチッと音がして蛍光灯がすべて消えた。
突然のことに動きを止めた私に、三人の冷ややかな視線が突き刺さる。私の反応を見て、今度は蔑むように笑うと勢いよくドアを閉めた。直接向けられた拒絶と悪意に、呆然と立ち尽くす。
――本当ならあの輪の中に私もいたはずだった。
駅前のパフェはオープン前から気になっていて、行こうよと私が三人を誘っていたのだ。けれど私だけそこに行くことはない。
あの頃はこんなことになるなんて思いもしなかった。手の中のぬいぐるみを見つめながら「酷い目に遭わせてごめんね」と心の中で謝る。
引き裂かれて傷つけられたぬいぐるみは、まるで私の心を表しているみたいで胸が苦しくなり、目の奥が熱くなってくる。
こんな場所で泣きたくない。涙を流したら、心がそのまま折れてしまいそうで怖い。
喜んでほしくて一生懸命選んだプレゼントが、こんな形で返されて、あの頃の気持ちもズタズタに引き裂かれたような思いになる。
目頭から溢れ出しそうな涙を指先で慌てて拭い、ぬいぐるみをカバンの中にそっとしまった。
私はひとりぼっちの教室から逃げ出すように、閉ざされていたドアを開けた。
学校の外に出るとアスファルトから立ち上る熱気が肌にべたつき、背中にじわりと汗が滲む。暦の上では秋になっているのに、うだるような暑さはなかなか落ち着かない。けれどいつのまにか、夏を象徴する蝉の鳴き声は聞こえなくなっていた。
私も蝉だったらよかった。そしたら夏が終わると同時に消えていけるのに――。
そんなどうしようもないことを考えて、鼻先で自分を嘲笑った。
日が傾き始め、透き通るような白藍の空に蜂蜜色が浸透していくのが見える。蒸し暑くても、だんだんと日は短くなっているみたいだ。
こうしていつのまにか風は熱を失い、苦い記憶を宿した夏が終わっていく。季節の移り変わりなんてあっというまだ。
止まっていた足を一歩進めると、カバンのキーホルダーがチリンと、か細い音を鳴らした。意識がそれに移り、再び気分が沈んでいく。
そういえば、まだつけたままだった。
存在を思い出されたキーホルダーは、私の手によって無造作に外される。頭の中に一瞬だけ楽しかった頃の思い出が甦り、眉根を寄せた。
気軽にお揃いの物なんて買うべきではなかった。思い出が形に残るのはいいことばかりではない。こんなことになるのなら、なにも残らないほうがマシだった。
それなのに、思い切って捨てる勇気すらない自分にも呆れてしまう。
キーホルダーをしまおうとしてカバンを開けると、先ほどの無残な姿のぬいぐるみが視界に入った。どうしてこんなことをしたのかと彼女たちに聞いたところで、納得のできる答えは返ってこないだろう。キーホルダーを奥底に押しやって、ため息を漏らす。
目を逸らしたい出来事から耐える毎日で、最近は楽しいことがなにもない。最後に心の底から笑ったのはいつだったのかも、もう思い出せない。
――消えてしまいたい。
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